1965

初勝利への邁進

1965年6月13日
第3戦ベルギーGP

雨のスパで初ポイントを献上

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RA271の正常進化版で参戦

HondaのF1初入賞は1965年の第3戦ベルギーGP、雨のスパ・フランコルシャンで成し遂げられた。6位になり1ポイントを獲得したのは、前年夏のドイツGPでのデビューから数えて5戦目だ。

初のF1フルシーズン参戦となるHondaは、ユニークな横置きV型12気筒の前年型RA271をベースとしつつも、足まわり(リヤサスペンションのスプリングをアウトボード化)や整備性向上等、細部に改良を施した新型RA272で臨んだ。ドライバーは前年同様のロニー・バックナムに加えて、経験豊富なアメリカ人リッチー・ギンサーを迎え入れて2台体制へと強化。これまでF1タイヤは5年ほど事実上英国ダンロップの独占供給だったが、この年から新たに米国グッドイヤーが参入し、ブラバムとHondaの2チームがこのニュータイヤを採用した。チーム監督は中村良夫から関口久一(1960年代初頭、マン島TTレースや2輪世界選手権参戦時のチーフメカニック)に交代している。

開幕戦(1月1日)南アフリカGPは準備不足により参戦せず、Hondaは5月末に開催された第2戦モナコGPからエントリー。だが初経験の市街地サーキットに手こずることになり、予選では2台ともグリッド最後列スタートにとどまった。決勝レースでもギンサーは1周目にドライブシャフトを折ってしまい、バックナムもレース前半でギヤリンケージの故障でいずれもリタイアという結果に終わった。

そして迎えた第3戦ベルギーGP。舞台となるスパ・フランコルシャンは、ベルギーとドイツの国境近く、「アルデンヌの森」に設られた1周14.1㎞もある公道サーキットで、1924年にスパ24時間ツーリングカーレースが初開催された由緒ある場所だ。温泉を意味するスパの語源はここの地名から来ていることでも知られている。1970年代までは、フランコルシャン、スタベロー、マルメディという3つの村を繋ぐ一般公道が舞台だったが、高速すぎて危険とされ、1980年代以降は短距離化され現在のレイアウトまで進化した(それでも1周7.004㎞ある)。スパ・ウェザーと呼ばれる山岳地帯特有の気まぐれな雨に見舞われることが多く、雨が降ればそこらじゅうに川や水たまりができて危険性はさらに高まる。そして1965年F1グランプリ決勝日は、そのあいにくの雨模様となった。

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強豪とバトルし6位に食い込む

曇天の予選では20台中、ギンサー4位(3分49秒0)、バックナム11位(3分52秒3)と、他車と戦えるレベルまで来ていた。ちなみにポールシッターのグラハム・ヒル(BRM)は約14㎞のコースを3分45秒4で走り抜け、その平均速度は225km/hに達した。当時のスタート位置は難所オー・ルージュの少し手前、ラ・スルスを抜けた下り坂の途中にあった。そのピット上には各国の国旗が掲げられ、当然この年は「日の丸」もはためいていた。

スタート直後の半周ほどはポールポジションから好スタートを切ったヒルがリードしたが、予選2位ジム・クラーク(ロータス・クライマックス)がこれを抜くと、すぐに後続との差を開いていく。1962年以降F1主流エンジンとなっていた英コベントリー・クライマックス製V8エンジンは通常2バルブ仕様だったが、ロータスのクラーク車だけには最新4バルブ仕様が与えられている。クラークと2番手との差は一時80秒にまで広がるが、その後ペースをコントロールしたのか、32周後のゴール時には45秒となっていた。どちらにせよ完全な独走で、クラークは実にベルギーGP4連覇を成し遂げた。2位にはクラークと同じ英国スコットランド出身の新人ジャッキー・スチュワート(BRM)が、4周目に先輩ヒルを抜き去って食い込んだ。彼は今回がF1デビュー3戦目、それも雨のスパでノーミスの走りが光った。3位はブルース・マクラーレン(クーパー・クライマックス)。ヒルは結局5位でフィニッシュ。

Hondaも奮闘していた。序盤戦ギンサーは、クラーク、ヒル、スチュワート、ジョン・サーティース(フェラーリ)に次ぐ5番手を走行。6周目にサーティースが脱落した後に4番手に上がるが、7周目にはマクラーレンに、14周目にはジャック・ブラバム(ブラバム・クライマックス)に抜かれ、結局1周遅れの6位でフィニッシュする。当時は6位までが入賞で、HondaとしてはF1挑戦以来、初の入賞の記念すべきレースとなり1ポイントを獲得した。一方、バックナムはスタートから9周でギヤボックスが壊れてリタイアを喫している。

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1965年10月24日
第10戦メキシコGP

1.5ℓF1最終戦で意地の優勝

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シーズン途中でマシン改良

HondaがついにF1初優勝を遂げた。RA272改を駆るリッチー・ギンサーが全周トップを快走するという奇跡的な展開だった。HondaにとってはF1デビューから1年3カ月、わずか11戦目での快挙だった。高地メキシコ・シティという特殊な条件を味方につけての快進撃だったが、1.5ℓF1「最後の一戦」に臨むHondaの執念が成し得た勝利だった。

Hondaにとって勝負の年である1965年シーズンも半ばを迎えた時点で、入賞は6位の2回のみ。そこでHonda陣営は8月の第7戦ドイツGPを欠場し、日本でRA272の改造作業を敢行した。横置きV12エンジンの搭載位置を20度前傾させて全体的な重心低下を図り、モノコック後端から伸びる鋼管フレームの設計も一新、ボディもスマートに改修し「RA272改」となってシーズン終盤3戦を迎える。杉浦英男(本田技術研究所所長)が監督となって臨んだ第8戦イタリアGPと第9戦アメリカGPでは所期の快走が果たされぬまま推移する。本田宗一郎社長自ら訪れたアメリカGPでは、ギンサーの7位が精一杯だった。

そして迎えた1.5ℓF1最終戦となる第10戦メキシコGP。首都メキシコ・シティに設けられた1周5㎞コースは、1962年開設という比較的新しいサーキットだ。海抜2200mという高地あるサーキットゆえに気圧は低く、エンジン調整が難しく、レギュラーチームにとってもノウハウは少ない。Hondaにとってはそこが狙い目だった。

この年のチャンピオンは第7戦ドイツGP終了時点で早々とジム・クラーク(ロータス・クライマックス)に決定済み。自身1963年に次ぐ2度目の戴冠だった。そのクラークが今回も予選でポールポジションを奪ったが、4バルブ仕様のクライマックスV8エンジンが不調で、2バルブ仕様に換装して臨む。なおフェラーリのエース、前年王者のジョン・サーティースはスポーツカーレースで重傷を追い欠場している。

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中村監督の戦略が大当たり

Honda陣営は今回の最終戦に臨み、F1計画を初期から推進してきた中村良夫がチーム監督に復帰した。この年1965年は市販車開発に注力せよとの社命で現場から距離を置いていた中村だが、長い苦戦脱却のため、自ら再び志願した。Honda入社前には中島飛行機のエンジニアだったこともあり、高地でのエンジン調整は得意技だった。チーム全員が早めに現地入りし、主催者と交渉してHondaチームだけ2日前からテストを繰り返しスタッフの士気を鼓舞した。当時はこのような事前テストも可能だった。

予選ではギンサーが3位、ロニー・バックナムが10位。快晴無風のなかでのレースは、スタート直後にポールシッターのクラークが失速して集団に飲み込まれる一方、2列目スタートのギンサーは長い直線後に控える1コーナーまでに先頭に立つと、1周目終了時に早くも2番手以下に180mもの差をつけトップを快走する好調ぶりを見せた。2番手争いは序盤戦マイク・スペンス(ロータス・クライマックス)とダン・ガーニー(ブラバム・クライマックス)によって争われたが、20周目以降はガーニーが抜け出し、先行するギンサーを追う。王者クラークは8周しただけでエンジン不調を起こし戦線離脱。ギンサーとRA272改は第6戦オランダGPでも序盤トップを走ったが、その後はペースが落ちて6位に終わっていた。ところが今回のはまったく違った。

65周で競われるレース中盤過ぎの時点で、ギンサーは依然リードを保ち、5秒差でガーニーが追う。途中、ピットインで大きく遅れたジャック・ブラバム(ブラバム・クライマックス)がギンサーの前に立ちはだかり、僚友ガーニーを援護する場面もあったが、ギンサーはひるまずこれをかわした。残り10周を切り、ペースを上げたガーニーは57周目に1分55秒84という予選トップタイム以上のラップタイムを叩き出して追走。するとギンサーもまた56秒台に入れて応戦した。スタートから2時間8分後、チェッカーフラッグはカーナンバー11、Hondaに振られた。そして、その僅か2.89秒後に2位ガーニーが駆け抜けた。

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Hondaにとって初の、大きな1勝

終わってみれば全周トップでのF1初勝利。ギンサーはこれまで4年半のF1キャリアで2位フィニッシュ8回が最上位だったため、今回の勝利で「万年2位」を返上した。

Hondaにとっても、ギンサーにとっても、グッドイヤーにとってもF1での初優勝だった。もう1台のHonda、バックナムも奮闘し5位となり、自身初入賞を果たした。

中村監督は日本へ「Veni Vidi Vici(来た見た勝った)」と、古代ローマ時代のユリウス・カエサルの戦勝報告と同じ文面で電報を送る。テレビもインターネットもない時代、月曜日のHonda本社と本田技術研究所はこの勝利に沸いた。

敗戦後20年の日本ではこの時期にモータリゼーションが急速に進み、マイカーブームが起きつつあり、晴海で開催されていた第12回東京モーターショーに「RA272改」が急遽展示されることになる。F1でのこの勝利は、2輪メーカーとして名を馳せたHondaが4輪メーカーとしても大きく認められるようになる起爆剤となった。