Vol.2Prequel

孤高の1.5ℓV12プロジェクト

中部 博
© Honda

Hondaの史書である『語り継ぎたいこと』には、F1初挑戦のプロジェクト開始を社内で内示したのは1962年5月とある。
すでに創業社長の本田宗一郎は、1961年10月10日に開催されたイタリアGPで現地視察を済ませていた。これによりHondaがF1グランプリへ挑戦を開始するという噂が欧州のレース界に広がった。二輪グランプリで驚異的な活躍を開始していたHondaは、欧州モータースポーツ界で注目されるレーシングチームとなっていたのだ。HondaのF1挑戦開始は1964年で、本田宗一郎とHondaはF1現地視察から3年ほどの時間をかけて挑戦を開始したことになる。1959年に二輪グランプリへ初挑戦する時も、この現地視察から実行まで4年間の時間を要していた。

日本初のF1世界選手権挑戦だったので、Hondaには参考にする先達がおらず、独自の調査と研究で考えながら前進し自力で交渉して道を開いていく他に方法がなかったため、どうしても時間がかかった。また、世界選手権挑戦は予算規模からみても社運がかかってしまうほどの大事業であり、着実に実行していかなければならないプロジェクトでもあった。
この経営判断をするには合理性とともに度胸が必要だった。度胸とは無謀な決断をするのではなく、勝つ自信のことだ。あるいは勝つまではやめないという決意である。Hondaを世界的企業へと急成長させてきたふたりの創業者である本田宗一郎と藤澤武夫には、その器量は十二分にあったと思われる。

HondaF1第1期活動の技術開発スタートは1963年1月であったと、当時のHonda四輪開発リーダーをしていた中村良夫は書いている。中村は第2次世界大戦中に軍用機のジェットエンジン開発を担当していた技術者で、敗戦後はF1グランプリ活動をやりたいと考え、いくつかの自動車メーカーを経験しHondaの一員になっていた。中村は四輪開発の基礎を固め、F1チームの監督をつとめ、Hondaの四輪系ボードメンバーとなり、引退後は国際自動車技術者連盟の会長に選ばれている。洒脱な文体をもつ随筆家としても活躍し、HondaとF1グランプリについて多くの名著を残している。その著書によると、当時のHonda四輪設計は約20名という少人数で、2台の量産車と複数台の量産車開発とF1活動をすべて担っていたという。エンジン担当6名、ミッション担当3名、シャシー担当5名、ボディ造形担当が7名で、部品製造や組み立てなどは専門の部署に任せていた。

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Honda F1プロジェクトを指揮することになった中村良夫監督。

サプライヤー計画から一転、フルカー参戦に

本田宗一郎と中村は、最初にエンジン形式について議論し、それは高性能エンジンの象徴であるV型12気筒にするとの結論に達した。この時代、1.5ℓエンジン規定下ではF1エンジン自体にV12が存在していなかったが、Hondaには挑戦する気運があった。そして「やるからには、人にアッと言わせることをやりたい」という本田宗一郎の思いがあった。この新開発のHonda V12エンジンをしかるべきF1コンストラクターへ供給し、エンジンサプライヤーとしてF1活動をするという戦略が立てられた。少人数の四輪設計では、未経験のF1車体まで手がまわらないと判断したのである。

この時、1963年シーズンは延べ15チームが参戦し、年間を通じて約50名のドライバーが出走していた。このうちエンジンと車体のフルコンストラクターで参戦していた主だったチームは、フェラーリ、BRM(ブリティッシュ・レーシング・モータース)、ATS(アウトモビリ・トゥーリズモ・エ・スポルト)で、エンジンサプライヤーの筆頭はBRMとクライマックスだった。この2社のエンジンはV型8気筒で、ロータスやクーパー、ブラバムなど強豪チームへ供給されていた。1.5ℓエンジン規定はF1グランプリの歴史のなかで最小の排気量規定であり、フェラーリといえども12気筒エンジンの開発に躊躇し、V6エンジンを搭載していた時代である。しかしHondaには、マルチシリンダー・エンジンの技術については絶対的な自信があった。二輪グランプリにおいて、50cc直列2気筒あるいは250cc直列6気筒といった時計のように精密なDOHCエンジンを開発し、世界チャンピオンを獲得する技術蓄積があったからである。5年前から量産用V4エンジンの試作研究をしていたこともあって、すんなりとF1用である1.5ℓV12DOHCエンジン、RA270Eを完成させた。室内テストで220馬力オーバーを記録し、それはライバルたちのエンジンより40馬力も上まわる数字であった。本田宗一郎のアイデアによってエンジンを横置き搭載するためにトランスミッションもHonda独自の設計になった。これも二輪グランプリで培った技術がそのまま使われた。

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RA270は荒川テストコースで試走の後、鈴鹿サーキットでテスト走行が続けられた。

走行テストは、サンプルとして所有していた一世代前のF1マシン、クーパーT53クライマックス2.5ℓを参考にして、Honda独自に製作したプロトタイプシャシーRA270に搭載して行った。こうしてHonda初のF1用エンジンであるRA270E開発の目処がたつと、F1グランプリを統括するFIA(国際自動車連盟)と参加交渉をし、さらにエンジンを供給するチームを探すために中村を欧州へ派遣した。この時FIAと交渉をした中村が、日本のナショナルカラーをアイボリーホワイトに日の丸と決めてしまった逸話はよく知られている。当時のF1グランプリはナショナルカラーの時代で、ブリティッシュグリーン、フレンチブルー、イタリアンレッド、ジャーマンシルバーなどと各国のカラーが定まっていた。

V12エンジンの供給先をブラバム・チームと想定して帰国した中村を、追いかけるようにしてチーム・ロータスの創立者コリン・チャップマンが来日した。この年、1963年のコンストラクターズ・チャンピオンを獲得することになるチャップマンは、猛烈な情熱をもってHondaエンジンの供給を願い出たのである。新進気鋭のチャンピオン・ドライバーであるジム・クラークがロータスホンダを駆るとの好条件をチャップマンは提示して口説いてきた。このチャプマンの要請をHondaは了承し、独占供給を約束した。ところがチャップマンは土壇場でこの約束を破棄するのであった。Hondaはエンジンの供給先チームを失った。シーズン開幕まで3カ月しかない。万事休すであった。

その報告を聞いた本田宗一郎は「俺はやめんぞ」と啖呵をきって、フルカーの製造を指示し、F1プロジェクトの続行を宣言した。
「我われには経験はない。しかし、我われには技術がある。私は金を問題としない。どんなに金がかかってもいいから、世界最高のF1カーを作ろうじゃないか」
こうしてHondaのフルカー参戦が決まり、あわただしく車体の研究開発がスタートした。予定していた5月のモナコGPには間に合わなかったが、8月のドイツGPでニューマシンRA 271をデビューさせた。このHondaが発揮したパフォーマンスは驚異的で、初めてF1マシンを設計製造したとは思えないハイスピードの展開であった。日本最初のF1コンストラクターの猪突猛進というものだろう。

ここから大人から子どもまで1960年代のHondaファンが、胸躍り夢中になって応援したHondaF1チームの華やかな挑戦の物語がスタートした。HondaファンとHondaは、この初代F1チームの4年間におよぶ冒険譚を「第1期HondaF1活動」と呼ぶこととなる。

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1964年のF1参戦に向け製作されたHonda RA271。