ナイジェル・マンセル

1985-1987 Powered by Honda
Nigel
Mansell

情熱的で闘志あふれるナイジェル・マンセルは、
1980年代から1990年代にかけて活躍し、多くの注目を浴びたドライバーです。
1985年Hondaエンジンを搭載するウィリアムズに移籍すると、
マンセルの速さとアグレッシブな走りが開花し、トップドライバーとしての地位を確率しました。
1986年、1987年とウィリアムズ・ホンダのコンストラクターズ・チャンピオン連覇に大きく貢献。
そしてHonda 第2期F1の躍進を支えたマンセルは、毎年チャンピオン争いの主役となりましたが、
あと一歩で手が届かず、一時は無冠の帝王と呼ばれることもありました。
しかし、不屈の精神で1992年に念願のワールドチャンピオンを獲得、
翌年にはアメリカのCARTシリーズを制する快挙を達成しています。
マンセルのトレードマークである「レッド5」は、
豪快な速さと不屈の闘志の象徴として、多くのファンの記憶に残っています。

Profile
NigelMansell

Profile

名前
ナイジェル・マンセル(Nigel Mansell)
チーム
Williams Grand Prix Engineering(1985-1987)
United Kingdom
生年月日
1953年08月08日

Career

1953年イギリスで生まれたナイジェル・マンセルは、エンジニアからレーシングドライバーに転身した異色の経歴を持ちます。10歳でレーシングカートを始め、大学生時代の1976年にフォーミュラカーレースに参戦しました。大学を卒業すると、航空宇宙分野のエンジニアとして働きながら、1977年にフォーミュラ・フォード1600のイギリス選手権でチャンピオンとなり、1978年、1979年はF3やF2などに挑戦しますが、クラッシュによる大怪我や資金難により、苦しい時期を過ごしました。

1980年、ロータスでF1のテストドライバーに抜擢され、F2ではラルト・ホンダに加入すると、マンセルの未来に光が差し始めます。ロータスの創始者であるコーリン・チャップマンから才能を高く評価されたマンセルは、同年第10戦オーストリアGPでF1デビューを果たしました。この年3戦に出場し、レースを完走することはできませんでしたが、アグレッシブな走りを認めたチャップマンは、翌年のレギュラー昇格を認めました。そして、この1980年は、F1参戦の準備段階としてF2エンジンを開発し、実戦投入したラルト・ホンダをドライブ。第6戦シルバーストンから参戦し、最終戦ホッケンハイムでは2位表彰台を獲得しています。

ロータスでF1レギュラードライバーとなり、1984年までの4年間在籍したマンセルですが、この間はとてもフラストレーションの溜まる時期となりました。1981年、第5戦ベルギーGPで自身初入賞を3位初表彰台獲得で果たしましたが、それ以降は精彩を欠いたレースが続きました。1982年も第2戦ブラジルGPで3位になりましたが、それ以降は低迷。そして同年末にマンセルの理解者であったチャップマンが死去すると、マンセルの未来に暗雲が立ち込めました。代わってチームの指揮を取ったピーター・ウォーとマンセルの折り合いは非常に悪く、マンセルは不遇の時期を迎えたました。1983年第14戦ヨーロッパGPで3位、1984年第5戦フランスGPと第13戦オランダGPで3位となりましたが、リタイアが多く、結局ロータスでは1984年のランキング10位が最高位に終わっています。ウォーは新人アイルトン・セナ獲得を実現し、マンセルはチームを去ることとなりました。

1985年、マンセルの走りを評価するフランク・ウィリアムズに誘われ、マンセルはウィリアムズに移籍。マンセルはゼッケン番号を赤くし、「レッド5」が誕生しました。ウィリアムズは、前年からHondaエンジンをフルシーズンで搭載してレースに臨んでいました。第2期初期のHondaは、ターボ時代のハイパワーエンジンに挑んでいましたが、トラブルや性能に悩まされていました。ウィリアムズも新シャシーの初期トラブルに苦しみましたが、1984年に初優勝を果たし、1985年は飛躍を期すシーズンでした。マンセルは開幕から5戦で3度の入賞を果たしましたが、精彩を欠くレースが続きました。転期となったのは第5戦から投入されたHondaの新型エンジンRA165Eです。マンセルは第6戦からこのエンジンを搭載しレースに臨み、当初はトラブルやタイヤの摩耗に苦しめられましたが、シーズン終盤にサスペンションを改善して競争力が向上。マンセルはイギリスで開催された第14戦ヨーロッパGPで待望の初優勝を飾りました。続く第15戦南アフリカGPでも連勝し、最終戦オーストラリアGPではチームメイトのケケ・ロズベルグがシーズン2勝目を挙げ、ウィリアムズ・ホンダはシーズン終盤を3連勝で締めくくりました。

1986年、前年終盤の躍進を引き継いだウィリアムズ・ホンダは、シーズン開幕から速さを発揮しました。マンセルのチームメイトにチャンピオン経験者のネルソン・ピケが加入。シーズン開幕直前にチーム代表のフランク・ウィリアムズが交通事故で不在のなか、性格もスタイルも対照的なふたりによる争いに注目が集まりました。シーズン5勝を挙げたマンセルは、チャンピオン争いの中心でした。最終戦オーストラリアGPを迎えた時点で、2位のアラン・プロストに6ポイント差をつけトップで、タイトル争いはマンセル優勢の状況です。しかし、3番手走行中でタイトル目前のマンセルに悲劇が襲います。レース終盤に左リヤタイヤがバーストしてリタイア。プロストが勝利し、タイトルはプロストの手に渡りました。5勝を挙げ、ランキング2位は自己最高の成績でしたが、マンセルにとってあまりに悔しいシーズンとなりました。ドライバーズ・タイトルは逃したものの、ウィリアムズ・ホンダは念願のコンストラクターズ・チャンピオンに輝いています。

1987年もウィリアムズ・ホンダの勢いは止まらず、マンセルとピケによる優勝争いが激しさを増しました。マンセルは攻撃的な走りでレースを支配しますが、不運なリタイアで優勝を逃すこともあり、シーズン後半では安定したレースでポイントを重ねるピケにランキングで遅れを取る展開となります。12ポイント差で迎えた第15戦日本GPに逆転の望みをかけたマンセルですが、予選中にS字コーナーでコースアウトし大クラッシュを喫します。身体にダメージを負ったマンセルは日本GPと最終戦オーストラリアGPを欠場し、この年もタイトルを逃しました。ピケが3度目のワールドチャンピオンに輝き、ウィリアムズ・ホンダは2年連続コンストラクターズ・タイトルを獲得。Hondaは初のダブルタイトル獲得に貢献した記念すべきシーズンとなりました。

1988年、ウィリアムズはHondaエンジンを失い、ピケに代わりリカルド・パトレーゼが加入。マンセルはNo.1ドライバーの地位を得ますが、マシンの競争力は下がり、アクティブサスペンションの信頼性不足で成績は低迷しました。開幕戦ブラジルGPでは予選2位を獲得しましたが、決勝はリタイア。その後もリタイアが続き、第8戦イギリスGPと第14戦スペインGPで2位となりますが、レースでの完走はこの2レースのみに終わりました。

1989年、マンセルはフェラーリに移籍しました。移籍初戦の開幕戦ブラジルGPで優勝を飾りましたが、その後はリタイアが続きます。第7戦フランスGP以降は調子を取り戻し、連続で表彰台を獲得。第10戦ハンガリーGPでは、予選12位から怒涛の追い上げで、シーズン2勝目を果たしています。マクラーレン・ホンダの優勢が続いたシーズンで、マンセルはランキング4位となっています。

1990年、かつてタイトル争いを演じたプロストがフェラーリに移籍し、マンセルのチームメイトになりました。シーズンが進むと、チームの主導権を握りタイトル争いを行うプロストに対し、マンセルは低迷が続き、第8戦イギリスGPでリタイアを喫した後、突然引退を表明します。シーズン終盤、ジャン・アレジのフェラーリ移籍が発表されると、マンセルは引退を撤回し、ウィリアムズへの復帰を宣言しました。この年1勝に終わったマンセルはランキング5位となり、フェラーリでの戦いを終えました。

1991年、ウィリアムズは天才デザイナーと言われるエイドリアン・ニューウェイが手がけたFW14を投入し、競争力を一気に高めました。古巣ウィリアムズに移籍したマンセルは、序盤トラブルでリタイアが続きましたが、第4戦モナコGPで2位、第7戦フランスGPでシーズン初優勝を挙げると、第8戦イギリスGP、第9戦ドイツGPと3連勝を達成します。第12戦イタリアGP、第14戦スペインGPで勝利し、チャンピオン獲得の可能性を残したものの、第15戦日本GPでリタイアしてタイトル争いから脱落。3度目となるタイトル奪取への挑戦は、失敗に終わりました。

1992年、ウィリアムズは熟成し改良したFW14Bが絶好調で、シーズン序盤から圧倒的な速さを見せました。マンセルは開幕5連勝、第8戦フランスGPから第10戦ドイツGPで3連勝と、他の追随を許さない好成績を挙げ、第11戦ハンガリーGPで優勝は飾れなかったものの2位となり、チャンピオンに輝きました。悲願のタイトル獲得を決め、表彰台で男泣きするマンセルの姿は、多くのファンから賞賛を浴びました。そのわずか2戦後、第13戦イタリアGPで、マンセルは2度目の引退表明を行います。翌年の契約を巡り、チームとの不和が生じたとマンセルは説明。チーム代表は会見場でマンセルに翻意を促しましたが、マンセルはそれを無視して引退発表を続けました。そして、後にアメリカCARTシリーズへの転向を表明すると、イギリスのファンは激怒し、マンセルを失ったウィリアムズのファクトリーに押し寄せ、抗議のデモを行ったことが報じられています。

1993年、ニューマン・ハース・レーシングからCARTシリーズに参戦したマンセルは、開幕戦サーファーズ・パラダイスでポール・トゥ・ウィンを達成し、鮮烈なデビューを果たしました。この年、全16戦で7回のポールポジションと5回の優勝でシリーズチャンピオンを獲得。ルーキー・オブ・ザ・イヤーにも輝きました。

1994年もCARTシリーズに参戦したマンセルですが、ライバルチームの成長で成績は低迷し、シーズン終了後にチーム離脱を表明しました。この年、マンセルはF1にスポットで復帰もしています。アイルトン・セナの事故死後、混乱するF1の立て直しを図るバーニー・エクレストンはマンセルを説得し、復帰を実現させたと言われています。ウィリアムズから4戦に出場したマンセルは、最終戦オーストラリアGPで優勝を飾り、健在をアピールしました。

1995年、マクラーレンと契約したマンセルでしたが、コクピットの不具合で開幕2戦を欠場。第3戦サンマリノGP、第4戦スペインGPに出場しましたが結果は低迷し、マクラーレンから離脱を表明しました。1996年に向けて、F1での再々復帰を模索したマンセルですが、結局契約はまとまらず、事実上の引退となりました。

引退後はさまざまなカテゴリーのレースにスポット参戦したり、イベントで出走したりしていました。2010年にはル・マン24時間レースに息子たちと参戦しましたが、レース開始早々にクラッシュを喫し、リタイアに終わっています。

Career
Records

Records

Profile

名前
ナイジェル・アーネスト・ジェームズ・マンセル
生年月日
08/08/1953
出身地
イギリス/イングランド
体重
80kg
身長
180cm

Race Wins

  • Total
    0
  • Honda
    0

Pole Positions

  • Total
    0
  • Honda
    0

Races ※1

  • Total
    0
  • Honda
    0

Podiums

  • Total
    0
  • Honda
    0

Retirements ※2

  • Total
    0
  • Honda
    0

Laps Raced ※3

  • Total
    0
  • Honda
    0

Laps Led ※3

  • Total
    0
  • Honda
    0
  • ※1 レース数は、失格を含む
  • ※2 リタイア数は、失格を含まない
  • ※3 失格時の周回数は除外

Formula 1.com、他リザルトデータより

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