世界王者とのパートナーシップ
1967年9月10日
第9戦イタリアGP
ローラと共同開発のRA300がデビューウイン
© HRCフォード・コスワースDFV時代が訪れ、軽量化が課題に
3ℓF1時代の2年目となる1967年は、F1界にもHondaにも大きな変化があった。1966年秋になってHonda本社内ではF1活動予算の縮小が決定。一方、同年6月にフェラーリと喧嘩別れしたジョン・サーティースが中村良夫監督に「Hondaに乗りたい」旨のコンタクトをしてきた。これを機にHondaはサーティースと親密な英ローラ社内に前線基地を置く新体制「Honda Racing」として1967年はサーティースのワンカー参戦という方向性に決まり、12月5日に新体制が発表される。Hondaからは中村監督のみがイギリスに常駐し、メカニックも外国人が中心となり、日欧往復にかかる経費も抑えられることになった。
一方でF1は、米フォード資本によるV8エンジン、コスワースDFVの登場により大きなターニングポイントを迎えていた。元々は1966年シーズンに苦戦したロータスが企画したもので、1967年第3戦オランダGPでデビューウインを果たすと誰もが羨ましがる最速エンジンとなった。90度V8、初期型にして400馬力、シンプルで軽量。そして翌年以降は希望エントラントにはコスワースを通して販売も開始されることとなり、多くのコンストラクターがDFVを搭載して積極的にF1参戦することになる。
一方、RA273はいかんせん重すぎた。開幕戦南アフリカGPで3位、第6戦イギリスGPで6位、第7戦ドイツGPは4位となったものの、軽快なロータス・フォードやブラバム・レプコ、フェラーリやイーグル・ウェスレイクには太刀打ちできない状況で、「Honda Racing」は英国前線基地にて大改造作業に踏み切る。7月には日本から佐野彰一(シャシー担当)と久米是志(エンジン担当)もこのためにイギリスに呼ばれた。1965年同様にマシンの大改修が行われることになったが、今回は英国で改修が行われ、その内容は前年インディ500優勝車だったローラT90のモノコック前半部を流用し、RA273Eエンジンを合体させるというものだった。ローラ側もエリック・ブロードレイ代表や若手エンジニアのトニー・サウスゲートらが加わり、RA300とネーミングされたこの改良マシンは8月末に完成。車重は590kgまで軽量化され、白地に入る赤いストライプのカラーリングも一新された。
© HRC僅差バトルを勝ち抜き、Honda F1が2勝目
第8戦カナダGPを欠場し、次戦第9戦イタリアGPの予選にはRA300に加えRA273もスペアカーとして持ち込まれた。サーティースはRA300の初期トラブル対策の間RA273でも走ったが、最終的にRA300で戦うと判断。このニューマシンによる予選結果は18台中9位だった。スリップストリーム合戦レースとなるモンツァでは予選順位はさほど重要ではない。
スタート1周目で10番手に落ちたサーティースだが、レース序盤はセカンドグループ内でフェラーリ、クーパーやマクラーレンとスリップストリーム合戦を展開して14周目までに4番手まで進出。トップグループを形成していたジム・クラークとグラハム・ヒルのロータス・フォードがトラブルで脱落および後退すると、最終ラップはジャック・ブラバム(ブラバム・レプコ)との一騎打ちになった。最終ラップの右まわり最終パラボリカ・コーナーでブラバムがイン側に飛び込み一瞬前に出るが、立ち上がりでアウトにはらんだ隙に、クロスラインをとったサーティースが最後のストレートではイン側、ブラバムはアウト側に並んだままの加速合戦となる。両車ほぼ同時にチェッカーフラッグを受けるが、サーティースがブラバムを0.2秒差でかわす劇的な展開だった。
サーティースにとっては1966年最終戦メキシコGP以来久々の勝利。Hondaがかつてマン島TTや2輪世界選手権に挑戦し始めた1950年代末時点のチャンピオンライダーがサーティースであり、その頃はイタリア製MVアグスタに乗っていたことから、モンツアでのサーティース人気は非常に高い。もともとイタリアGPでのティフォシたちの熱狂ぶりは他のグランプリ以上だが、劇的な逆転劇もあいまって、レース終了後の表彰式では観客がコースになだれ込んでの大騒ぎとなった。表彰台上では、この年のモナコGPで焼死したフェラーリのエース、ロレンツォ・バンディーニの夫人も登壇し、新設「バンディーニ・トロフィー」をかつての僚友であるサーティースに手渡した。
© HRCRA300は2年前のRA272改と同様に、秋開催の東京モーターショーに展示され、一躍脚光を浴びる。Hondaはこの年春に販売を開始した354cc強制空冷4ストローク2気筒の軽自動車N360の大ヒットにより、日本中に「エヌコロ」ブームを巻き起こし、着実に4輪量産メーカーへと成長しつつあった。