1979 NR500 [NR1]
GP500ワークスロードレーサー

炎に包まれたデビュー戦

1979年のイギリスGPにてNR1で走行する片山敬済。彼は後年、「NRのエンジンは、スロットルコントロールは難しくなく、最初のやつから非常に乗りやすかった。それでトルクがどれだけあるのかということは別だけど」と語っている。(Photo/Shigeo Kibiki)

7月27日、朝霞研究所のNRブロックでは徹夜で作業が行われ、4台のNR1と大量のスペアパーツが国際航空貨物となってイギリスに向けて送り出されていった。この時点でのNR1は、最高出力が95PSで、車重は133kg。パワーウェイトレシオの目標値は1.08だったが、実際は目標を大きく下回る1.4であった。

デビュー戦となるイギリスGPを前に、NR部隊はドニントンパークとスネッタートンでテストを実施。ドニントンでは片山敬済がNR500にとって初めての転倒を喫した。彼は、シフトの渋さ、ギアの入りにくさを指摘していたが、あるときギアがニュートラルに入ってしまい、ブレーキングが間に合わなくなったのだった。

転倒車両は、NRプロジェクトがイギリスに設立したHIRCO(Honda International Racing Company Ltd.)の拠点に送られてフレーム修正が図られた。だが、NR1のモノコックフレームは弾性が強く、ジャッキやプレス機を使っても本来の座標にステアリングヘッドパイプを戻すことができなかった。そこで、モノコックを切断し再溶接するという荒業を繰り出すことでイギリスGPに間に合わせた。

デビュー戦イギリスGPにて。プラクティスを前にエンジンを暖機させようというとき、片山がエンジン始動の役を引き受けて、私服姿のままピットロードでNR1を押し出した。さらにそれを後ろから押しているのは、1977年から片山車のチーフメカニックを務めてきていた杉原真一と、1950年代から二輪レースで活動してきたベテランメカニックのカルロ・ムレッリ。(Photo/Shigeo Kibiki)

迎えたイギリスGPでは、恐ろしいほどの注目がNR500に向けられていた。エンジンは楕円ピストンらしいという噂も広がっていた。ホンダは作業に集中するため、サービステントとピットを閉め切った。

片山は押し掛けスタートの練習を繰り返していた。当時の世界グランプリロードレースは、ライダーがエンジンを押し掛けして開始される形態だったが、NR1の0Xエンジンの始動性はよろしくなく、スタートで出遅れることは必至と思われた。また、いざ練習走行や予選のセッションが始まっても、NR1はピットで止まっている時間がことさら長かった。整備性がひどく悪いためだった。

そして予選。ポールポジションはヤマハYZR500に乗るケニー・ロバーツで、1分29秒81をマーク。対して、片山のタイムは1分36秒74で38位、グラントは1分38秒04で41位。ともに250ccクラスのタイムより遅かった。

悲惨な予選結果を受けて入交昭一郎は、日本で留守番役を預かっていた車両開発リーダーの福井威夫に国際電話を入れ、中2週間のインターバルで迎える次戦フランスGPまでに、パワーを10馬力上げ、車重を10kg軽くしなければならないと伝えた。「そうしないと話にならない」と。

デビュー戦のスタート直後に転倒したグラントのNR1。燃料タンクから漏れ出たガソリンに火が着いて炎に包まれ、NR500の多難なキャリアを象徴するようなシーンを作り出してしまった。(Photo/Honda)

8月12日、イギリスGP決勝日は好天に恵まれた。500ccクラスのレースではロバーツが0.03秒という僅差でバリー・シーンとの歴史的な接戦をものにして優勝したが、その結果が出るはるか前にNR500のデビュー戦は終わっていた。

まず、押し掛けスタートで2台のNR1はそろって盛大に出遅れた。先にエンジンがかかったのは片山だったが、彼はチームメイトが追いついてくるのを第1コーナーの手前で少し待った。だが、グラントはなかなかエンジンをかけられずスタートしてこないので、片山は先行することにした。やがてグラント車もどうにか始動。勢い、スロットルを大きくあおったグラントのNR1はフロントを高々と上げてウイリー状態となった。

そのとき、ブリーザーからエンジンオイルが吹き出してリアタイヤに付着。ライダーはそのことに気づいておらず、前輪を着地させて走り出し、第1コーナーに向けて車体を寝かしていったところで造作なく転倒した。

横倒しの状態でしばらく滑走したNR1の燃料タンクからガソリンが漏れ出し、引火して炎が上がった。かくして、NR1の1台は1周目の第1コーナーさえクリアできずに初陣を終えた。また、もう1台の片山車も3周と持たなかった。こちらはイグニッショントラブルだった。