BAR004

BAR004

2001
さらなるバランス向上も苦戦のシーズンに

レイナード倒産によりマシン製作は
年明けからプロドライブに引き継がれる

2002年シーズンに向けた新車発表会の4日前に、ブリティッシュ・アメリカン・レーシング(BAR)は体制変更を発表。1999年のチーム創設時から代表兼マネージングディレクターを務めてきたクレイグ・ポロックが解任され、後任にデビッド・リチャーズが就任した。

BARはチーム創設時からレーシングカー・コンストラクターのレイナードが主体となって開発・製造していたチームだった。しかし、そのレイナードが2002年に入ってすぐに倒産。

チームの技術的な母体を失うこととなったBARが白羽の矢を立てたのが、リチャーズだった。BARのメインスポンサーであるブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)は、リチャーズが運営しているプロドライブというレーシングチームとスポンサーとして強いつながりがあった。プロドライブはWRC(世界ラリー選手権)でチャンピオンを獲得しただけでなく、リチャーズはベネトンでF1チームの代表を務めるなど豊富な経験と実績の持ち主で、レイナード倒産という窮地を脱出するには、リチャーズと彼が率いるプロドライブの力が必要だったのである。

チーム代表を変更したBARは、Hondaとのパートナーシップを2004年まで延長するとともに、タイヤの供給を受けていたブリヂストンとも契約を更新。Hondaとブリヂストンはリチャーズ体制を全面的にサポートしていくことになった。

チーム体制が変更されるなか、ドライバーラインナップは維持された。1997年チャンピオンのジャック・ビルヌーブはBARで4年目のシーズンを迎え、チームメイトは前年同様オリビエ・パニス。テストドライバーのアンソニー・デビッドソン、ダレン・マニング、パトリック・ルマリエも前年同様だが、前年テストドライバーを務めていた佐藤琢磨がこの年ジョーダンからF1デビューを果たしたため、新たに2001年にフランスF3選手権でチャンピオンを獲得した福田良がBARに加入することになった。

レイナードの倒産により、シーズンが開幕してから技術陣は変更を余儀なくされた。チーム創設時からBARのマシンの開発を指揮してきたエンジニアリングディレクターのマルコム・オースラーとチーフデザイナーのアンドリュー・グリーンは、開幕直後にチームを離脱。新たにテクニカルディレクターとして技術陣を統括することになったのは、ジェフ・ウィリスだった。ウィリスは前年コンストラクターズ選手権2位となったウィリアムズで空力部門の責任者を務めていたエンジニアで、2001年のシーズン終盤に移籍することが発表されていたが、契約上BARで仕事を開始したのは年明けからだった。そのころにはBAR004の開発は終了し、製造も佳境を迎えていたため、2002年のBARは前任者が開発したマシンを、移籍してきたばかりのウィリスが改良するというイレギュラーなシーズンとなった。

新しくチーム代表となったリチャーズは、不振脱出に向けて開発部門トップだけでなく、チームの従業員の約15%のリストラを行い、組織改革を断行した。Hondaはリチャーズのチーム運営を強力にサポートし、これまでやや控えめに行ってきたBARとの車体の共同開発を、新体制では積極的に行うこととなる。

BAR004は、前年のBAR003を保守的に進化させた車体だった。昨年ドライバーを悩ませた不安定な挙動はサスペンションのジオメトリーが見直され、さらに加速時のトラクションコントロールに加え、ブレーキング時にリヤの安定性を図るオーバーランコントロールを導入。また車体やブレーキの素材を見直しBAR003よりさらに14㎏の軽量化が図られた。これで車体全体のバランスが取れたとはいえ全体的にレベルが低く、開発を引き継いだウィリスとHondaの技術陣たちも手を焼いた。シーズン中、ウィルスが手がけたウィリアムズF W24と同様のエアロパーツを投入したが、大きな成果は見出せなかった。

開幕戦では2台ともトップ10圏外からスタートを余儀なくされた後、そろってリタイア。その後もBAR004はトラブルが相次ぎ、パニスは第7戦モナコGPまで7戦連続リタイア。一方ビルヌーブはパニスよりも完走率は高かったが、ノーポイントのレースが続いた。チームが初めて入賞したのはシーズンが折り返した第10戦イギリスGPだった。これはHondaがBARと組んでから、最も遅いシーズン初入賞だった。結局、入賞は2台で4回にとどまり、コンストラクターズ選手権8位は、過去2年間を下まわる不本意な成績となっている。

この年からシャシー開発はプロドライブが担当し、チーム代表にはリチャーズ(写真左)が就任。レイナードのシャシーを引き継いだこの年は苦戦続きに終わったが、徐々に体制を立て直し2004年にはBARをシリーズランキング2位まで押し上げた。

この年からシャシー開発はプロドライブが担当し、チーム代表にはリチャーズ(写真左)が就任。レイナードのシャシーを引き継いだこの年は苦戦続きに終わったが、徐々に体制を立て直し2004年にはBARをシリーズランキング2位まで押し上げた。

BAR004の開発に当たりHondaは量産車の車体性能評価技術を応用したドライバビリティのシミュレーション評価ツールで挙動安定性の分析を行い、テクニカルディレクターのウィリスはウィリアムズ時代の知見で空力を改良していった。

BAR004の開発に当たりHondaは量産車の車体性能評価技術を応用したドライバビリティのシミュレーション評価ツールで挙動安定性の分析を行い、テクニカルディレクターのウィリスはウィリアムズ時代の知見で空力を改良していった。

ウィリスの知見により、BAR004はシーズン中に大きく進化。第8戦カナダGPからサイドポンツーンやバージボードを一新。その後も細かくエアロの小改良を繰り返し、これらの成果が、翌年のBAR005の開発に活かされることになる。

ウィリスの知見により、BAR004はシーズン中に大きく進化。第8戦カナダGPからサイドポンツーンやバージボードを一新。その後も細かくエアロの小改良を繰り返し、これらの成果が、翌年のBAR005の開発に活かされることになる。