初めて尽くしのF1挑戦
1964年8月2日
第6戦ドイツGP
初挑戦は難関ニュルブルクリンク
終盤クラッシュも13位完走扱いに
© HRC最難関コースでのF1初挑戦
1964年8月2日、アジア初、日本初、そしてHonda初のF1マシンがF1グランプリにデビューした。ドイツ中西部のアイフェル山中に1927年に設けられた難コース、ニュルブルクリンクがその舞台となった。“ノルトシュライフェ”と呼ばれる1周22.8kmもあるアップダウンの多いこの山岳コースは現在でも“グリーンヘル”としてドライバーの聖地として君臨し、176ものタイトコーナーが続く狭いコース幅、4輪とも宙に浮くジャンピングスポットと名だたる難コースとして知られる。F1初挑戦の場として、これほど過酷な場所はない。しかし言い換えれば、処女作マシンの問題点を早期に発見し対処するのに、これ以上格好の場所もない。
しかし、F1ドライバー団体であるGPDA(Grand Prix Drivers’ Association)からは、HondaのドイツGP参戦について否定的な意見も出ていた。このレースがデビュー戦となるアメリカ人ドライバーの新人ロニー・バックナムと実戦未経験のHondaが、ニュルブルクリンクでいきなりレースするのは危険ではないかというものだ。予選中にオランダ人ドライバーのカレル・ゴダン・ド・ボーフォール伯爵(ポルシェ)がクラッシュし決勝翌日に亡くなるなど、当時は確かに危険が隣り合わせだった。この意見に対し、ダン・ガーニー、フィル・ヒル、リッチー・ギンサーら同胞アメリカ人ドライバーたちがバックナムの腕前を保証することで解決する。
全10戦で競われる1964年シーズンの第6戦に当たるドイツGP。初挑戦の場では予選からトラブルが多発した。金曜1回目の走行ではキャブレター不調により10分04秒1がベスト、午後には9分34秒3まで縮めたもののオイルパン割損に見舞われた。土曜午前は走り始めてすぐにエンジンが焼き付きコース脇にストップ。セッション終了後にようやくピットまで牽引されてきたが、RA271は整備性に難があり、スペアエンジンに交換するのに4時間は必要だった。そのため午後のセッションは走れず、予選義務周回5周未満となってしまい決勝出走すらできない。Hondaの中村良夫監督が主催者に直談判したところ、たまたま地元期待のドイツ人選手ゲルハルト・ミッター(ロータス)も5周未満だったことから、救済措置として土曜夕方に特別セッションが設けられ、Hondaはそれを利用してデビュー戦を迎えることができた。
© HRC最後尾から11番手まで追い上げも
薄曇りでやや風が強いなか、4-3-4隊形のスターティンググリッドに就いたマシンは全部で22台。初参戦のHonda RA271は、予選最後尾で7列目右端に並んだ。1列目右端に就いたポールシッターのジョン・サーティース(フェラーリ)のタイムが8分38秒4であるのに対して、バックナムのタイムはほぼ1分遅れだった。
決勝レースは15周。スタート直後のコース形状は折り返すようにぐるりと右に回り込んでいて、ピット裏ストレートを走り去った後、長く険しいノルドシュライフェ(北コース)へと突入する。テレビモニターも何もない時代、約10分後に目の前に戻って来るまで各ピットは戦況を知ることすらできず気を揉みながら待つしかない、そんな時代だった。
レース序盤戦は、ジム・クラーク(ロータス・クライマックス)、ダン・ガーニー(ブラバム・クライマックス)、サーティース、グラハム・ヒル(BRM)がトップグループを形成し、5番手以下を離していった。1周目を終える寸前、サーティースが一気に首位を奪う。必死に食い下がるガーニーにとって不運だったのは、前部ラジエターに紙切れが張り付いてオーバーヒートしたことだ。クラークも7周でエンジントラブルにより脱落。以後はサーティースの独壇場となり、前年に続いてドイツGP連覇を達成した。2位にヒルが入り、3位にはロレンツォ・バンディーニ(フェラーリ)が食い込む。
そんな展開のなかで、バックナムが駆るHondaは着実に順位を上げていった。レース序盤にしてピットインやリタイアするドライバーたちが多かったこともあるが、ラップチャート上では、1~4周終了時13番手、5~7周12番手、8~11周11番手。そのラップタイムも3~6周目の9分30秒台から、7周目以降20秒台に入り、ベストラップは11周目の9分22秒0。しかし12周目のカルーセル手前地点でクラッシュし、コース脇の土手にぶつかって左両輪を失った。当初はバックナムのドライビングミスとも思われたが、後にステアリング破損(ナックルアームの疲労破損)が原因だったと判明する。レースの3分の2を走っていたため完走と認められ、Hondaの初レースは13位となった。
© HRC1964年9月6日
第8戦イタリアGP
Hondaパワーの真髄を垣間見せる
© HRC2号機を急遽間に合わせて参戦
デビュー戦でクラッシュしたHonda RA271は、1ヵ月後の第8戦イタリアGP出走を目指し、急遽日本で2号車の製作に入った。基本的には1号車と同仕様だが、トラブルが出た12連キャブレターは自社製の低圧吸入管常時噴射式インジェクションに変更された。
マシン完成に時間を要し、東京からの発送が遅れ、さらに飛行機の遅延もあり、ミラノ空港での通関時刻に間に合わず、これでは現地の予選時間には間に合わないという状況だったが、通関担当官の恩情により真夜中にモンツァ・サーキット到着という綱渡り状態でイタリアGPに出走を果たした。
そのような状況とは裏腹に、金曜日に走り出してみると、前戦とは打って変わってすぐに好タイムが出た。モンツァはパワーがものを言う高速コースだ。このコースにシケインが設置されるのは1970年代に入ってからのことで、それ以前はひたすら直線と高速コーナーを駆け抜ける平坦な5.75kmコースだった。毎年ここでは各車集団を作ってのスリップストリーム合戦となる。非力な1.5ℓF1時代は特にその効果は大きかった。
デビュー2戦目のロニー・バックナム駆るRA271は、予選では25台中10位に食い込んだ。決勝進出は20台で、ポールポジションのジョン・サーティース(フェラーリ)からは3秒遅れの1分40秒4。予選2日目の土曜日は雨となり、もしRA271のモンツァ入りが一日遅れていたら雨の予選からの出走となり、決勝進出は逃していたかもしれない。
© HRC序盤で5番手まで順位挽回
決勝レースは78周の長丁場。Hondaのバックナムはスタートでほぼ最後尾まで遅れたが、ここから怒涛の追い上げを展開する。ラップチャートによれば、1~2周目は16番手だが、3周目15番手、4~5周目13番手、6~7周目12番手、8~10周目11番手、11周目9番手、12周目7番手と、まさにゴボウ抜き状態だった。あっという間に第2集団に追い付いただけでなく、13周目に入った直線では、ジャック・ブラバム(ブラバム・クライマックス)とジャンカルロ・バゲッティ(BRM)をも抜いて、第2集団の先頭となる5番手にまで上昇したのである。しかしそこでブレーキのフェードが酷くなり、翌周たまらずピットイン。止まり切れずにピットの停止位置を通り過ぎてしまうほどの状態で、しかもエンジンのオーバーヒートも併発しており、無念のリタイアとなってしまった。
この間に上位陣でリタイアがあったわけでもなく、自力で5番手にまで追い上げるHondaの快進撃に誰もが驚いた。チームとしても完走狙いではなく、どこまで行けるか思いっきり走れとの指示を出しての成果だった。
© HRC誰もがHondaパワーを意識した
レースは地元フェラーリのサーティースがドイツGPに次いで優勝を果たし、チャンピオン争いに加わり最終戦メキシコで逆転王座を奪うことになる。シリーズランキング2位ブルース・マクラーレン(クーパー・クライマックス)、3位バンディーニ(フェラーリ)、そして0.1秒差で表彰台を逃したリッチー・ギンサー(BRM)が4位。バックナムがリタイアした時には、3位4位の両者よりも上位にいたのだ。特にギンサーは、Hondaの走りに深い感銘を受けていた。
バックナムのベストタイムは7周目の1分41秒5。トップグループ4車のこの時のタイムが1分40~41秒台なので、ほとんど遜色ない速さをHondaは見せた。デビュー2戦目のマシンとドライバーということを考えれば、実に驚異的な快走だった。さらに1.5ℓという排気量規定ゆえV8エンジンが圧倒的に多かった当時(フェラーリが新開発180度V型12気筒エンジンを予選では走らせたが)に、Hondaの60度V型12気筒エンジンが発する高回転の排気音は独特の高音を発し、「ホンダ・ミュージック」と呼ばれ親しまれることとなる。
このレースはHonda陣営としても十分な手応えを得た一戦となった。しかし翌1965年は、1961年から始まった1.5ℓF1時代の5年目を迎え当レギュレーションの最終年となる。横置きV12レイアウトという革新的なアイデアでF1参戦するHondaにとっては、早く結果を残さなければならない状況だった。
© HRC