Hondaの求心力となった第1期F1活動
© HRC1961年の本田宗一郎のF1現地視察は、Hondaがまだ四輪生産を開始していなかったにもかかわらず、欧州のモータースポーツ界に衝撃を与えた。その年の二輪ワールドグランプリで、Hondaは125と250の2クラスの初チャンピオンを同時に獲得している。挑戦開始から3年目の快挙であった。Hondaは純利益の12.5%にあたる5億円をレース予算に投入し、猛烈な技術力を発揮して、たった3年間でチャンピオンの座を獲得したのである。もしHondaが、その技術力と資金力をもってF1への挑戦を開始するのであれば、ただちに大きな脅威になると、欧州チームは身構えざるを得なかった。
1950年に制定されたF1グランプリ世界選手権に、1961年時点で参戦していた欧州のF1チームは10チーム。そのうち自動車メーカーはフェラーリとポルシェの2社で、他のロータスやクーパー、BRMなどのチームは、レーシングカー専門のコンストラクターであった。つまり巨大な自動車メーカーのチームがいなかった。1947年創業のフェラーリにせよ、1948年に自動車生産を開始したポルシェにせよ、高級スポーツカーを少量生産する小規模なメーカーであった。この2社とほぼ同時期の1948年に創業したHondaは、世界一の大量生産を行う二輪メーカーへ成長したことで、企業規模も大きかった。
ただしフェラーリもポルシェも他のレーシングカー・コンストラクターも、自動車を発明した欧州の技術文化を土台にしている。それは蒸気自動車以来200年ほどの圧倒的な歴史をもっている。1930年代に自動車生産を始めたばかりの日本と、比べものにならないぐらいのぶ厚い歴史と技術文化を有していた。そのような欧州チームからみれば、Hondaは素人同然の新参者であった。だがルーキーであっても、情熱と技術によって既存チームを打ち負かすことができると証明したのが、Hondaの二輪グランプリでの勝利だった。このHonda二輪が開拓した、モータースポーツの世界選手権を制覇する道程を、四輪で追走していったのが第1期Honda F1活動であった。
そのことを裏づけるのは、二輪の世界チャンピオンとF1チャンピオンの両方を獲得した史上唯一の人物であるジョン・サーティースの回顧録である。サーティースはHondaがF1に挑戦するのであれば、欧州チームは負けてしまうだろうから、せめての救いとしてメーカー・チームのフェラーリへ移籍したと明言している。二輪グランプリの現場でHondaの驚異的な活躍を目の当たりにしていた彼ならではの分析と判断だ。そしてそのサーティースは第1期HondaF1活動の後半に、みずから望んでHondaドライバーになっている。
© HRC2輪では7度の世界王座獲得、F1でも1964年にチャンピオンに輝いたサーティース。1967年からはHonda F1で活躍した。
勝っても負けてもHondaの矜持は守られた
本田宗一郎の心中にあったのは、四輪メーカーになったのだからF1グランプリに参戦するというシンプルな動機であり、「やれば勝てる。やらなければ勝てない」という現実的な心情であった。しかしHondaが乗り越えなければならなかったのは、技術的な問題よりむしろ情報通信と物流の壁であった。1960年代のF1グランプリは年間10戦ほどが組まれており、その大半が欧州大陸各国で開催され、欧州外へ出るのは南アフリカ、アメリカ、メキシコぐらいであった。欧州を本拠地とするF1チームは情報通信と物流に苦労しないが、日本のHondaはそうはいかない。
この時代は、最新鋭のジェット旅客機で行っても日本から欧州まで2日がかりだった。物流にしても船便は時間がかかりすぎるので、高額のエアカーゴを使わざるを得ない。緊急の部品輸送は人間が旅客機で持参するハンドキャリーになる。そもそも物流に時間をとられて開発の時間が削られてしまう。通信情報も困難だった。レース現地と日本の通信は、雑音だらけの国際電話と電報とテレックスだった。ファクシミリもインターネットもない時代だから、正確で円滑な情報伝達が困難であったことは言うまでもない。
レース現場のHondaの技術者たちは、この大きな不利を個々の主体性でカバーし活動を続けていた。最終的にイギリス・ロンドンに執行役相当の駐在者を派遣して、提携工場を設けて車体開発と製造の機能をもたせ、日本でエンジンを開発してロンドンへ輸送するチーム運営システムを確立した。このような合理性と主体性は第1期Honda F1活動の1964年から1968年まで貫徹されたが、その勇猛果敢な活動が世界と日本のレースファンに今日まで愛されているのは、そこに人間味あふれるスポーツマンシップがあったからである。小手先のハッタリを嫌い、無我夢中でレース活動をするが、心をひらいてF1グランプリとその人びとを尊重する姿勢は、本田宗一郎とHondaの持ち味であって、ライバルチームから技術的相談を持ち込まれるほど尊敬される存在になっていった。
© HRC1967年からは、英国ローラカーズの車体開発協力によって、“ホンドーラ”RA300も登場した。
本田宗一郎は「勝って1位をとれ。2位は負けのトップにすぎない」と言い切るボスであったが、それは単純な勝利至上主義ではなかった。ギャンブル性や気まぐれな時の運が勝敗を左右し、情熱と努力だけでは割り切れない勝負の世界で戦う時に、失ってはならない人間性と道徳を堅持する方法として常に勝利を求めた。勝利のために汗と油にまみれて一心不乱に働くことで、勝っても負けてもHondaの矜持が守られる。だから本田宗一郎は口喧しく勝利を求めたが、負けた者を責めたりはしなかった。勝てなかった人の立場に立って、その心を人一倍理解する器量があった。
何よりも魅力的だったのは、Hondaのなかで起こった技術論争まで、ファンへ伝えてみせる透明感のあるチームであったことだ。天才的職人的技術者である本田宗一郎はレースの通人であり、当たり前の技術や仕様のエンジンと車体で勝っても、レースをやる面白さが満喫できないという粋筋の人物であった。その粋なところはHondaのカッコ良さの源泉になったが、しかしジェット戦闘機並みの過剰な仕様や、空前絶後の自然空冷レーシングエンジンといった現実離れした技術アイデアに対しては、現場のチームが真正面から反論した。そして、こうした論争が事細かにレースファンへ伝えられた。Hondaは隠すことをしないし、隠せばファンが楽しめないことを知っていた。
Hondaならではの独自の技術で勝てという本田宗一郎と、勝利した技術こそがHondaらしい独自の技術になりうるという現場チームとの論争は、世界中のレースファンを唸らせるレーシングな技術論争になった。それは勝ち負けという価値を凌駕する、スポーツチームの真の魅力を生んだ。これがあるからHondaにレースファンが集まった。
以上のような1960年代のレース活動から、Hondaは世界グランプリに挑戦する理由を必要としないモビリティメーカーになった。HondaはHondaであるという実存だけで、世界グランプリに挑戦できる神話と伝説と伝統という資格をもっている。その資格を世界のレースファンが認めている。
そのことをレースファンとHondaは、「HondaのDNA」と呼ぶ。言うまでもなくHondaのレーシング・スピリットというフィロソフィーのことである。
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