栄光を飾ったマシン
困難なシーズンを終盤で盛り返し、底力を発揮

無限HondaからHondaエンジンにスイッチ
潜在力を生かし、ランキング5位に
HondaはF1に復帰して2年目の2001年、パートナーのブリティッシュ・アメリカン・レーシング(BAR)だけでなく、ジョーダンにもエンジンの供給を開始した。
ジョーダンはアイルランド出身のエディ・ジョーダンによって創設されたコンストラクターチームで、1991年からF1に参戦。1998年から無限Hondaエンジンを搭載し、同年第13戦ベルギーGPで無限Honda での初優勝、1999年にはシーズン2勝を挙げていた。2000年にHondaがF1に復帰したのにともない無限HondaはF1から撤退することとなったため、ジョーダンは無限Hondaに代わりHondaにエンジン供給を要請、Hondaはすでに無限Hondaで優勝実績もある彼らにも3ℓV10エンジンを供給した。
Hondaは車体領域における技術開発をともに行うBARをワークス体制としていたため、ジョーダンはカスタマー扱いだったが、エンジン仕様はBARと同一スペックのRA001Eを供給。ワークス仕様のHondaエンジンがジョーダンにも搭載されたのである。さらにシーケンシャル・トランスミッションは前年までの6速から7速に改良された。
だが、2000年から2001年にかけてのジョーダンは、チーム創設時から技術部門を指揮してきたゲイリー・アンダーソンがチームを離脱した影響が徐々に出始め、チーム内が混乱していた時期でもあった。2001年のマシンEJ11はアンダーソンの後任として1998年からテクニカルディレクターを務めていたマイク・ガスコインの指揮の下、チーフデザイナーのマーク・スミスとともに2000年が開幕するとすぐに開発のスタートを切っていたマシンだったが、ガスコインとスミスは2000年の開幕戦から続く成績不振の責任を取り、同年5月にチームを離脱。ティム・ホロウェイら残されたスタッフたちに開発は引き継がれることになった。
ホロウェイたちによって完成したEJ11は、独特のデザインのフロントウイングを有していた。これは車体中央500㎜より外側のフロントウイングの地上高は50㎜引き上げられなければならないというレギュレーション変更をクリアするための措置だった。さらにそのフロントウイングを吊るすステーをハの字型に大きく開いたユニークなデザインを採用。そのステーが取り付けられたノーズは一段と高く上げられ、両サイドに前年まで描かれていた蜂のイラストは姿を消し、シャークマウスへと変化した。
そのEJ11を駆ったのは前年に続いてハインツ-ハラルド・フレンツェンとヤルノ・トゥルーリのコンビ。シーズン前のテストでは好タイムを連発し、開幕戦でもフレンツェンがいきなり5位に入賞し、チームは5戦目まで連続入賞を続けるなど、好調な滑り出しを見せていた。しかし、チーム内は混乱していた。開幕前の2月にアロウズからエグバル・ハミディが加入し、不在となっていたテクニカルディレクターの座に就いたものの、その直後にエンジニアが大量に離脱する事態が発生。中盤戦以降は、前年と同じように信頼性に問題を抱え、リタイアするレースが続いた。
さらにシーズン中盤の第12戦ドイツGP直前にチームがフレンツェンを解雇。第8戦カナダGPにフレンツェンの負傷欠場代役として出走したテストドライバーのリカルド・ゾンタを起用した。しかし、ゾンタもここまで。夏休み明けの第13戦ハンガリーGPからはプロストを離脱していたジャン・アレジを迎え入れるなど、コース内よりもコース外での戦いに翻弄された1年となった。
それでも、ジョーダンはそのハンガリーGPからBスペックとなるEJ11Bを投入するなど、開発の手を緩めることはなかった。このEJ11Bはサイドポンツーンまわりを変更するなどで空力パッケージが一新されていた。残り2戦となったアメリカGPではトゥルーリが4位に入賞。当時のF1は6位までしかポイントは獲得できず、この4位で獲得した3点によって、ジョーダンはコンストラクターズ選手権でBARを逆転し、ランキング5位でシーズンを終えた。

特徴的なフロントウイング形状は、最低地上高制限のない中央部をギリギリまで低くしてハイノーズとの間隔を空け、フロントサスペンションより前に出たバージボードでウイング中央部と外側の気流を分けて整流するための処理だ。

第7戦モナコGPでは木曜フリー走行でコクピット前にウイングを追加。即日のうちに違法との判断が下され取り外されるが、その後も低速サーキットではインダクションポッド後方に小型ウイングを追加してダウンフォースを増強していた。

後半戦は日本でも人気の高いアレジが起用され、プロスト時代とまたいで17戦連続完走記録を打ち立てる手堅いレースを展開。しかし最終戦日本GP前に佐藤琢磨の2002年ジョーダン加入発表により、日本GPで引退宣言をした。
Honda RA001E
