1968

空冷F1の出現と活動終了

1968年7月7日
第6戦フランスGP

HondaとF1、ひとつの時代の終焉

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夢か勝利か、分かれた思想

1968年、Hondaはイギリスに基地を置く実戦チームは軽量シャシーRA301を日英合作で進めていく一方、日本本社では本田宗一郎社長自身がHondaのオリジナリティを優先して空冷F1計画に邁進していた。6月、空輸寸前に羽田空港にて記者発表されたRA302は自然空冷V8エンジンを搭載し、前部にラジエターがないぶんスタイルも前衛的だった。しかし発熱量の大きいレーシングエンジンでは空冷システムでは冷却が間に合わず、英国シルバーストン試走の段階で「まだレースに出られるほど熟成されていない」という判断がジョン・サーティースによって下された。にもかかわらず、中村良夫監督も知らぬうちにフランスHonda名義で7月初旬開催の第6戦フランスGPに急遽追加エントリーされ、別スタッフによって舞台となるルーアン・レゼサールに運び込まれていた。ドライバーはスポーツカーレースやF2で活躍するフランス人ドライバー、ジョー・シュレッサー。このレースがF1デビュー戦となる。

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シーズン最高位と裏腹に起きた悲劇

フランス北部にあるルーアンは、1周6.5kmの公道コースでF1グランプリ開催は1964年以来。史上初のモータースポーツ・イベントとなった1894年パリ~ルーアン・トライアルの終着地もここだった。18台が臨んだフランスGP予選では、サーティースのRA301が1分58秒2で7位をマーク、対する空冷RA302のシュレッサーは2分04秒5で17位。ちなみにポールシッターのヨッヘン・リント(ブラバム・レプコ)は1分56秒1だった。

曇天下でレースはスタート。しかし間もなく雨が本降りとなる悪天候。この時レインタイヤを選択した3番グリッドのジャッキー・イクス(フェラーリ)がトップに立つ。インターミディエイトタイヤでスタートしたRA301のサーティースはリントとジャッキー・スチュワート(マトラ・フォード)の後退後、BRMのペドロ・ロドリゲスと激しい2番手争いを演じ、このシーズンを通してのベストリザルト2位を得る。一方今回がデビュー戦となったRA302は最後尾スタートから3周目にクラッシュし、ドライバーが死亡するという事態になった。

大きな臨界点を迎えたシーズン

この年のサーティースとRA301は、第4戦ベルギーGPではトップ独走するもリタイア。第9戦イタリアGPではポールポジションからトップグループ走行中に他車との接触によりリタイア、第11戦アメリカGPでは3位、最終戦メキシコGPでは余っていたスペアカーをヨアキム・ボニエに貸与し5位。Hondaとしては英国と日本でF1参戦体制が二分され、本領発揮できない状況だった。英国レース部隊と日本本社とのF1に臨む姿勢の違いは顕著となり、Hondaとしては4輪乗用車開発を急務とした理由で、F1活動はこの年限りで一旦休止となることが決まった。またF1界自体も、ビジネス面で大きな局面変化を迎えていた。自動車関連企業以外の大口スポンサーが登場し、F1は「走る広告塔」としてマシンカラーが商業的な意味合いに変化。ロータスがゴールドリーフ煙草の派手な金赤白カラーリングで登場し、以降は従来の国別に決められたナショナルカラーはどんどん廃れていくことになる。またフォード・コスワースDFVエンジンがどのチームでも購入できることになり、F1コンストラクターと自動車メーカーの関わり方も自ずと変わらざるを得なくなった。

シーズン終了後、中村監督はこの年をもって第1期Honda F1活動を休止する旨「Honda Racing」名で発表した。1968年限りでF1から去ったのはHondaだけでなく、アメリカのイーグルも、10年ほど前にミッドシップ革命で一世を風靡したクーパーも同様だった。

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