第3章 活動の充実化

1980年 「ファミリーバイク・セーフティスクール」スタート

「参加体験型の実践教育」を社会へ

発足から10年を迎えた1980年代、養成された安全運転普及指導員が、それぞれの職域や地域において積極的に活動を進め、安全運転普及活動の輪が一気に開花しました。参加体験型の実践教育を行う場として、交通教育センターの整備も進んだほか、「バイクを若者から遠ざけるのではなく、青少年が健全な交通参加者となるための安全教育を行うことが必要である」としたセーフティアップ作戦に取り組みました。

取らない・乗らない・買わない「三ない」運動の始まり

1971年、暴走族問題を背景に島根県が全国で初めて「バイクの免許を取らない・バイクに乗らない・バイクを買わない」という「三ない」運動を開始した。1982年に全国高等学校PTA連合会(全国高P連)が「三ない」を決議し、全国半分以上の府県が追従した。その一つ、愛知県を例にとると、バイクを禁止した理由は、@高校生の事故が多い、Aバイクがあると勉強しなくなる、B保護者からの禁止の要望、の3点だった。
1980年代の「三ない」は、神奈川県の「4+(プラス)1」のように、内容もさらに厳しくなっている。「親は子どもの要求に負けない」「乗せてもらわない」が2項目加わった。「三ない」運動には、禁止と教育は相反するという本質的な矛盾を社会に提起した側面があった。管理先行、教育不在という論議にやがて発展するが、進学高校対落ちこぼれ高校のような、およそ非教育的な対立も起きていた。
教育問題として見た「三ない」運動で、最も具体的で大きな対立点は、隠れてでもバイクに乗りたい少年たちと、それを阻止できないでいる学校、PTA側の間の矛盾である。首都圏やその他の大都市圏では、管理しきれないという現実的な問題がすぐに発生する。こうした地域では、高校生の事故を減らす「三ない」運動は、ほとんど空洞化し、高校生の事故は一部の県を除き、かえって増えていった。

「乗せて教える教育」の理解者を
少しずつ増やしていく

高校とPTAが決議し、展開している「三ない」運動に対して、二輪のメーカー各社や、各社の安全運転普及組織は、長い目で見て、安全上好ましくないと判断していた。この問題についての安全運転普及本部(以下、安運本部)の基本的方針は、以下の6つに集約できる。

  • 1. 二輪業界として、正面からぶつかるのは避ける
  • 2. 少しずつでも、着実に理解者(教師、文部省、有識者など)を増やしていく
  • 3. 乗せて教える教育をしないと高校生の事故が減らないことをアピールする
  • 4. (社)日本自動車工業会、(社)全国二輪車安全普及協会として行う活動と、Hondaとして行う活動を仕分けする
  • 5. Hondaはスクール開催などを求める高校に支援を行う
  • 6. 1972年から行ってきた、高校教師を対象にした二輪車安全運転指導者研修会の支援を継続する

安運本部としての活動は、「乗せて教える教育」の必要性を主張するオピニオンリーダーの育成と意見の普及を行うため、文部省の一部、警察などとの意見交換を通じて、また学者や各地の公立高校安全教育研究会との交流を通じて、オピニオンリーダーの育成に取り組んだ。また、「全国高等学校交通安全教育・二輪車安全運転指導者研修会」を開催し、三ない校でも条件付きでバイク通学を認めている高校に対して、管理教育に反対する教師たちを中心に始められた高校教師対象の研修会を開催していた。1986年からは参加者を拡大するため「(財)日本交通安全教育普及協会」が主催となった。それによって、開催場所も6ヵ所に拡大。Hondaは、鈴鹿と熊本の交通教育センターで開催するようになった。

三ないを解禁した高校と
二人三脚で取り組んだ安全教育

徳島県にある生光学園はそれまで厳しい三ない校だったが、1986年の秋からバイク使用を全面許可にした。この大胆とも無謀ともとれる学校当局の決断は、全国的に注目を浴びた。事故は1年目も2年目も起きず(2年7ヵ月目の1989年5月に、無免許運転した1年生による死亡事故が起きた)、世間の三ない推進派を驚かせた。
同学園の取り組みは、「乗せて教える」という安運本部や良識者たちの主張の成否を社会に明らかにする重要なケースでもあった。協力の成果は安運本部発行の『生光学園高校の記録』にまとめられている。
同学園は、「三ない」からの脱皮の苦しみと研究実践のなかで、「全国学校安全教育研究大会」を1987年から自主開催してきた。同学園には幼稚園から高校まである。安全教育は高校だけでなく、同学園の幼稚園、小学校、中学校でも行っており、研究交流会は1991年まで毎年開催された。

生光学園高校新1年生が対象の安全教室研修

Honda式安全教育の内容統一と
教本教材の無償提供

1980年6月、交通教育センターレインボー埼玉が埼玉県川島町に誕生した。Hondaの安全運転普及の活動は、本部組織と鈴鹿、埼玉、福岡の3つの交通教育センターで展開されることになった。
この段階で、安運本部は過去10年の活動を踏まえ、Honda式といえる運転教育の体系化と、教育内容と教科書(テキスト類)の統一という事業を開始した。
本部、3つの交通教育センター、外部有識者によるプロジェクトは、最初の1年で二輪(1981年)、次の1年で四輪(1982年)の指導者用実技、講義カリキュラム教本、受講者用テキスト初級中級編、中級上級編を完成させた。この時につくられた各種テキストは、逐次改良を受けながら今日も使用されている。
運転行動のメカニズムから車両特性とテクニック、走行環境との協調、事故防止のポイントまで、当時としてはほかにない水準と広い領域を扱っていた。教育内容とテキストが体系化されたことで、オールHondaのインストラクターは、地域の1日スクールでも、交通教育センターでも、Hondaの各製作所でも、同一内容で教えることができるようになった。
完成された教育体系のうち、二輪関係の教本教材は1983年、(社)全国二輪車安全普及協会に無償提供された。これにより日本の二輪車メーカーと安全運転推進団体は、Hondaと同じレベルで、教育活動ができるようになった。

女性ユーザーの事故を減らす
初心運転者教育の充実をめざして 

販売台数から見ると、二輪車市場は1961年の約172万台をピークに減少傾向に入っていたが、ファミリーバイク、スクーターの投入を契機に1982年には、過去最高の約329万台の販売台数を記録する急成長を遂げていた。幅広い需要層を獲得するなかでも大幅に増加したのは女性で、20代〜50代まで幅広い年齢層が利用していた。その結果、身近な所で事故が起き、二輪車事故が増加したことで、彼女たちの多くはバイク反対を叫ぶようになってしまった。
ファミリーバイクが急上昇で伸びていった時期(1980年)、安運本部は女性ユーザーを対象にした「ファミリーバイク・セーフティスクール」を東京・青山で実施している。この時に受講者に行ったアンケートでは、新規女性ユーザーの半分近くが、スクーターから離れるのではないかと予測される結果となった。
1980年代の二輪市場は次のように推移していく。1981年306万台、1982年328万台と急増したが、1983年242万台、1984年204万台と下降、1987年には147万台にまで減った。これは1976年頃(ロードパル発売前)とほぼ等しい。

東京・青山で開催された「ファミリーバイク・セーフティスクール」

発売1年で25万台が出荷されたファミリーバイク「ロードパル」(1976年)

セールスプロモーションとしての
安全運転普及活動

二輪市場の急激な拡大が始まった1979年、安運本部は二輪営業部の要請で、「原付免許教室」のカリキュラムづくりと原付免許教室専任講師(Honda認定)の養成に着手した。
ファミリーバイクの新しい需要を喚起するため、これまでバイクと無縁だった中年層の家庭の主婦や、若い女性のバイク免許取得をサポートするのが目的だった。
専任講師の養成対象は二輪代理店、二輪販売店主や従業員。安運本部は初年度だけで8,520人を教育し、資格取得を奨励。安運本部がつくったテキストと免許試験問題集を教科書に、全国津々浦々の販売店を教室として、主として女性を生徒に、「原付免許教室」が開かれていった。その後、名称も「パルスクール」と柔らかい呼び方に変わっていった。
この全国展開は、安運本部が参加した初めての直接的なセールスプロモーション活動になる。原付免許を取った女性層に対する、事故防止のための乗り方スクールは、翌年の1980年から、徐々に始まる。東京・青山で行われた「ファミリーバイク・セーフティスクール」(企画NHK文化センター、共催安運本部)はその一例だ。

『いい運転したいですね』大キャンペーンを展開

警察庁は1982年6月7日、「交通事故防止に関する当面の緊急対策」を発表し、警察を中心に安全指導、取締りの強化、安全キャンペーンの実施を発表した。こうした一連の動きに対するHondaの社会への施策が、同年7月12日からスタートした大キャンペーン『いい運転したいですね』だった。二輪営業部、二輪代理店、二輪販売店および安運本部その他が参加した。
設立当初から1982年7月までの安運本部は、対外的にはHondaの安全活動の実働部隊と映っていたが、活動は啓発宣伝やプランニングに限定されていた。実際の活動は代理店、営業所、販売店や交通教育センターが行い、安運インストラクターその他が支援するのは、1982年以前もそれ以降も変わらない。
社会への告知は、Honda、安運本部、全国二輪ホンダ会連名による「Hondaは、全国でより強力に、安全運転普及活動を展開します」をタイトルにした新聞広告で行われた。『いい運転したいですね』キャンペーンは、翌1983年の二輪業界あげての「二輪事故防止業界統一キャンペーン」に発展した。

体制を変更して臨んだセーフティアップ作戦

1982年7月11日、「安全運転普及活動の新展開」を主要な全国紙をはじめ、二輪専門誌、一般雑誌の広告で日本全国に告知した。社内的に「セーフティアップ作戦」と名づけられたこの取り組みの具体策は次の5項目である。

「セーフティアップ作戦」は安全運転普及活動新展開説明会で発表された

1. HMS(Hondaモーターサイクリストスクール)1日コースの全国展開鈴鹿、埼玉、福岡の3つの交通教育センターで一泊二日コースを標準型として行われているHMSはその訓練内容が高く評価され、当時すでに8,000人の受講者を数えていた。これを1日コースにアレンジし、1県で2ヵ所以上(全国で100ヵ所)の定置定例の場を設け、毎月開催する。2. ホンダ・ファミリースクールの充実、拡大スクーターやファミリーバイクにこれから乗る人を対象に、ホンダ・ファミリースクール(原付乗り方教室、免許教室)を代理店、販売店、Honda営業所の主催でさらに推進する。スクールの開催場所として200ヵ所を確保。3. セーフティクラブの拡充セーフティクラブは1982年6月現在、全国1,973クラブに31,158人、20代〜50代にかけて幅広い年齢層が参加する大規模な存在となっていた。経験を積んだ先輩とともに走り、アドバイスを受けることは、学校や家庭では難しい「体験による教育」そのものだった。この場を拡大することで、さらに多くの若者がバイクの楽しみと安全運転を学ぶ機会を得ることができる。5万人のグッドライダーづくりを目標とした。4.「自分を守る運転」の提案募集提案の募集は新聞紙上で行った。混合交通のなかでは、ルールを守っているだけでは安全とはいえない。ライダー一人ひとりが積極的に自分を守る努力が必要だ。ライダーが体験から得た自己防衛の方法や四輪ドライバーからのアドバイスを募り、二輪車の安全確保をライダーとともに探し出すのが目的だった。応募数は1,500通に達した。5. 早朝、夕方の「ヘッドライト早め点灯」の提案二輪車の対四輪車の事故は、二輪車の存在に四輪車ドライバーが気づいていない場合に起こりやすい。特に早朝や夕方は四輪から見えにくい時間帯だ。そのため、ヘッドライトなどで自分の存在をアピールすることが事故防止のうえで有効になってくる。自分を守るためには自分の存在を周りに知らせることが第一歩というのが、この提案の趣旨だった。

これらを実行するために事務局の体制を強化。北海道、東北、関東、関西、中部、九州各地区に安全運転普及活動に専従できるスタッフを3〜5人配置し、さらに各地区に事務局長を配置。本部のスタッフと合わせて、70人のスタッフが安運活動に従事した。

1982年から全国で毎月開催された「Honda モーターサイクリストスクール」

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1980 イラン・イラク戦争
1983 東京ディズニーランド開業
1985 公社民営化 NTT、JT発足
1986 チェルノブイリ原発事故
1989 昭和天皇崩御