アイルトン・セナ、アラン・プロスト、
ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルが「四天王」と呼ばれ異彩を放った時代に、
「いぶし銀」の光を放つドライバーとしてF1を彩ったドライバーがリカルド・パトレーゼでした。
1977年にF1デビューを果たし、当初は荒削りでアグレッシブなドライバーでしたが、
経験を重ねて知性的でしぶといドライビングスタイルのドライバーへと変貌を遂げ、グラウンドエフェクト時代、
ターボ時代、そして電子制御が浸透する激動の時代と、17年間にわたりF1で生き抜きました。
その長いキャリアのなかで、ほんの一瞬、Hondaエンジンを搭載したマシンをドライブした経験も持っています。
1987年の日本GPでクラッシュし、負傷したマンセルの代役として、
最終戦オーストラリアGPに翌年ウィリアムズへの移籍が決まっていたパトレーゼが出場。
大荒れとなったレースを生き残り、終盤にマシントラブルでストップしましたが、
9位完走のリザルトを残す、パトレーゼらしいしぶとさを発揮しました。

Profile
- 名前
- リカルド・パトレーゼ(Riccardo Gabriele Patrese)
- チーム
- Canon Williams Honda Team(1987)
- 国
- Italy
- 生年月日
- 1954年04月17日
主な戦績
- 1976年
- イタリアF3選手権 チャンピオン/ヨーロッパF3選手権 チャンピオン
- 1977年
- ヨーロッパF2選手権 4位/F1世界選手権 19位(シャドウ・フォード)
- 1978年
- F1世界選手権 12位(アロウズ・フォード)
- 1979年
- F1世界選手権 19位(アロウズ・フォード)
- 1980年
- F1世界選手権 9位(アロウズ・フォード)
- 1981年
- F1世界選手権 11位(アロウズ・フォード)
- 1982年
- F1世界選手権 10位(ブラバム・BMW、ブラバム・フォード)
- 1983年
- F1世界選手権 9位(ブラバム・BMW)
- 1984年
- F1世界選手権 13位(アルファロメオ)
- 1985年
- F1世界選手権 NC(アルファロメオ)
- 1986年
- F1世界選手権 17位(ブラバム・BMW)
- 1987年
- F1世界選手権 13位(ブラバム・BMW、ウイリアムズ・ホンダ)
- 1988年
- F1世界選手権 11位(ウイリアムズ・ジャッド)
- 1989年
- F1世界選手権 3位(ウイリアムズ・ルノー)
- 1990年
- F1世界選手権 7位(ウイリアムズ・ルノー)
- 1991年
- F1世界選手権 3位(ウイリアムズ・ルノー)
- 1992年
- F1世界選手権 2位(ウイリアムズ・ルノー)
- 1993年
- F1世界選手権 5位(ベネトン・フォード)

Career
1954年イタリアで生まれたリカルド・パトレーゼは、8歳でレーシングカートを始め、1974年に世界カート選手権でチャンピオンを獲得しました。1975年に4輪レースへの参戦を開始し、フォーミュラ・イタリア選手権で3勝を挙げ、シリーズランキング2位の活躍を見せます。1976年にはイタリアF3選手権、ヨーロッパF3選手権とふたつのシリーズに参戦し、ともに4勝を挙げて、両選手権でチャンピオンを獲得しました。
1977年にヨーロッパF2選手権にステップアップし、優勝はできませんでしたが2位3回、3位2回の好成績でシリーズランキング4位となり、F1への道を切り開きます。主戦場はF2でしたが、シーズン途中でドライバーが離脱したシャドウから声がかかり、第6戦モナコGPでF1デビュー。この年は9戦に出場、最終戦の日本GPで6位となり、自身初のポイントを獲得しました。また、この年パトレーゼは全日本F2000選手権にも遠征して、最終戦の鈴鹿で勝利を飾っています。
1978年、アロウズのレギュラードライバーとなったパトレーゼは、若くアグレッシブなドライバーでした。時折速さを見せるものの、チーム力不足で上位争いを演じることはできず、厳しいシーズンが続きました。しかし、1981年まで在籍したアロウズでの4年間で、パトレーゼは実力と経験を身につけていきます。1981年の開幕戦では、自身初のポールポジションを獲得。結果はリタイアでしたが、続くレースで3位、その後も2位につけるなど、成長度の高さを示しました。その速さを認めたバーニー・エクレストンが、自身のチームであるブラバムへ招聘し、1982年からブラバムのレギュラードライバーとなります。
1982年、サバイバルレースとなった第6戦モナコGPで、パトレーゼは自身初の優勝を飾ります。この年はモナコを含め3度表彰台に上がり、シリーズランキングは10位。チームのナンバー1ドライバーであるネルソン・ピケを上回る成績を上げています。1983年は、シーズン前半はリタイアが続き、あまり結果の出ないシーズンとなりました。後半戦は持ち直し、最終戦南アフリカGPでは、自身2度目の優勝を獲得しています。
1984年、パトレーゼはアルファロメオに移籍しましたが、成績は低迷しました。2年間在籍したチームでほとんどポイントも得られず、2年目の1985年はノーポイントという苦しいシーズンを送りました。
1986年にブラバムに復帰したパトレーゼは、奇才ゴードン・マレーの意欲作BT55をドライブしますが、奇抜なマシンは当初トラブルが続出し、多くのリタイアを喫しています。1987年、チームはオーソドックスなBT56にマシンを変更しましたが、結果はともなわず、パトレーゼは移籍を決意、翌シーズンからウィリアムズに加入することが決まりました。
1987年当時、ウィリアムズは熟成が進んだHondaエンジンを搭載し、圧倒的な速さを見せていました。チャンピオン争いの主役だったナイジェル・マンセルは、最終戦前の日本GP予選で大クラッシュを起こし、最終戦も欠場を余儀なくされる事態となり、タイトル争いから脱落。迎えた最終戦、ウィリアムズはマンセルの代役として、翌年加入予定のパトレーゼを起用します。ウィリアムズは翌年からHondaエンジンではなく、自然吸気のジャッドを搭載することが決まっていたため、パトレーゼにとっては唯一のHondaエンジンによるレースとなりました。決勝は26台出走で完走9台というサバイバルレースとなり、終盤にトラブルに見舞われたパトレーゼは、ストップしながらも6周遅れの完走扱いで9位というリザルトを残しています。
1988年、ウィリアムズでの1年目はパワー不足で低迷しましたが、1989年からウィリアムズはルノー・エンジンを搭載して復調を果たしました。圧倒的な速さを誇ったマクラーレン・ホンダには敵いませんでしたが、ウィリアムズは2番手のポジションを堅守し、パトレーゼは6度の表彰台を獲得してランキング3位となりました。
1990年、第3戦サンマリノGPでパトレーゼは7年ぶりの優勝を果たしました。優勝のインターバルとしては記録的なもので、この記録はいまだに更新されていません。しかし、この後は表彰台はなく、ランキングは7位に終わっています。
1991年、マンセルがウィリアムズに復帰し、パトレーゼのチームメイトとなりました。ウィリアムズは次々と新たな電子機構を開発し、巻き返しを図る時期でした。1991年はオートマチックトランスミッション、1992年はトラクションコントロールやアクティブサスペンションといった新兵器を次々投入し、初期トラブルには見舞われたものの、次第にアドバンテージを確立していきました。チームの上昇機運とともにパトレーゼの成績も向上し、1991年はポールポジション4回、2勝を上げてランキング3位。1992年は、優勝は日本GPでの1勝にとどまりましたが、9回の表彰台登壇を果たして着実にポイントを重ね、自己最高位となるランキング2位を獲得しました。
1993年、ベネトンへ移籍したパトレーゼは、2回の表彰台を獲得するも、前年までの精彩を欠きランキングは5位。F1での活動継続を望んでいましたが、結果的にこの年で17年間にわたるF1生活に終止符が打たれました。

Records
Profile
- 名前
- リカルド・ガブリエル・パトレーゼ
- 生年月日
- 17/04/1954
- 出身地
- イタリア・パドヴァ
Race Wins
-
Total
0
-
Honda
0
Pole Positions
-
Total
0
-
Honda
0
Races ※1
-
Total
0
-
Honda
0
Podiums
-
Total
0
-
Honda
0
Retirements ※2
-
Total
0
-
Honda
0
Laps Raced ※3
-
Total
0
-
Honda
0
Laps Led ※3
-
Total
0
-
Honda
0
- ※1 レース数は、失格を含む。※2 リタイア数は、完走扱いと失格を含まない。※失格時の周回数は除外。
Formula 1.com、他リザルトデータより