POINTこの記事でわかること
- 2025年5月、Honda二輪車(バイク)の世界生産累計5億台を達成
- Hondaは「需要のあるところで生産する」という理念の下、世界各地に生産工場を立ち上げてきた
- Hondaバイクのブランド力の源泉は、地域社会への貢献と信頼構築
Hondaは「需要のあるところで生産する」という理念の下、国内外の生産拠点で各マーケットに適したモデルの生産に注力してきました。2025年5月、Hondaのバイク世界生産台数が累計5億台を達成。この節目の年に、Hondaのバイク生産の歴史を振り返ります。
世界中のあらゆる地域に根差し、現地で生産する
Hondaが本格的なバイク生産を開始したのは創業年である1948年の翌年のことでした。1949年、Hondaはバイクの第一号モデル「ドリーム D型」を発売。ここから、Hondaのバイク生産の歴史が幕を開きます。その後、1963年に海外初の完成車工場をベルギーに設立したことを皮切りに、東南アジア、欧州、北米、南米、アフリカ、中国など、世界各地に生産工場を設立し、各マーケットに根差した生産を行ってきました。1997年には累計生産台数1億台を突破、2014年に3億台、そして2025年5月には5億台を突破し、世界各地のお客様にバイクを届け続けています。
Hondaのバイクが世界中のお客様に支持されてきた理由はどこにあるのでしょうか。
Hondaのバイク・パワープロダクツ生産を支えるグローバルマザー工場としての役割を担う、熊本製作所所長の島添正規は次のように語ります。
「現地の人々の需要と好みに合わせた生産をすることはもちろんですが、その国の方々に選んでいただくためには、しっかりとその国のことを考え、愛着を持っていただくことが必要です」(島添)
熊本製作所所長の島添 正規
生産の理念である「需要のあるところで生産する」は、生産国から製品を輸出して現地に届くまでにかかるリードタイムを減らすことができるというメリット以上に、現地の社会に受け入れられる存在となる点が重要であると、島添は強調します。
例えば、モータリゼーションがこれから始まろうとしている地域は、今後の市場拡大が見込めるポテンシャル市場として位置づけられます。こういった市場では、道路・交通・法制度などのインフラが未整備だったり、大量生産や現地調達化(現調化:海外からの輸入に頼らず現地で部品等の調達を行うこと)をすぐに実現するのが難しかったりといった特徴があります。アフリカ地域やバングラデシュなどがこれに当たり、現地の法規制に沿った最適解を探しながら、生産体制の構築を行っています。なんと、国によっては養鶏場の半分を工場にしているようなところもあります。ミニマムで生産を始めるための知見をうまく生かしながら生産体制を構築している事例と言えるでしょう。
「ただ本国で作ったものを現地で売るだけでは信用されません。現地に根差し、現地の人々と共に作り上げていくからこそ、受け入れてもらえる。Hondaの場合、市場開拓の役目を担うのは常に二輪事業であり、特にポテンシャル市場においては、工場設立や雇用創出を通じて、現地政府との協調が重要となってきます。また、単に商品を製造・販売するだけではなく、社会の発展や移動の自由の提供を目指し、現地の信頼を得るために、長期的な視点での投資が必要です」(島添)
一方、成長市場と位置付けるのはフィリンピンやインドのような市場。モータリゼーションは進行中で、需要に供給が追い付いていないため、生産能力の拡大や購買・販売ネットワークの構築などを進めていく必要があります。加え、現地化の進行に伴い、品質やサービスの向上も課題です。
そして成熟市場に発展していくと他社との競争が激しくなり、買い替え需要が中心となります。このような市場においては、より顧客の嗜好に合わせた商品開発が重要で、高い品質・サービス・ブランド力が求められます。また、現地生産による迅速な対応が競争力の源泉となります。
Hondaは成熟市場で得た利益を活用して、ポテンシャル市場に先行投資を行うという戦略を取っており、これによってグローバルな事業ポートフォリオのバランスを取りながら、長期的な成長を目指しています。
熊本から世界へ 世界の工場に人材を派遣し、技術を伝えるグローバルマザー工場
バイク・パワープロダクツのグローバルマザー工場としての機能を有する熊本製作所
Hondaのバイク・パワープロダクツ生産を支えるグローバルマザー工場である熊本製作所は1976年に稼働開始して以来、累計2060万台のバイクを生産してきました。熊本製作所は新工場建設、技術導入や人材育成、新機種開発、体質改革、現地調達など、世界中の工場に対して、工場ごとに異なるさまざまな課題に応じた支援を実施しています。近年では環境や電動に関する専門人材の育成や派遣にも注力しています。
人材育成については日本の技術者を海外に派遣するだけではなく、2018年からは世界20カ国以上の生産拠点からマネジメント層を日本に招いて研修を実施しています。また、海外の役員クラスの社員にも来日してもらい、世界生産責任者会議を開催して各国固有の課題等を報告、ディスカッションしています。
一方、日本からの海外支援技術者は年間約200名にも上ります。技術の導入や新工場の設立などにあたり、人と技術の両面から現地の支援を行ってきました。
どうすればHondaのグローバルスタンダードに適合し、かつ現地の環境やニーズに合わせられるか。常に知恵と工夫が求められる生産工場の立ち上げ。需要があるところで「小さく生んで大きく育てる」のがHondaの基本スタンスです。まずは手作りの小規模生産から始めて、台数が増えれば徐々にコンベヤーの自動化などを検討し、少しずつ大きく育てていく。市場が伸びれば一気に勝負をかけ、市場が伸びなければ様子を見ながら機が熟すのを待つ。臨機応変に対応できるのが二輪事業の強みなのです。
現地の人々とともに作り上げる世界のHonda工場
二輪事業は部品調達・販売ネットワークや生産設備が十分に整っていないような場所で生産工場を立ち上げることが多い上、ものづくりを経験したことがないアソシエイト※1にバイクの生産方法を教えることは容易ではありません。そんな中、直近数年だけでも次々と現地生産を実現し、世界中でシェアを伸ばしてきました。それを支えてきたのは、人・モノ・カネ・マネジメントの 4つの現地化を使命として愚直に取り組んできた現地駐在員、並びに現地アソシエイトたちとそれを支え続けた日本からの支援者たちです。そこで、現地駐在経験者に、現地生産のリアルについて話を聞きました。
※1 世界中のHondaで働く従業員一人ひとりを、Hondaではアソシエイト(仲間)と呼んでいます。
工場について
- 年間生産能力: 3.5万台(25年3月末時点)
- 所在地:アフリカ/ ケニア共和国ナイロビ
- 稼働開始:2013年3月
――話を聞いたのは……
二輪・パワープロダクツ事業本部 生産企画部 パワーユニット製造技術責任者 宮本哲也。2022~2025年 ケニア駐在。
――ケニアに生産拠点を作った理由は?
「理念である『需要のあるところで生産する』の実行です。現地の方が自分たちでHonda製品を作り上げることで、現地に根付いた企業となるのだと思っています」(宮本)
ケニアの場合「現地生産」を望む政府の政策が、現地生産・調達を大きく後押ししました。
そこではじめの一歩として「小さく生んで大きく育てる」をコンセプトにミニマムの生産ライン「かんたん・どこでも・パック(KDP)」が誕生しました。KDPを最初に導入したのがここホンダモーターサイクルケニア(ケニア工場)です。ケニア工場はナイジェリアに続き、アフリカ2カ国目の生産工場として、2013年に操業を開始しました。
――かんたん・どこでも・パック(KDP)とは?
「かんたん・どこでも・パック(KDP)」は、ポテンシャル市場で身軽にいち早く現地生産を立ち上げられるように考案されました。組み立てに必要な最小限の工具類や品質確認に必要な帳票類等、限られたインフラ環境でも生産ができる簡易的な組み立て方式です。ケニアでは、貸倉庫の中に電動コンベヤーの代わりに手押しラインを設置して生産を開始し、名前の通り、かんたんに・どこでも生産できるというコンセプトを具現化しました。1工程ごとにバイクを手で押し、組み立てていき、3~4人の少人数でもバイクの組み立てを可能にした他、その後の販売拡大に応じ手押しラインを延長していくことで、1日200台を生産できるような規模の工場に拡張していくこともできます。
KDPは、ポテンシャル市場開拓の手法として、ミニマムで工場立上げを実現するために考案された。特徴は電動コンベヤーではなく、手押しのラインで、かんたんに作れること
塗装・溶接などの工程も、手作り感あふれるのがケニア工場。「欲しいなら作ろう!」のDIY精神を体現
――工場立ち上げ時の苦労あれこれ
「KDPは投資もミニマムです。例えば、溶接機のみを購入し、部品梱包に使用した廃材を自分たちで繋ぎ合わせて作業台や棚を手作りするなど、資金がない中で知恵を絞り、工夫をしながら現地アソシエイトと共に作り上げることで、自然と一体感が生まれます。そのような取り組みを通じて、現地に根付いた会社として受け入れられることになると信じています」(宮本)
ケニア工場製造ラインの様子
――駐在時の思い出
「ケニアの現地アソシエイトたちはみんな学習意欲が高く、なんでも吸収しようとしてくれてやりやすい反面、例えば、通関の担当者が長期休暇に入ってしまい、輸入がストップするなど、先進国では考えられないようなことも日々起こります。そんななか、アソシエイトたちと一丸となり、苦労も楽しみに変えて乗り越えました」(宮本)。
アットホームな、新機種立ち上げ記念パーティーの様子
工場について
- 年間生産能力: 140万台(25年3月末時点)
- 所在地:南米/ ブラジル連邦共和国アマゾナス州マナウス市
- 稼働開始:1976年
モトホンダ・ダ・アマゾニア(マナウス工場)全貌(黄色枠内)
――話を聞いたのは……
二輪・パワープロダクツ事業本部 生産企画部地域企画課 課長 岩本勝昭。2016~2021年 ブラジル駐在。
――マナウスってどんな街?
「夜、飛行機で行くと、機体が降下し始めてもなお地上は真っ暗で何も見えません。どこに飛行場があるんだと不安になったら着陸直前にパッと光が見える。まさしくジャングルに囲まれた陸の孤島です」(岩本)
マナウスはかつて天然ゴムで栄えた街でしたが、主な生産地が東南アジアに移り変わっていったことで経済が衰退。経済再興のために導入されたのが「マナウスフリーゾーン」という税制優遇策でした。1976年、その流れに乗る形でHondaも生産工場の立ち上げに着手。モトホンダ・ダ・アマゾニア(マナウス工場)は南米の基幹工場として発展し、政府の後押しを受けて現調化・部品の内作化を進めていった結果、「現在では、かつては輸入に頼っていた取引先5社分ほどの部品をマナウス工場内で製造できるようになった」(岩本)といいます。
マナウス工場は最先端の浄水設備を備えており、環境にも配慮。写真は、タンク内で排水に化学物質を混ぜ、汚染物質を除去しているプロセスの様子
処理された水は養魚池を通り、自然に還る
マナウス工場SDGs取り組み詳細はコチラ
――工場立ち上げ時の苦労あれこれ
とにかく部品サプライヤーがいなかったというマナウス。協力してくれる日本のメーカーをマナウスに誘致したり、現地の新しい会社を支援して育てたりしながら、現在の規模にまで発展させていきました。
――ブラジルに根差すHonda
実は1976年に工場が立ち上がって以来、1994年にレアルという現地通貨が導入されるまでの間、ブラジルはハイパーインフレに悩まされていたのです。
「バイクの販売台数が伸び悩む中で競合他社は次々にブラジルから引き上げていった。でも、Hondaは撤退しなかったんですよ。現地アソシエイトたちの雇用を何とか守りたいと思っていたんです」(岩本)
レアルが導入され為替が安定し始めると生活も安定し、バイクの需要が急増。競合が再進出を急ぐ頃にはHondaがトップシェアを獲得することに成功していました。
「その時に頑張ってくれた先輩たちがいるから今の工場があると感謝しています」(岩本)
――駐在時の思い出
「私が駐在していたのは2008年のリーマン・ショック以降の厳しい時代でした。度重なる生産計画の見直し、要員調整をしながら苦しい時期を過ごしました。その時に赤字に転落した工場を黒字にするため、現地アソシエイトたちと知恵を絞り、Hondaの他生産拠点の技術・効率・品質管理手法を分析し、自工場の改善・最適化に生かす手法で、ミニマム投資で効率の良い工場に再編しました。その結果、工場は黒字を回復し一時65万台レベルまで落ちた生産台数は現在140万台レベルまで回復しています」(岩本)
工場について
- 年間生産能力: 3.5万台(25年3月末時点)
- 所在地:南米/ペルー共和国ロレト州イキトス市
- 稼働開始:2007年10月
――話を聞いたのは……
二輪・パワープロダクツ事業本部 熊本製作所完成車工場 新機種QCD統括 吉田輝美。2019~2024年 ペルー駐在。
――ペルーに生産拠点を作った理由は?
ペルーでは1961年よりHondaのバイクをCBU(Completely Built-Up:完成車)で輸入し、現地代理店が販売していました。1974年にはHondaの100%出資子会社 ホンダ・デル・ペルー(HDP)を設立し、バイクの輸入販売を開始。その後2005年頃からバイク需要のあるアンデス共同市場※2加盟国のペルーにバイクの生産拠点を設立したいという機運が高まり、ペルー工場立ち上げプロジェクトが始動。ブラジルのマナウス工場のサポートにより2007年にホンダ・セルバ・デル・ペルー生産工場(ペルー工場)を立ち上げ、稼動を開始。稼動開始後もマナウス工場のサポートにより、技術者の育成にも力を入れています。
※2 ボリビア・コロンビア・エクアドル・ペルーから成る経済共同体。アンデス諸国において、バイクは非常に重要な移動手段であり、加盟国間のバイクおよびバイク部品の関税がゼロ、もしくは優遇措置が取られている
――イキトスってどんな街?
陸の孤島イキトスは、ジャングル地帯の中にあり、他の街へ繋がる陸路はないため、他の街を知らずにそこで一生を過ごす方もたくさんいる街です。イキトスの街の中は路線バスや電車などは走っておらず、庶民の足は乗り合いバス(中古トラックをベースに改造した車両)です。乗り合いバスは手を挙げれば乗せてくれますが、停留所はなく、移動時間も長くなります。移動時間を短くしたい、時間をお金で買いたい、という人々の生活の足として活躍しているのが、バイクなのです。
――工場立ち上げ時の苦労あれこれ
当時、陸の孤島であるイキトスにCKD部品(Complete Knock Down:製品を部品の状態で輸出し、輸出先の国で組み立てる方式)を運ぶ手段は空路かアマゾン川の水路に限られていました。貨物飛行機が飛んでおらず、旅客機の貨物スペースにCKD部品を積んで運び入れていた時期もありました。しかし、この方法では輸送費が高くつく上、貨物スペースに空きがなければ部品を運ぶことすらできず、生産は常に不安定でした。
2000年代以降は水路輸送の活用が本格化。まずリマで40フィートコンテナを陸揚げし、陸路でアマゾン川の港まで運びます。そこから客船の甲板に積まれたスチール製ケースに部品を詰め、イキトス港で陸揚げ後、トラックで工場まで輸送するというルートが確立されました。ただし、アマゾンの輸送環境は過酷でした。ジャングルは湿気が多く、川には海賊が出没。品質面に加え、治安面でもリスクが高かったため、防錆や盗難対策として、厚手のベニヤ板での厳重な梱包が必要でした。さらに、乾季になると水位が下がり、岸辺の位置が雨季と比べて大きく変化します。そのため、200~300㎏あるスチール製ケースを4~5人がかりで10~20m担いで運ぶという、過酷な作業が求められることもありました。
――ペルーに根差すHonda/駐在時の思い出
「南米は“アミーゴ(友人)”の世界です。現地マネジメント層の人脈や、地元に根差した日系の方々のつてを頼りに、現地の経営者を紹介してもらいながら、会社運営の効率化を模索していきました」(吉田)。
また、イキトスには理系大学がなく、技術者の採用は主に首都リマから行っていました。しかし、ジャングルでの生活に慣れない都会出身者は、2~3年で退職してリマに戻ってしまうケースも少なくありませんでした。
それでもHondaでは、働きながら多くのことを学べる環境が整っており、「いわば“Honda大学”のようなもの」と吉田は語ります。Hondaでビジネスを学び、他の現地企業に転職する人もいますが、「最終的にペルーに貢献してくれればそれでいい」という考えのもと、アソシエイトの育成に力を入れてきました。技術者の定着には苦労も多かったものの、人材育成を通じた社会貢献を重視してきたのです。
工場について
- 年間生産能力(太倉工場): 110万台(25年3月末時点)
- 所在地:中華人民共和国 / 江蘇省太倉市
- 稼働開始:2018年8月
――話を聞いたのは……
二輪・パワープロダクツ事業本部生産企画部 部長 中ノ瀬 孝幸(写真左)2014~2023年 中国駐在。
――新大洲本田摩托有限公司(新大州本田)設立の経緯は?
1980年代以降、Hondaは中国の嘉陵機器廠(現嘉陵工業)との技術提携を皮切りに、3つの合弁会社※3を設立してバイクの生産を開始しており、先進的で高品質な中・高級車として高い評価を得ていました。さらに多くのお客様のニーズに応えようと本格的に中国のバイク市場に参入することを決め、中国の国営企業であった海南新大洲摩托車股份有限公司(以下、新大洲)の二輪事業部門とHondaの子会社で高いエンジン技術を持つ天津本田摩托有限公司が合併し、2001年に新大州本田が設立されました。
※3 中国では外国資本単独でのバイク生産会社の立ち上げは許されていなかったため、現地メーカーとの合弁会社の形態とし、出資比率を50%以内に抑える必要があった。
現地ニーズを反映させた125ccスクーター・e-彩
――工場立ち上げ時の苦労あれこれ
「新大州は当時、Hondaのバイクを精巧に模倣した製品を生産・販売していました。平たくいうと”コピー車”です。2010年頃からHondaにそっくりなバイクを生産して新大州名義で販売していたのでHondaとしても頭を悩ませていました」(中ノ瀬)
当時、中国国内のバイク市場はおおよそ2500万台規模といわれており、このコピー会社を合弁化して本物のHonda製バイクを生産販売することで市場を取りに行きたい、というのがHonda側の狙いでした。これまで生産してきた模倣品の販売を停止する、エンジンとフレーム・ボディといった中核部分への関与を制限するという条件のもと、新会社の設立に至ったのです。新大州にとっても世界最大規模のグローバルメーカーであるHondaとの合弁には大きな可能性を感じていたことでしょう。
――駐在時の思い出
「忘れられないのは新型コロナのパンデミックですね」(中ノ瀬)
中ノ瀬は2014年、上海にある新大州本田の工場が老朽化していることを受け、新工場立ち上げの責任者として上海に赴任、その後副社長を歴任してきました。2020年のコロナ流行当時、中国では「ゼロコロナ政策」を掲げており、街はロックダウン。外出禁止が義務付けられていました。感染者拡大とともにロックダウン地域も拡大され、上海でもロックダウンが始まりました。
「そんななかでも、新大州本田は海外向けの生産も担っているわけなので、部品調達をどうするのか、どの生産ラインを止めるのか。工場をどのように運営していくかについて、当時は毎日操業会議(生産計画を議論する会議)をしていました」(中ノ瀬)
政府や自治体に掛け合って特別な許可を取り付けたり、工場で寝泊まりしたり。さまざまな苦労を経て、未曾有のパンデミックを乗り越えていったのでした。
コロナ禍における操業会議の様子。日々刻々と変化する生産状況への対応に追われる、緊張感の続く毎日だった
このような駐在員、そして現地アソシエイトの努力や苦労とともに育まれてきたHondaの二輪事業。その現在地について、熊本製作所所長の島添は次のように語ります。
「刻一刻と世界は変わっています。Hondaがシェアを取れていない市場で中国やインドなどの外国メーカーが台頭してきており、データに頼るだけでなく、現場・現実・現物を重視した戦略が今後ますます重要になってきます。『人・モノ・カネ・マネジメント』の現地化を推進するにあたり、ローカルアソシエイトと日本人が協働する『Co-Leadership(共リーダーシップ)』体制を構築し、多様性を強みに、競合に対抗していく必要があります」(島添)
Hondaの二輪事業の強みは、「世界で選ばれる理由」を地道に築いてきたこと。また、現地社会への貢献と信頼構築がHondaのバイクのブランド力の源泉なのです。
「5億台」は通過点に過ぎません。今後も需要のあるところで生産を続け、世界中のお客様のニーズに応える商品を提供していきます。