ウイリアムズとHonda

F1復帰を果たしたHondaと、さらなる飛躍を求めたウィリアムズ。
両者が歩んだ5年間は、Honda初のF1タイトル獲得と、その後の黄金時代への礎となりました。

1983年、F2を戦っていたスピリットでF1復帰を果たしたHondaは、より高いレベルの戦いを望み、ウィリアムズとのジョイントを決断しました。その決定を下したのは、第2期Honda F1をF2参戦から計画し、プロジェクトの中心にいた川本信彦でした。当時、本田技術研究所の副社長だった川本は、第1期F1ではエンジニアとしてだけでなく、現場メカニックも経験した、自他ともに認めるレース通です。後に川本は、ウィリアムズとのパートナーシップについてこう語っています。

「レースで勝つには、絶対に必要な要素があって、“将”“兵”“戦略と戦術”そして“新兵器”がいる。フランク・ウィリアムズさんは必要な“将”だった」

同時にウィリアムズは前年のチャンピオン、ケケ・ロズベルグを擁するトップチームであり、パトリック・ヘッドを中心とした開発陣のレベルは高く、実績も十分だったこともHondaの決断を後押ししました。

一方、ウィリアムズにとってHondaとのジョイントはひとつの賭けと言えるものでした。Hondaは長い間F1から離れていたメーカーであり、その実力も情熱もまだ測れない状態だったからです。それでもターボ時代への対応は急務であり、コンストラクターズ・タイトルを2回獲ったとはいえ、F1フル参戦6年目のウィリアムズにとって、ワークスチームとなり、エンジン開発に関わり、エンジンが独占的に無償で手に入ることは魅力的でした。

両者の思惑と目標は一致し、1983年8月にパートナーシップ締結を発表しました。

苦闘の船出とダラスでの初勝利

1983年、最終戦南アフリカGPでウィリアムズ・ホンダがデビューしました。エンジンはスピリットに搭載されたRA163Eの信頼性を高めた仕様でした。デビューレースでケケ・ロズベルグは5位入賞を果たし、テスト参戦の意味が強かったレースで一定の成果を得ることができたのです。RA163Eは、F1復帰に向けて参戦したF2エンジンをターボ化したもので、F1で初めて電子制御式燃料噴射システムを採用していました。川本の言う「新兵器」のひとつで、Hondaはハイパワー時代をこの技術でリードし、後にF1のスタンダードとなる技術のパイオニアでした。

期待が膨らんだ1984年シーズン、Hondaエンジンは大きな壁に直面しました。それは、当時のHondaにはまだ知見の少ないターボチャージャーとエンジンの熱問題、そしてこの年から導入された燃料搭載量の制限です。ターボのトラブルと、熱によるトラブルが多発し、リタイアを余儀なくされるレースばかりでした。エンジン冷却に燃料を多く使うHondaエンジンはトータルでの燃費が悪く、220ℓに制限された燃料搭載量によってHondaパワーはそのポテンシャルを発揮しきれないこともありました。

苦しいシーズンでしたが、第9戦ダラスGPでロズベルグがウィリアムズ・ホンダの初優勝を飾りました。酷暑のサバイバルレースを、ロズベルグらしい豪快なレースで制し、Hondaに第2期初の勝利をもたらしたのです。初勝利を得たものの、HondaはRA163Eの改良型だったRA164Eの限界を知るシーズンでもありました。根本的な問題解決には、新しいエンジンが必要であることを認識し、それを実感したことが参戦実質1年目の成果だったのかもしれません。

当時のHondaエンジンについて、ウィリアムズのテクニカルディレクターであるパトリック・ヘッドは「最初はかなり厳しい戦いになることは覚悟していた。彼らのエンジンは圧縮比が非常に低く、エキゾーストパイプが長い。そして高ブーストだった。ブーストオフの時にはパワーがゼロのような状態だが、ブーストがかかりパワーが出るとそれは急激にドッカンとくる特性だった。それで並のハンドリングのマシンを作ることはとても困難だったよ」とエンジニアらしいコメントを残しています。

RA165Eがもたらしたブレイクスルー

ターボ特性という経験不足の領域とともに、ビッグボアによって高回転域で発生する異常燃焼によって、ピストンやシリンダーが熱で破壊されてしまうことが、RA164Eの問題の主因でした。解決策としてHondaはスモールボア×ロングストロークのエンジンを開発し、テストを開始しました。ヨーロッパでのテスト走行の後、鈴鹿サーキットで最終テストを行い、ドライブしたナイジェル・マンセルは新エンジンを高く評価。そしてHondaはこのエンジンの実戦投入を決定しました。このRA165Eは、ボア×ストロークのコンセプト変更だけでなく、各パーツの信頼性を見直し、新たな冷却システムも採用。そしてエンジンの作動状態をセンシングする計測システムも導入しました。これは翌年より高度なテレメトリーシステムとして完成する「新兵器」の先駆けとなるものでした。

急ピッチで開発、製造が進められたRA165Eは、1985年第5戦カナダGPで実戦デビューを果たし、4位入賞を獲得。第6戦デトロイトGPでは第2期2勝目となる優勝を飾りました。その後、初期トラブルによるリタイアが続きましたが、シーズン終盤の第14戦ヨーロッパGPでマンセルが自身F1初優勝を果たすと、第15戦、第16戦とロズベルグが連勝し、RA165Eの競争力の高さを証明したのです。終盤3連勝で着せた速さは圧倒的と言ってよいもので、その後に訪れるHondaパワーの躍進を予感させるに十分なものでした。

念願の初タイトル獲得

1986年、ウィリアムズにネルソン・ピケが加入し、ウィリアムズ・ホンダはチャンピオンの有力候補となりました。しかし、シーズン開幕直前にウィリアムズに激震が襲います。フランスのポール・リカール・サーキットでのテストからの帰路、代表のフランク・ウィリアムズが交通事故で重傷を負ったのです。チーム代表が前線を離れたことで危機感を持ったチームは結束と士気が高まり、開幕戦でピケが移籍初戦を優勝で飾ると、ウィリアムズ・ホンダは圧倒的な速さを見せます。Hondaはセンシングシステムを熟成させたテレメトリーシステムを導入したRA166Eを投入し、さらに競争力を強化していました。第5戦ベルギーGPでマンセルが自身2勝目を挙げると、以降ピケ対マンセルの優勝争いが激化しました。チームメイト同士が勝利を分け合う形となり、激しさを増すドライバーズ・チャンピオンシップをよそに、コンストラクターズ・チャンピオンシップは最終戦を待たずに第14戦ポルトガルGPでウィリアムズ・ホンダが栄冠獲得を決めました。Hondaは、第2期参戦3年目にして、念願のタイトル獲得を果たし、Hondaパワーが世界の頂点に駆け上がったことを示したのです。

一方、ドライバーズ・チャンピオンシップの決定は最終戦まで続きました。最多5勝を挙げポイントリーダーのマンセルは、3位以上でタイトル奪取という非常に有利な状況です。レース終盤マンセルは3位を走行し、タイトル獲得をほぼ確実にしたと誰もが思っていた64周目、最高速を記録するバックストレートでマンセルのマシンの左リヤタイヤが突然バースト。マシンを見事にコントロールし、大事には至りませんでしたが、マンセルのレースは終了し、ライバルであるアラン・プロストが優勝し逆転でチャンピオンを獲得しました。ウィリアムズ・ホンダのダブルタイトル獲得は、まさかの展開で阻まれたのでした。

頂点を極めた最後のシーズン

1987年、ウィリアムズは前年のFW11を大きく改良したFW11Bを投入しました。空力を向上させ、ライドハイト(車高)コントロールを行うアクティブサスペンションを導入したFW11Bは、より競争力を高めたマシンに仕上がりました。HondaエンジンRA167Eは、ハイパワー抑制策としてこの年施行されたターボの過給圧制限(最大過給4.0bar)に対応した仕様で、Hondaは吸入効率を高める新技術を導入し、パワー抑制策を無効化するほどのハイパワーを実現したのです。

結局、圧倒的な速さに磨きをかけたウィリアムズ・ホンダは、9勝を挙げシーズンを制圧しました。一方で、チーム内ではピケとマンセルの不仲が公となり、マンセルを優遇するチームに不満を持ったピケは、シーズン途中に移籍を表明。Hondaとウィリアムズのパートナーシップ交渉もうまくいかず、Hondaはウィリアムズとの契約継続を断念し、翌年からのマクラーレンへのエンジン供給を決断します。頂点を極めたウィリアムズとHondaのパートナーシップは、4シーズンで幕を下ろすことになりました。

ドライバーズ・チャンピオンシップは、勝利数ではマンセルが6勝を挙げ、ピケの3勝を上回っていましたが、2位7回という安定した戦いを展開したピケがポイントでリード。そして第15戦日本GP予選でマンセルはS字コーナーで大クラッシュを喫し負傷、終盤2戦を欠場し、ピケのチャンピオン獲得が決まりました。前年取り逃したダブルタイトルを獲得したウィリアムズ・ホンダは、コンストラクターズ・タイトル2連覇を達成し、4シーズンで23勝を挙げる大躍進を遂げて、F1史にその名を刻みました。

Honda F1第2期において、初期の難所をともに乗り越えたウィリアムズとHondaは、頂点まで登り詰める成功を収め、そしてそれぞれが新たな別の道を進み、再び頂点を極めることとなります。Hondaはその後、マクラーレンとともにコンストラクターズ。・タイトル4連覇を果たし、その次の時代の主役はウィリアムズが担いました。

「Hondaは当初、多くのミスを犯しながら、多くを学んでいった。そして、彼らは同じミスを決して繰り返さなかった」。名将フランク・ウィリアムズが、かつてともに栄光をつかんだパートナーの印象をこう語っています。