生粋のレースファン、本田宗一郎
© Hondaその年のHondaは、創業16年をむかえる急成長中のモビリティメーカーであった。日本で最初のオリンピックが開催された1964年(昭和39年)のことである。1958年に発売した二輪スーパーカブの世界的大ヒットで、創業時は推定20名であった従業員数が7696人になり、100万円の資本金は90億9000万円まで増資されていた。当期の売上金額は453億5200万円である。
Hondaは世界最大規模の二輪メーカーに成長していたが、四輪生産販売は前年の1963年に立ち上げたばかりであった。当時の四輪製品は、軽トラックT360とライトウエイト・スポーツカーS500の2機種しかなかった。この2機種はHondaの四輪生産販売開始にふさわしい製品であったが、四輪メーカーであることを自負できるラインナップとは言えないものだ。そのようなHondaが、1964年の年頭記者会見で「今年の5月10日のモナコ・グランプリにHonda F1レーサーをデビューさせる」と発表したのである。
とはいえ、記者会見で発表したものの日本においてHondaのF1デビューは、まったくニュースバリューがなかった。F1グランプリが四輪レースの世界選手権であることを多くの日本の人々が知らなかったからだ。したがってHondaの有効な宣伝広告にもイメージアップにもならない。あえていえば四輪生産販売を開始したばかりのHondaの、全従業員の意識向上を促進するという、インナープロモーションの効果が大きかった。そもそも四輪生産販売を開始したばかりのHondaが、いきなり世界最高峰のF1へ挑戦するのはきわめて痛快な冒険談ではあるが、なんのためかと問われれば、その回答は実にシンプルだ。
Hondaの創業社長である本田宗一郎が無類の自動車レースファンであったからだ。Hondaとモータースポーツの結びつきを考える時、この「レースファン」という言葉が本質的に重要な意味を持ってくる。本田宗一郎のレース好きは年季が入っている。10歳のときに生まれ故郷の浜松で初めて珍しい四輪レースを見て、16歳で就職した東京の自動車修理工場が、当時日本最強のレーシングチームを擁すことから、四輪レーシングマシンの開発を担い、レースではドライバーとして、そしてメカニックとして活躍し、独立して工場オーナーになったときは、自社開発のレーシングマシンのハンドルを握ってレースを走っている。
© GrageTalk/小林大樹本田宗一郎が製造しレースにも参加したアート商会のカーチス号。中央に座るのが本人。
戦前1930年代の日本のレースシーンは、首都圏に専用サーキットが建設されたほど盛り上がり、その最強チームの一員であった本田宗一郎は、日本のみならず欧米の国際的なレース事情にも精通していた。現在のF1グランプリとMotoGPの元祖になる欧州各国のグランプリや、ルマン24時間もインディ500も、日本の自動車雑誌や定期購読していた欧米の自動車雑誌で知り、それらは憧れのビッグレースであった。本田宗一郎は青春期にレースの面白さを身をもって知り尽くした人物なのである。したがって戦後1948年に、本田技研工業株式会社を設立し、原動機付き自転車の製造を開始した時も、趣味を楽しむがごとく日本の二輪レースに興じている。ブラジルの国際レースにライダーとマシンを派遣したこともあった。
© Honda1954年3月、本田宗一郎がマン島TTレースへの参戦を宣言。
全世界の自動車競争の覇者になる
やがてHondaが日本一の二輪メーカーに成長し、世界一をめざした1954年に、本田宗一郎は世界のレースへ挑戦を開始する「宣言」を発した。その冒頭にこうある。
「私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった」。本田宗一郎が生涯においてレース活動への「宣言」を発したのは、この時たった一度だけである。二輪ワールドグランプリに初挑戦するという「宣言」ではあったが、「自動車」と書くからには、1950年に世界選手権として制定された四輪のF1グランプリもターゲットにしていることはあきらかだった。
本田宗一郎はF1チャレンジ計画を正式発表する数年前から、欧米のメディアのインタビューで質問されると「F1をやるつもりです」と気軽に答えていた。ちなみに、これはHondaがまだ四輪生産販売をしていない時期の逸話である。日本のメディアはF1への関心が薄かったが、欧米のメディアはF1をトップ記事にした時代だった。1960年代はF1が欧米で最新で流行のモータースポーツになっていたからだ。欧米のメディアは、二輪ワールドグランプリの各クラスを次々と制覇しチャンピオンを獲得していくHondaが、四輪生産販売開始と同時にF1グランプリへ挑戦するのは当然で、それは時間の問題だと見ていた。
そのような国際レースの状況とレースファンの気持ちを、本田宗一郎は十分承知していた。二輪メーカーを興したらワールドグランプリに挑戦し、四輪メーカーになったらF1グランプリに挑戦するのは、本田宗一郎にとって当然のダイナミズムであった。世界のレースファンの期待に応えてF1グランプリに挑戦し、大活躍して世界チャンピオンになってやろうと思っていた。その思いを実現するときが、やってきたのである。それこそが16歳で「全世界の自動車競争の覇者」に憧れた本田宗一郎の実現すべき「夢」であったのである。
© HondaHonda F1第1号のRA270を披露する本田宗一郎。