Hondaとともに完成した「勝利を追求したドライバー」

アラン・プロスト

緻密な戦略と卓越したレースマネジメントで「The Professor(教授)」と称されたアラン・プロスト。
Hondaエンジンとの出会いは、その才能をさらに開花させ、マクラーレン・ホンダ黄金時代を支える大きな力となりました。
知性で勝利をつかんだ名ドライバーの軌跡をたどります。

アラン・プロストは、アイルトン・セナとともに1980年代のF1を象徴するドライバーです。そして、このふたりは対極と言ってもいいくらい、異なるスタイルで勝利を重ねていきました。華麗なオーバーテイクや限界を超えたアタックで観客を魅了するセナに対し、プロストはレース全体を設計し、勝利への最短距離を描き、着実に実行することに長けたドライバーでした。プロストは、その知性あふれるレース運びから、「The Professor(教授)」の異名で呼ばれるようになります。

プロストの最大の武器は、速さそのものではなく、速さをコントロールする能力にありました。タイヤを必要以上に摩耗させず、燃料消費を正確にマネージメントし、マシンに無理を強いることなくレース終盤まで競争力を維持。そして、本当に勝負すべき瞬間だけペースを上げて、効率良く結果を残すのがプロストのスタイルでした。彼がこうした戦いをするようになったきっかけは、1984年にチームメイトだったニキ・ラウダと争い、わずかな差でチャンピオンを逃したことでした。プロストはそれまでの速さと勝利をひたすら追い求めるスタイルを変え、勝てる時以外は着実にポイントを積み重ねることがタイトルへの道と悟ったようです。実際、1985年にプロストは初めてワールド・チャンピオンの座を獲得し、スタイルの変容が正しかったことを証明しました。その走りは一見すると地味に映ることもありましたが、シーズンを通して見れば、最も効率よくポイントを積み重ねる理想的なスタイルだったのです。

プロストの才能は、マシン開発の面でも際立っていました。プロストはクルマの挙動を非常に細かく分析し、エンジニアへ的確なフィードバックを行うことで、マシンを速く仕上げていく能力に優れていました。単なるドライバーではなく、開発者としての資質も兼ね備えていたことが、長年トップを走り続けられた大きな理由と言われています。

そして、運命ともいうべき出会いが1988年に起こりました。

プロストの属するマクラーレンへ、Hondaがエンジン供給を開始したシーズンです。前年までウィリアムズを圧倒的な強さに導いたHonda V6ターボエンジンが、マクラーレンMP4/4に搭載されました。設計を手掛けたスティーブ・ニコルズによる優れたシャシーと、Honda RA168Eの圧倒的な性能が融合したMP4/4は、F1史上屈指の名車となり、16戦15勝という驚異的な成績を残します。

プロストはHondaエンジンを非常に高く評価していました。圧倒的な最高出力だけでなく、アクセル操作に対する扱いやすさ、耐久性、そして燃費性能は、彼が理想とするレーススタイルに極めて適していたからです。タイヤや燃料をマネージメントしながらレース全体を組み立てるプロストにとって、扱いやすく信頼性の高いHondaエンジンは、勝利への強力な武器となりました。

しかし、その最強の武器は、同時に大きな試練も生み出します。1988年、マクラーレンにアイルトン・セナが加入しました。

セナは予選で圧倒的な速さを見せる一方、プロストは決勝での安定感を武器にポイントを積み重ねます。実際、年間総獲得ポイントではプロストがセナを上回りました。しかし、当時は有効ポイント制が採用されていたため、タイトルはセナの手に渡りました。

この頃からプロストの態度に微妙な変化が生まれ、チームメイトやチームに批判的な言動が出始めます。その対象には、Hondaも含まれていました。

Hondaの技術陣は、常に両ドライバーへ同じ仕様のエンジンを供給していました。しかし、セナはHondaのエンジニアたちと積極的にコミュニケーションを取り、日本人技術者とも強い信頼関係を築いていきました。一方のプロストは、必要な情報を論理的に伝えるタイプであり、エンジニアからの技術的な評価は非常に高かったものの、精神的な距離感という意味では、セナほど近い存在にはなりませんでした。

Honda側に特別扱いの意図はなかったものの、プロストは次第に「チームやHondaはセナ寄りになっている」と感じるようになります。その思いは1989年に入るとさらに強まり、チーム内の緊張は決定的なものとなりました。

1989年のサンマリノGPでは、スタート直後の順位を維持するというドライバー同士の紳士協定を巡って両者の関係が悪化。そして最終的には鈴鹿での接触という、F1史に残る出来事へとつながっていきます。

プロストは後年、「Hondaのエンジンは素晴らしかった」と何度も語っています。その一方で、「Hondaはセナとの結び付きが非常に強かった」とも振り返っており、技術への敬意と、人間関係の難しさのバランスが取れなかったことをうかがわせました。

それでも、Hondaとともに戦った2年間は、プロストのキャリアのなかでも最も充実した時代のひとつでした。Hondaの卓越したパワーユニットと、プロストの緻密なレースマネジメントの組み合わせは、速さだけでは勝てないF1の本質を表していました。

プロストは限界を超える勇気よりも、限界を見極める知性で勝利を積み重ねたドライバーでした。そして、その知性を最大限に生かすことのできたエンジンがHondaだったのです。1988年と1989年のマクラーレン・ホンダは、Hondaの技術力がセナの圧倒的な速さによる勝利と、プロストの戦略眼を活かした勝利を支え、F1史に残る記録を残したとともに、今なお語り継がれる黄金時代を築き上げたのです。