栄光を飾ったマシン

MP4シリーズ初期コンセプト最後の継承車

1991McLaren Honda MP4/6

No.1 アイルトン・セナ

苦しみながらもV12パワーで逃げ切り
セナが3度目のタイトルを獲得

1991年はセナとHondaにとって最後の戴冠の年となる。Hondaはこの年よりエンジン屋の理想を追求し、V12エンジン(RA121E)を登場させた。理想的なパワーバンド実現のため可変吸気システムを採用。ネックだった重量はV10より5.5kg軽く154kg、馬力も55bhp向上し735bhpを計測したと言われている。

その新型V12エンジンを搭載したMP4/6の基本設計の概念は、80年にジョン・バーナードが設計した史上初のカーボンモノコック車、MP4の時代から何ら変わりがないものだった。当時の技術水準からすればMP4は革新的なシャシーである。以後、各チームがカーボンモノコックの採用に追従したことからもそれは明らかだ。バーナードからスティーブ・ニコルズ、ニール・オートレイらに引き継がれ、MP4シリーズは進化・発展を繰り返したが、特徴とも言えたオス型成形のモノコックや、保守的なサスペンションジオメトリーやエアロなどはそのまま受け継がれ、いつしかマクラーレンのシャシーは時代から取り残され始めていた。

サイドポンツーンの形状、厚みはライバルのフェラーリ641系によく似ている。オス型成型方式のモノコック設計は前年車を踏襲。

サイドポンツーンの形状、厚みはライバルのフェラーリ641系によく似ている。オス型成型方式のモノコック設計は前年車を踏襲。

空力向上策として、日本GPではノーズを約8cm延長。翼端板には有機的な形状のボーテックスジェネレーターが装着されていたが、展示車では取り払われている。

空力向上策として、日本GPではノーズを約8cm延長。翼端板には有機的な形状のボーテックスジェネレーターが装着されていたが、展示車では取り払われている。

セナが初めてMP4/6と対面したのは、開幕戦を直前に控えたエストリルテストでのこと(それまでは僚友ゲルハルト・ベルガーが旧車にV12エンジン等を載せた暫定車MP4/5Cでのテストを繰り返していた)。休暇明け早々で新車に乗り込んだセナは、いきなりパワー不足を訴え、エンジンの馬力向上を求めた。

それまでのMP4シリーズの「流儀」とも言えたプルロッド式のフロントサスペンションが、プッシュロッド式に変更されたことがMP4/6最大の特徴である。これによってシャシー剛性とエアロダイナミクスの向上が図られた。シーズンを通して、フロントサスは3バージョンが投入されている。左右のベルクランクから伸びるロッドが、それぞれ独立してアンチロールバーに接続されていたバージョン1。バージョン2は左右のロッドを繋いだバーを介してアンチロールバーを作動させるもの(この派生作として、ドライバーが運転中にライドハイトを調整できる装置も開発)。バージョン3では左右の異なる形状のベルクランクを連結させることでアンチロールバーを排除し、左右のサスを連結させることでロールを制御する装置となった。全体的にMP4/5Bと比べて大柄に見えたのは、エンジンがV10からV12となって燃料タンク等の容量の増加が影響している。ホイールベースはMP4/5Bより40mmも伸び、丸みを帯びたサイドポンツーンはフェラーリ641/2を彷彿とさせた。

セナの不満をよそに、MP4/6は開幕4連勝を挙げる(当時の新記録)。しかしセナはマシンへの不満をぶちまけ、ウイリアムズ・ルノーが今後脅威の存在になることを訴え続けた。開幕4戦を終えた時点で1位セナの40点に対し、2位フェラーリのプロストが11点という時期にである。しかし開幕直後のウイリアムズは信頼性不足でリタイアを繰り返していただけに、誰もセナの言葉を真に受けなかった。だが事態はモナコGPを境に急転する。セナの予言どおり、ウイリアムズがついに目覚めたのだ。

フロントサスは3タイプが投入された。レイアウト自体はコンサバティブな典型的ダブルウィッシュボーンだ。

フロントサスは3タイプが投入された。レイアウト自体はコンサバティブな典型的ダブルウィッシュボーンだ。

第5戦カナダGPから第9戦ドイツGPまで、セナは優勝はおろか指定席であったポールポジションすら獲れない状況に陥った。夏を迎える頃にはウイリアムズに太刀打ちできる力がMP4/6にはもうなかった。グリップ不足で走行性能に安定を欠き、セナだけでなくベルガーもマシンを路面に押さえつけるだけで精一杯という有り様だった。エンジンのパワー不足も続いており、セナは日本のテレビカメラを見つけてはHondaへ向けて『もっとパワーを!』と訴え続けたのだった。

ドイツGP直後のテストに、マクラーレンはチーム初のセミオートマ搭載車をセナのために用意する(それも2種類)。セナは「セミオートマはドライビングを驚くほど容易にしてくれる。一度使ったらもうマニュアルには戻りたくない」と絶賛。1週間後のハンガリーGPには、すでに実戦投入しているフェラーリやウイリアムズとは異なる圧搾空気式のセミオートマを実戦テストも兼ねて持ち込むが、金曜のフリー走行でスピンを喫したことで従来のマニュアルに戻してしまう。これ以後、MP4/6の実戦車にセミオートマが搭載されることはなかった。しかし連敗中だったマクラーレンの流れが好転し始めたのが、そのハンガリーGPからだった。Hondaの創始者、本田宗一郎の逝去直後でもあり、弔い合戦となったこのレースにHondaは新型エンジンを投入。それに合わせてシェルも特殊燃料を開発した。マクラーレンも軽量シャシーを投入した。結果的にハンガリー、ベルギーと連勝し、マンセルとウイリアムズに傾きかけた流れをギリギリで食い止めたのだ。

89年から開発が始まったRA121Eエンジン。ベルギーGPからは可変吸気システムなど、さらなる新技術が投入された。

89年から開発が始まったRA121Eエンジン。ベルギーGPからは可変吸気システムなど、さらなる新技術が投入された。

イタリア、ポルトガル、スペインとまたウイリアムズ勢に巻き返されるも、ヨーロッパラウンド初期のような完敗という内容ではなかった。さらにマクラーレンの技術部門はシャシーへメスを入れる。日本GP直前にはノーズの先端を延ばした新型シャシーを投入。これによって空力性能は飛躍的に向上し、鈴鹿ではマクラーレンが圧勝。セナとベルガーは完全にレースを支配し、セナが3度目の戴冠を決めた。しかし、最強の名を欲しいままにしていたMP4シリーズの魔法はもう終わりを迎えていた。最終戦オーストラリア、マクラーレンは豪雨で打ち切りとなった史上最短レースを1-3フィニッシュで飾り、4年連続のダブルタイトルを決める。だが、結果的にこのレースで走ることはなかったが、ウイリアムズがTカーとして『アクティブサスペンション』搭載車をスタンバイさせていたことを触れないわけにはいかない。ターボ全盛期のようにパワーだけで勝てる時代は過去の遺物となり、シャシーとエンジンが互いの利点を生み出す『トータルパッケージ』の時代がもう目前まで来ていたのだ。80年代後半から90年代序盤にかけ、一時代を築いたマクラーレンはこの翌年にHondaを失い、2年後にはセナもチームを去って、49戦未勝利という長い冬の時代を迎えることになる。セナは92年の契約をマクラーレンと更新した際にこんな言葉を残している。「僕は日本人を大変尊敬している。彼らの暗黙の感情を理解している」と、Hondaの存在が契約更新の大きな鍵を握っていたことを肯定した。セナの3度の戴冠はすべてがHondaのエンジンによるもので、それを決めた場所もすべて鈴鹿だった。

シャシー

型番 McLaren Honda MP4/6
デザイナー ニール・オートレイ
車体構造 高モジュールカーボンファイバー/ハニカムモノコック
全長×全幅×全高 4496mm×2120mm×965mm
ホイールベース 2972mm
トレッド(前/後) 1824/1669mm
フロントサスペンション ダブルウイッシュボーン、プッシュロッド(縦置きコイルスプリング)/ダンパー
リヤサスペンション ダブルウイッシュボーン、プッシュロッド(垂直置きコイルスプリング)/ダンパー
ホイール(前/後) 13×12in/13×16.3in
ブレーキ ブレンボ/カーボンインダストリーズ
トランスミッション マクラーレン製横置き6速
車体重量 505kg

エンジン

型式 RA121E
形式 水冷60度V型12気筒
排気量 3497cc
ボア×ストローク 86.5mm×49.6mm
圧縮比 12.15
最高出力 735ps以上/13500rpm
バルブ形式 DOHC 4バルブ
バルブスプリング ダブルコイルスプリング
燃料供給方式 PGM-FI 2インジェクター
燃料噴射ポンプ 電動ポンプ+ギヤポンプ
点火方式 CDI
スロットル形式 12連バタフライ式スロットルバルブ可変吸気管長システム(第11戦目より投入)
重量 154kg

RA121E