Hondaとマクラーレン
Hondaとマクラーレンが築いた、F1史に残る伝説のパートナーシップ。
共同開発という新たな挑戦から生まれた数々の勝利と世界タイトル。
その軌跡は、今なおF1史に燦然と輝いています。

第2期Honda F1は、1986年にウィリアムズとともに初のコンストラクターズ・タイトルを獲得しました。翌1987年には、ドライバーズとコンストラクターズのダブルタイトルに輝き、Hondaとウィリアムズのパートナーシップは、大きな成功を収めました。
ウィリアムズは、チーム代表フランク・ウィリアムズとテクニカルディレクターのパトリック・ヘッドを中心に、高性能なシャシーを生み出す屈指のコンストラクターでした。その卓越した車体性能に、改良を重ねて飛躍的な進化を遂げたHondaのV6ターボエンジンが組み合わさることで、ウィリアムズ・ホンダはライバルを圧倒する速さを手に入れました。
しかし、勝利を重ねるなかで、両者の間には将来を見据えた考え方の違いが生まれ始めます。
Hondaは、エンジンだけでは勝ち続けることはできず、車体との一体開発こそが次の時代に必要になると考えるようになっていました。一方、車体開発に絶対的な自信を持つウィリアムズは、Hondaに求めるのはあくまでも高性能なエンジンであり、シャシー開発への関与は望みませんでした。この価値観の違いは、1987年のダブルタイトル獲得という絶頂期において、徐々に顕在化していきます。

その頃、Hondaエンジンを獲得したいと考えるチームが次々と現れました。そのなかでも最も熱心にHondaへアプローチしたのがマクラーレンのチーム代表ロン・デニスでした。
マクラーレンは1984年、1985年とコンストラクターズ・チャンピオンを獲得した名門でしたが、1986年になるとTAGポルシェ製ターボエンジンの開発が停滞し、Hondaやルノーを搭載するライバルに対して競争力で後れを取り始めていました。デニスは、再び世界の頂点へ返り咲くためにはHondaエンジンの獲得が不可欠だと考え、1986年頃から本格的な交渉を開始します。
デニスはHonda首脳陣を英国・ウォーキングのファクトリーへ招き、生産設備や品質管理体制について説明、設計・製造工程を案内しました。F1チームでありながら、まるで工業製品を製造するメーカーのような徹底した品質管理は、日本企業であるHondaの考え方とも共鳴しました。
さらに彼は、「エンジンは単なる供給部品ではなく、シャシーと一体で設計するべきだ」と提案します。エンジンメーカーとコンストラクターが最初から共同でマシンを開発する構想は、Hondaが望む新時代のF1だったのです。そして、この考え方を共有できることが、Hondaがマクラーレンを選ぶ大きな決め手となりました。
マクラーレンで2度のワールドチャンピオンに輝いたアラン・プロストも、Hondaエンジン獲得を強く望んでいました。Hondaの性能と信頼性を高く評価していたプロストは、「世界最高のエンジン」と公言し、デニスの交渉を後押ししていたと言われています。

1987年、Honda F1総監督の桜井淑敏は、大きな決断を下します。翌1988年からパートナーをマクラーレンへ変更し、さらにロータスでHondaエンジンをドライブしていたアイルトン・セナをマクラーレンへ迎え入れることで、世界最強のチームを築こうと考えたのです。デニスとの間に築かれた深い信頼関係も、この決断を後押ししました。
1988年、その構想は開幕戦から真価を発揮することとなります。
マクラーレンMP4/4に搭載されたHonda RA168Eは、ターボエンジン時代の集大成とも言える完成度を誇りました。最高出力だけでなく、燃費性能、レスポンス、信頼性まで極めて高いレベルでバランスし、厳しい燃料搭載量制限のなかでも最後まで全開で戦える性能を備えていました。そのエンジンを、低重心化を徹底したMP4/4と、セナ、プロストという史上屈指のドライバーが操ります。
その結果は、16戦15勝というF1史に残る圧倒的な成績でした。セナが8勝を挙げ、自身初のワールドチャンピオンを獲得。Hondaとマクラーレンは、共闘初年度にしてダブルタイトルを獲得し、新たな黄金時代の幕を開けを飾りました。

1989年、F1はターボ時代を終え、3.5L自然吸気エンジン時代へ突入します。
HondaはV10エンジンRA109Eを投入し、新レギュレーションでも高い競争力を維持しました。しかし、この年に最大のライバルとなったのは他チームではなく、チームメイト同士でした。
開幕直後から、セナとプロストの関係は急速に悪化します。サンマリノGPで交わされた「スタート直後は互いに無理な攻撃をしない」という紳士協定を巡る対立をきっかけに、両者の亀裂は決定的なものとなっていきました。
そして迎えた第15戦日本GP。優勝争いのなか、シケインで両者は接触し、プロストはリタイア。セナはレースを再開してトップチェッカーを受けましたが、シケインをショートカットしたとして失格裁定を受けます。その結果、プロストが3度目のワールドチャンピオンとなりました。
Hondaとマクラーレンは両ドライバーに対して完全に公平な体制を貫き、どちらにも特別な待遇を与えませんでした。しかし、世界最高峰のドライバー同士の強烈なライバル意識を制御することはできず、プロストはシーズン終了を待たずにチーム離脱を決意します。
それでも、マクラーレン・ホンダの強さは揺らぎませんでした。シーズン10勝を挙げ、コンストラクターズ・タイトル連覇を果たしました。

1990年には、プロストに代わってゲルハルト・ベルガーが加入。Hondaは燃焼効率を向上させたRA100Eを投入し、さらなる戦闘力向上を図りました。
ベルガーは安定した走りで大量ポイントを獲得し、コンストラクターズ・タイトル連覇に貢献します。一方、セナ最大のライバルとなったのは、フェラーリへ移籍したプロストでした。
決着の舞台は再び鈴鹿でした。スタート直後の第1コーナーで両者は接触し、そのままリタイア。この結果、セナは2度目のワールドチャンピオンを獲得し、Hondaはコンストラクターズ・タイトルも防衛しました。

1991年、Hondaは新たにV12エンジンRA121Eを投入します。
V12は、創業者・本田宗一郎が「もっとも美しいエンジン」と語ったレイアウトであり、Hondaの技術者にとっても長年の夢でした。高回転まで一気に吹け上がる官能的なサウンドは、多くのファンを魅了し、現在でもHonda F1を象徴するエンジンとして語り継がれています。
しかし、この頃からF1の技術競争は新たな時代へ入り始めます。
ライバルのウィリアムズは、アクティブサスペンションをはじめとする電子制御技術を急速に進化させ、車体性能で大きな優位性を築きつつありました。エンジン単体の性能だけでは勝敗を左右できない時代が到来し始めていたのです。
それでもマクラーレン・ホンダは、セナが開幕4連勝を飾るなど選手権をリード。シーズン後半は厳しい戦いとなりましたが、セナは年間7勝を挙げて3度目のワールドチャンピオンを獲得し、Hondaとしては6年連続でコンストラクターズ・タイトルに貢献するという偉業を達成しました。

1992年、黄金時代は終焉を迎えます。
ウィリアムズはアクティブサスペンションや高度な電子制御システムを完成の域まで高め、F1の勢力図を塗り替えました。Hondaはエンジン全高を下げ、吸排気系をコンパクト化したRA122E/Bを投入し、車体性能向上にも貢献しようとしましたが、マシン全体の性能差を埋めることはできませんでした。
シーズン5勝を挙げたものの、両タイトルの獲得はならず、Hondaはシーズン途中にこの年限りでのF1活動終了を決断します。
こうして5年間にわたるマクラーレンとの黄金時代は幕を閉じました。
マクラーレンもセナもHondaの決断を惜しみましたが、その理由を理解し、両者の信頼関係が揺らぐことはありませんでした。
ラストイヤーとなったこの年の最終戦オーストラリアGPでは、ベルガーが見事な勝利を収めます。そのチェッカーフラッグは、Honda第2期F1活動の締めくくりにふさわしい、有終の美を飾るものとなりました。

1988年から1992年までの5シーズンで、Hondaとマクラーレンは44勝、4年連続ドライバーズ・タイトル、4年連続コンストラクターズ・タイトルを獲得しました。エンジンメーカーとコンストラクターが互いの技術を高め合い、世界最強のチームを築き上げたその軌跡は、F1史に燦然と輝く黄金時代として、今なお語り継がれています。
