1966

3ℓ規定マシン開発に苦戦

1966年9月4日
第7戦イタリアGP

新規定対応の出遅れがネックに

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3ℓ新規定がシーズンに波乱を巻き起こす

1961年から5年間続いた1.5ℓF1時代がHondaの初優勝とともに閉幕した後、1966年からはいよいよ排気量を倍増した3ℓエンジンF1時代が開幕する。1954~1960年のF1が2.5ℓエンジンだったので、「パワー復権」といった趣である。これを受けてコベントリー社は資金難もあり3ℓのクライマックス・エンジンを作らない旨発表。それまでのクライマックス搭載チームはどの代替エンジンを選択するかで戦績が左右されるという勢力図が読めない事態となった。

エンジンもシャシーも自製するチーム、例えばフェラーリ(スポーツカーで得意としてきた60度V12エンジン)、BRM(180度V型8気筒を上下に重ねたようなH16エンジン)、Honda(新設計縦置き90度V12エンジン)にしても、目標の350~400馬力にはなかなか届かず、シーズン前半は暫定版を併用するチームが多かった。フェラーリなら2.4ℓV6エンジン、BRMなら2ℓV8などだ。

一方、エンジンを他社に委ねざるを得ないクライマックス元ユーザーたちは、新たなパートナー探しにひと苦労する。ロータスはBRMと提携したものの、H16エンジン熟成までの間はクライマックス製2ℓV8を搭載して戦った。クーパーはイタリア製マセラティ3ℓV12を早くから獲得していたものの、優位とは言い難い。ブラバムはジャック・ブラバムの故郷オーストラリア製レプコ社が手掛けたV8エンジン(ベースはGMオールズモビルのアルミブロック)を使うが、SOHCでわずか300馬力程度のパフォーマンス。しかし他車より信頼性抜群だったのが奏功し、シーズン半ばの連勝により堂々とチャンピオンに就く。自身40歳にして3度目のタイトル(1959~1960年はクーパー)、自らの名前を冠したマシンに乗って王座に就いた者はF1史上唯一ブラバムしかいない。どのチームも熟成不足気味で完走率が低かったなか、それを逆手に取って信頼性勝負に出た老獪な作戦勝ちだった。

現役F1ドライバーが自らコンストラクターとして名乗りを上げた最初はブラバムだが、このF1改訂期に乗じて別のふたりが同じ路線を歩み始めた。アメリカ人のダン・ガーニー(車名はイーグル)とニュージーランド人のブルース・マクラーレンで、ふたりともブラバムの元チームメイトであり、その成功に感化されたかたちだ。ガーニーは英ウェスレイク製V12エンジン、マクラーレンは米フォードのインディ用V8エンジンのサイズダウン版で臨戦した。

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ヘビーウエイトもハイパワーが光る

Hondaの新型RA273は7月になってようやく完成した。シャシーはフルモノコック式に改められ、ホイールベースが他車よりやや長めの2510㎜ではあるものの、特に大柄ということもなく、カラーリング変更もあってスタイリッシュな印象になった。そして今度は縦置きとされた気筒当たり4バルブ90度V12エンジンは久米是志・入交昭一郎・川本信彦が中心となって設計し、他車を圧する400馬力を絞り出すと豪語した。ただし大きな難点は車体も含めた総重量の重さだった。出走20台中14台が3ℓエンジン搭載車となった第7戦イタリアGPで車検時の重量データを比較すると、BRMが695㎏、クーパー・マセラティが615㎏、フェラーリが612㎏、イーグル・ウェスレイクが595㎏、ブラバム・レプコが554㎏。当時の最低重量規定は500㎏だ。そして公称650㎏のHonda RA273は実測743㎏と言われており、チャンピオンマシンとなるブラバムより189㎏も重かった。

RA273は1台のみ完成直後8月初旬の鈴鹿でのテスト走行もそこそこに、イタリアへ空輸された。リッチー・ギンサーのみがエントリーして予選は1分32秒40の7位。ポールポジションタイムからの1.10秒落ちは、マシン重量からすると上出来と言えよう。決勝でもギンサーはスタートで4番手にジャンプアップし、13周目には2番手にまで進出するが、重量級マシンに超高速サーキットのモンツアではタイヤが耐えきれず、18周目にバーストして大クラッシュ。マシンはシャシーが折れ曲がるほどのダメージだったが、ギンサーは自力でマシンから降りることができ、鎖骨骨折だけで済んだのは不幸中の幸いだった。

続く第8戦アメリカGPと最終戦メキシコGPにはギンサーとロニー・バックナムの2台体制で臨み、メキシコGPではギンサーが4位+最速ラップを記録する。そして1964年デビュー時から続いてきた「Honda R&D」としての参戦は、この年で一旦終了する。

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