1979 NR500 [NR1]
GP500ワークスロードレーサー

「ほかと同じではおもしろくない」

text=KIYOKAZU IMAI

初代NR500の企画背景

テーマは「革新技術の創造と人材育成」

1979 NR500 [NR1](Photo/Shigeo Kibiki)

1969年、ホンダはドリーム CB750 FOURを発売した。それは二輪の市販量産車では初の並列4気筒エンジン車で、独創的なビッグバイクとして世界中で人気を博した。しかし、それに続いて市場をうならせるような車両をなかなか出せなかった。スポーツバイクが主力商品であるヨーロッパやアメリカでのホンダの二輪車販売は、1970年代に入って伸び悩んだ。

こうした状況の背景には、1960年代後半から1970年代序盤にかけてのホンダが、四輪事業の強化に集中的に当たるフェーズにあったという事情がある。おかげでホンダは、1970年代にシビアさが劇的に増した四輪の排気ガス対策や低燃費技術において他社に先んじたとの評価を獲得し、自動車メーカーとしての基盤を確たるものとしたのだった。

RCB1000は、1976年から1978年までのヨーロッパ耐久選手権の全レースで優勝。「強いホンダ」のイメージを再構築する役割を果たした。写真は、1976年ボルドール24時間でのユベール・リガル/ルネ・ギュイリ組のRCB1000。黄色のチューリップハットを被った人物は、RSCの社長を務め、RCBプロジェクトを指揮した秋鹿方彦。(Photo/Shigeo Kibiki)

四輪における難局を乗り越えたホンダは、企業としての原点である二輪事業の再強化に取り組んだ。1974年12月には二輪専門の開発機関である朝霞研究所(社内通称「HGA」)を本田技術研究所内に設立。また、休止させていた二輪レース活動の再開へと動いた。

ただ、この時点ではまだ二輪ワークスマシンの開発やレース活動の統括を担える組織がなかった。ロードレース世界選手権(通称「世界グランプリロードレース」)への参戦を1967年でいったん終了させたホンダは、ワークスマシンの開発部署であったレーサー設計室を解散させていたからだ。

そうしたなかでも国際的な二輪レース活動を再び展開しようということになったとき、ホンダが狙いを定めたのはヨーロッパ耐久選手権(※1980年より世界選手権に)だった。ハードルが世界グランプリより低く、それでいてブランドや商品のプロモーションに効果的だったからである。

出場車両の開発は、ホンダ車を使用するレース参加者に向けた競技用部品の開発・販売を主業務としていたモータースポーツ子会社 RSC(Honda Racing Service Center)が受け持つ体制が取られ、ドリームCB750 FOURのエンジンをベースにするRCB1000が作り出された。この耐久レーサーは1976年にデビューするやいなや勝利を重ね、結果的にはヨーロッパ耐久選手権を3年連続(1976~1978年)で全戦優勝により制するという活躍を見せることとなった。