Formula 1

F1グランプリを席巻したHondaの革新的テクノロジー

F1グランプリを席巻したHondaの革新的テクノロジー

エンジン規定が変わっても変わらないHondaの強さ

1968年シーズン限りでF1活動を休止していたHondaは、社内におけるF1復帰を望む機運を受けて活動を再開した。その際、いきなりF1に参戦せず、F1直下のカテゴリーであるヨーロッパF2選手権で学び、知見を蓄える選択をし準備を進めた。そして1983年第9戦イギリスGPにてスピリットがHonda製1.6L V6ターボエンジンを搭載し公式F1レースデビューを果たした。1984年はウイリアムズとエンジン供給契約を結び、Hondaはエンジンサプライヤーとして本格参戦を果たすと、同年の第9戦ダラスGPで活動再開後の初優勝を飾った。

1986年にはウイリアムズHondaがコンストラクターズタイトルを獲得。1987年にはロータスに供給を開始した。ウイリアムズへのエンジン供給は1987年で終了し、1988年はマクラーレンが供給先に加わった。1989年はマクラーレンへの単独供給となり、1992年まで活動を続けた。この間、1991年にはティレルにエンジンを供給している。

エンジン規定は当初1.5Lターボが認められていた(HondaはV6を選択)。1986年に燃料タンク容量規制、1987年には過給圧規制が導入され、1988年限りでターボエンジンは禁止に。1989年以降は3.5L自然吸気エンジンに一本化された。Hondaは1989年にV10エンジンを投入し、1991年にV12エンジンに切り換えた。

1983年から1992年までの活動期間中、Hondaのエンジンを搭載したチーム・ドライバーは通算69勝を挙げ、コンストラクターズタイトルを6回、ドライバーズタイトルを5回獲得した。

1.5L・V型6気筒ターボである1988年のRA168E
1989年のRA109E この年から3.5L自然吸気にエンジン規定は一本化されHondaはV10を選んだ

走行中のエンジンの正確な情報がほしい

予選やレースで遭遇するさまざまな状況に合わせてエンジンの性能を最大限引き出すため、正確な情報を必要なタイミングで収集したい。そこに着目したHondaが1986年に他に先駆けて導入したのが、エンジンや車体に取り付けたセンサーのデータを走行中にピットへ送信するテレメトリーシステムである。この年、ウイリアムズはネルソン・ピケとナイジェル・マンセルのドライブで全16戦中9勝を挙げ、コンストラクターズタイトルを獲得している。

テレメトリーシステムの開発は、走行中のエンジンデータを記録するデータロガーの搭載から始まった。その様子を当時エンジニアとしてグランプリに帯同していた田辺豊治は次のように振り返る。

※HRC 四輪レース部 開発室 チーフエンジニア

「従来はダッシュボードのメーターに水温や油温、油圧などの情報を表示していました。エンジンブローに直結する情報なので、ドライバーはそれを見ながら運転していました。そのメーターに表示していたセンサーからのアナログデータをデジタルに変換してロギングする(記録する)ようになったのが始まりです。クルマがピットに戻ってくると、バッファプリンターというものでデータを吸い出しました」

ハンディタイプのクレジットカード決済機に似たもので、車両にコネクターを挿すと情報が感熱紙に印刷される。と同時に、そこに差し込んだ記録メディアの一種であるRAMカードにデータが車両から吸い上げられる。そのデータをペンレコーダー(地震の際の波形を記録するように、ロール紙にデータを印刷する装置)に流して記録するようになった。RAMカードはデータを吐き出して終わりなので、ロール紙がデータの記憶媒体になる。田辺は過去のデータをファイルにして専用のバッグに入れ、「着替えはなくしてもこれだけはなくすな」の気概でサーキットからサーキットへと持ち運んだ。プラクティスや予選、レースに向けたセッティングを決めるのに欠かせない情報が詰まっていたからである。

また、エンジンのスロットル開度が記録されたロール紙に30cm定規を当て、全開部分の長さを測っては足し、1周の全開率を求めるのも田辺の役割だった。Honda F1の総監督を務めていた後藤治からドライバー別の全開頻度を聞かれるからである。ドライバーごとに異なるデータをもとに、パフォーマンスをさらに引き上げるための対策を練るためだ。後に田辺の地道な作業を見た電装担当の技術者が、全開頻度も含め、解析に必要なデータをコンピューター上で処理するプログラムを組んだことで、現場での解析スピードは飛躍的に向上した。

「データが取れるようになると、あれも取りたい、これも取りたいと欲が出てくる。走行中の状況が知りたくなるわけです。油温・水温がどういう状況で、吸気温がどうで、どういう過給圧で走って、どういう燃費で走っているのか。最初のテレメトリーは、通称「近テレ」(近距離テレメトリー)と呼ばれるピットの前を車両が通過したときだけデータが飛んでくる状況でした」

1986年のメキシコGPで、ガレージで出力されたロギングデータを扱うHondaのスタッフ
1989年のポルトガルGP マクラーレンのピットでテレメトリーシステムのデータを確認するHondaのスタッフ

当時、Hondaは自前で自分たちのピット前にラップトリガーという装置を置き、スタート/フィニッシュラインを車両が通過した際の電波を記録することで1周のタイムを計測していた。この電波にエンジンの代表的なデータを載せてピットに飛ばすことを思いついたのである。後にピット前通過時のみならずサーキット走行中のデータをリアルタイムで送信することができるシステムに進化する(これを「遠テレ」=遠距離テレメトリーと通称していた)。

「テレメトリーシステムを入れたことで、ピットにいる我々エンジニアなりメカニックがデータを見て、油温が上がってきたとか、水温が上がってきたとか、走行中のエンジンの状態を把握することができるようになりました。すると、『ラジエターに何か挟まったんじゃないか。次にピットインしたときに取ろう』とか。『いまピットインさせないとブローしちゃうぞ』とか、そういう判断ができるようになりました」

ピットに送られたデータはコンピューターで処理してエンジニアが解析するほか、情報を抽出してピットレーン側に送ることも後に可能になった。ピットレーン側では送られた情報をもとに、予選やレースの状況に応じてエンジンの性能を最大限引き出す指示をドライバーに与えることができたし、不具合を未然に防ぐような走りを指示することもできた。また、不具合が発生した場合には、ロギングしたデータをレース後の原因究明に活用した。

「レース中の燃料消費量を正確に計測する技術もHondaのひとつの武器だったと思います。『燃料を使いすぎているからリーンにしろ』とか、ほとんどありませんでしたが、『余っているからリッチにして燃料を使い、クルマを軽くしよう』とか。走行中にリアルタイムでデータを得ることによって、いろいろな判断ができるようになりました」

1988年メキシコGPにてピット前に設置された計測機器 真ん中はFIAが配信するタイミングデータ用のモニターで、両サイドはピットレーン用の遠テレのモニター

テレメトリーシステムにまつわるセナとベルガーのエピソード

マクラーレン時代の1988年から1992年まで共に戦ったアイルトン・セナは指示を聞かないことがあり、ピットをハラハラさせたという。

「燃費のデータがどんどんマイナスに行き、このままではレースを走りきれないという状況でも、ピットからの指示は一向に無視。彼の頭の中では、レースのプランができているんです。相手はこういうペースで来るから、マイナスになってもここで一気に離してしまえと。そうして前に出て、最後に帳尻を合わせて優勝する。そんな感じでした。こっちはテレメトリーで燃費を見ているわけですから、心配で仕方ありませんでした」

また、マニュアルシフトだった当時は、ダウンシフトする際にオーバーレブすることがあった。データロギングすることで、1周あたり何回オーバーレブしたか、ピット側で把握することができるようになった(ドライバーの立場に立てば、隠せなくなった)。

「1990年から1992年までセナのチームメイトだったゲルハルト・ベルガーのエンジンがよく壊れました。オーバーレブが多い。ベルガーに話すと、『わかった』と。『でも、ダウンシフトを素早くするとどうしてもそうなるんだ。だから、オーバーレブしても壊れないようにしてくれ』と言われました。そこはドライバーとの戦いです。バルブやピストンの設計でどこまで行けるかやりましたが、それで圧縮比が下がっては意味がないので技術の限界もある。ベルガーと話し合いながら、最適解を見つけにいきました」

ベルガーとのやり取りでは、こんなエピソードもある。自然吸気エンジンに切り替わった1989年以降、ヘルメットの後方上部にあるエアボックス(エンジン吸気取り入れ口)に圧力センサーを設置し、エアボックス内の圧力を計測していた。走行中はラム圧(風圧)がかかるため吸気の充填効率が高まる。

「ラム圧の大小は、エンジンの出力に直接影響を与えるので常に注視していたデータのひとつでした。ベルガーは背が高いので、エアボックス(の開口部)にヘルメットがかかってしまう。そのため、セナに比べてラム圧が落ちてしまう。そこでベルガーに『ストレートでは頭を下げろ』と言ったんです。そうしたら、ちゃんとラム圧が上がりました」

2台のクルマでデータを比較したからこそ、違いがわかった。

「ふたりのドライバーで同じハードウェアを使っているのですが、データの違いからどこで差が出るのかを見つけ、ギリギリを攻めてできる限りパフォーマンスを上げる。データが見えないとリミットが見えないので安全を取りがちになるし、逆に限界を知らずに越えて壊してしまうこともある。データがわかると、リミットを把握したうえでパフォーマンスを引き上げることができる。その意味で、データロギングは非常に役に立ちました」

後年、データを電波に載せてピット側に送るテレメトリーシステムが脚光を浴びたが、それよりも「データロギングできるようになったことが重要」と田辺は話す。それ以前は想像するしかなかった走行中のエンジンのコンディションを詳細に把握することができ、ポテンシャルを最大限引き出す使い方ができるようになったからだ。機器の進化とともにロギングするデータの数は増え、解析の精度とスピードは速くなっていった。

Hondaのデータロギングおよびテレメトリーシステムの取り組みを見ていたマクラーレンは、自分たちも車両側のデータをとりたいと申し出てきた。これを受け、Honda側で構築したシステムにサスペンションストロークなど車体側のデータを追加し、マクラーレン側と共有した。

パフォーマンスを最大限に発揮するためのデータ活用から開発がスタートしたテレメトリーシステムは、Hondaが最初にF1に導入したシステムだったため、競合を圧倒する強力な武器になり、多くの勝利に貢献。この画期的なシステムは他チームの目に留まって急速に普及し、F1の標準技術となって現在に至っている。

ペダルとスロットルの関係を自由に設定できるDBW

1992年、Hondaはマクラーレンに改良型の3.5L V型12気筒自然吸気エンジンを供給した。RA122E/Bである。1991年にマクラーレンに供給したV12エンジン、RA121はV12エンジンとしてはオーソドックスな60度のVバンク角を持っていたが、車体の空力デザインや重心高の低下に寄与すべくエンジン全高を低く抑えるため、RA122E/BではVバンク角を75度に変更した。

RA122E/Bは吸気の動的効果を最大限利用すべくエンジン回転数に合わせて吸気管長を最適に制御する可変吸気システムをRA121から継続して採用。新たに、バルブスプリングではなく空気の力でバルブを閉じ位置に戻すニューマチックバルブリターンシステム(PVRS)を採用して高回転時の追従性を高めた。

アクセルペダルとスロットルバルブをワイヤーで結び、機械的にスロットルを開け閉めする従来の方式から、アクセルペダルの動きをセンサーによって電気信号に変換し、信号を受け取ったアクチュエーター(電動モーター)でスロットルバルブを動かすスロットルバイワイヤに切り換えたのも、RA122E/Bの特徴である。開発陣はDBW(ドライブバイワイヤ)と呼んでいた。

この技術により、アクセルペダル開度に対するスロットルの開度特性を自在に設定できるようになり、運転状況や路面状況に応じてエンジンのポテンシャルをより柔軟に引き出せるようになった。Hondaは当時、マクラーレンと共同でセミオートマチック変速システムの開発に携わっており、変速時のつながりをスムーズにするためにもスロットル特性の制御自由度が高いスロットルバイワイヤは欠かせない技術だった。

セミオートマチックはステアリングの裏に取り付けられたパドル操作により変速するシステムである。ステアリングを握ったまま変速できるため、クラッチとシフトレバー操作を協調させて行う従来の方法に比べてドライバーの負担が大幅に軽くなり、ドライビングにより集中できるようになるのがメリット。現代のF1マシンにも受け継がれている技術である。

「DBWを入れる前はワイヤー、といっても直径が5mm程度あったので実質的にロッドですが、そのロッドを介してアクセルペダルの動きをスロットルに伝えていました。ロッドとスロットルの間にスロットルカムという部品を取り付け、その形状を変えることでスロットルの開度特性を調整していました。しかしながら、どうしても吸気や排気の干渉で出力特性がうねってしまい、ドライバーから乗りづらいと言われる。それを解消してリニアな特性にしようとスロットルカムの形状を変え、ベンチでテストし、という作業を繰り返していました。スロットルカムの形は現場で調整することもありました」

当時を知る田辺豊治が語る。

「スロットルカムを何種類か用意して、ドライバーに『どれが乗りやすい?』と。サーキットの特性に合わせてスロットルカムを使い分けたりもしました。ベルガーは割とスロットルのペダル特性にはうるさかったですが、セナは自分で合わせるほうでした。こうした苦労をDBWは払拭してくれる。データでペダルとスロットルの関係を自由に設定できますから」

とはいえ苦労は少なからずあった。スロットルを動かすDCモーターは重たく大きいうえにエンジンや車体の振動をダイレクトに受ける。そのため安全性・信頼性の確保には細心の注意を払った。スロットルが開いたままスティックしたのでは一大事だからである。スロットルポジションが認識できなくなって暴走する「脱調」と呼ぶ現象を解決するのも苦労した。

1992年のRA122E 3.5L・V型12気筒 自然吸気エンジンで第二期の有終の美を飾るエンジンとなった

セミオートマの実現に大きく貢献したDBWの技術

セミオートマの件では忘れられないエピソードがあるという。

「メキシコグランプリでした。まだフェラーリにしかセミオートマが入っていない年のことです。暑いレースで、ドライバーはヘトヘトになって戻ってきました。レース後のブリーフィングでは、セナがレーシングスーツを脱ぎながら話し始めました。『フェラーリのやつらはただ座り、両手でステアリングを握っているだけでレースが終わっている。オレたちは何十周ものレースを、ステアリングから手を離しながら、シフトレバーとクラッチペダルを操作して戦っているんだ。なんとかしてくれ』と。そう言うと、突然泣き出したんです。よほど悔しかったんだと思います」

1992年にDBWを投入したことにより、セナが泣くほど悔しがった悩みはようやく解消された。

実はRA122E/Bが採用したDBWは、1995年に一部仕様変更を行った初代NSX向けに開発していた技術だった。ミッドシップのNSXはエンジンを車体後部に搭載するため、アクセルペダルからスロットルまで長いケーブルを引き回さなければならない。その間に多くのリンクが必要で、これが摺動抵抗を生み、ペダルが重く、渋くなる。この現象を回避するためにDBWを開発していたのだった。

DBWを採用したNSXは、右足がスロットルに直結したかのようなダイレクトなフィーリングと鋭いレスポンスを手に入れた。開発自体はNSX向けが先だったが、先にF1に投入して磨きをかけ、量産車にフィードバックしたこととなった。まさに、F1が「走る実験室」と呼ばれたことを物語るエピソードであった。

RA122E/Bを搭載したマクラーレン・ホンダMP4/7A


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