栄光を飾ったマシン

No.27を付けた唯一のマクラーレン

1990McLaren Honda MP4/5B

1990年F1世界選手権出場車 No.27 アイルトン・セナ

最強のエンジンを搭載
セナ2度目の王座獲得車

そのネーミングからも分かるように、MP4/5Bは前年型MP4/5の正常進化型だが、外見的にはMP4/5から大きな脱皮が図られている印象を受ける。特にエアロダイナミクスの改善は顕著で、主にエアロデバイスの変更が目に付いた。サイドポンツーンはより平坦になり、排熱アウトレットも改良された。高回転、高出力化が進んだHondaの新型V10エンジンからの要求を満たすべく、ラジエターを中心に熱交換機の大容量化が図られた。しかし、シャシーの基本コンセプトは、ジョン・バーナードのMP4からの流れのままであり、もはや当初のアドバンテージは消えていた。アイルトン・セナとアラン・プロストが悩まされ続けたMP4/5のバランスの悪さをそのまま受け継いでしまったMP4/5Bは、さらにその欠点が強調されてしまうことになる。

“Hondaエンジン独占供給”というパッケージは当時、パドックでは羨望の的だった。それほどまでに圧倒的なパワーを誇ったのだ。Hondaエンジンを入手できないライバルたちは、空力面を追求してマクラーレンに対抗しようとした。

“Hondaエンジン独占供給”というパッケージは当時、パドックでは羨望の的だった。それほどまでに圧倒的なパワーを誇ったのだ。Hondaエンジンを入手できないライバルたちは、空力面を追求してマクラーレンに対抗しようとした。

MP4/4でゴードン・マーレイが採用したプルロッド式のフロントサスペンションを、ニール・オートレイはMP4/5Bでも継承する。プルロッドはダンパーユニットのマウント位置を自由に設計できる利点はあるものの、アッパーアームに大きな負担をかけてしまうデメリットもあり、多くのチームが採用を避けるようになっていた。このレイアウトが災いし、185cmの長身ゲルハルト・ベルガーには非常に窮屈なコクピットになった。

サイドポンツーン脇のエアアウトレットは、サーキットの特性に応じてその大きさが変更された。平均速度の低いモナコやハンガリーなどでは開口部を最大限に開き冷却効果向上を図ったが、予選など一発勝負の際には冷却機能を若干殺しても、ドラッグを減らすために閉じて走行することが多かった。

シャシーの基本はMP4/4の流れを継承し、低重心化が図られた。前年のMP4/5に比べてサイドポンツーンの形状も洗練されたが、空力面では遅れ始めていた。

シャシーの基本はMP4/4の流れを継承し、低重心化が図られた。前年のMP4/5に比べてサイドポンツーンの形状も洗練されたが、空力面では遅れ始めていた。

MP4/5B最大の特徴と言えたのが『バットマン・ディフューザー』と称された半円状トンネルを5つ並べたディフューザーだ。このコンセプト自体は、88年にマーチ881をデザインしたエイドリアン・ニューウェイがすでに試みており、そのアイデアを発展させたにすぎない。ただ、MP4/5から引き続き横置きギヤボックスを採用したことで、ディフューザーの設計にかなりの自由度があったことも、導入のひとつの理由だった。半円状トンネルは、確かに平板を組み合わせたものよりエッジ部のよどみや剥離を抑えられ、後方へ空気流を抜く効果も高い。しかし、それだけにフロアと路面の間隔が変化した際にダウンフォースの変化量も大きくなる。高速コーナリング中にバウンドなどすると、マシンの挙動変化はシビアになった。当時の空力部門代表であったボブ・ベルは、ハンガリーGPからオーソドックスな形状にスイッチする決断を下す。ダウンフォースの絶対値を下げることで、マシンの挙動の変動幅を小さくする処置を採らざるを得なかったのだ(スペインGPでは後部を30cmも延長するなどの変更が加えられた)。

シャシー性能では、完全にライバルのフェラーリ641/2の後塵を拝していたのは事実である。MP4/5Bも結局のところ前年型同様にエンジンパワーに頼らざるを得なかった。90年型のHondaのV10エンジン『RA100E』は、ボア×ストロークの変更を行うことで燃焼の安定化が図られていた。RA100Eの特徴はスロットル形式の選択にあり、RA109Eで用いられたスライド式スロットルバルブに対して、バタフライ式スロットルバルブを採用。結果としてスロットル下流のタービュランスによる燃料の一時的滞留を改善し、あらゆる条件下での空燃比の安定化を図ることに成功する。パワーアップはもちろんのこと、サーキットに応じて特性の異なる仕様を用意するのもHondaのお家芸だった。開幕戦フェニックスのバージョン1に始まり、シーズンエンドの鈴鹿とアデレードではバージョン6まで進化したエンジンが、この年最強のユニットであったことに異論はない。

セナが座ったコクピット。今も当時のまま保存されている。モノコックは開幕戦から第4戦までセナのレースカーとして使用され、第5戦以降はスペアカーとして世界中を転戦した。

セナが座ったコクピット。今も当時のまま保存されている。モノコックは開幕戦から第4戦までセナのレースカーとして使用され、第5戦以降はスペアカーとして世界中を転戦した。

当時のF1エンジンは、予選用と決勝用を合わせて各グランプリにドライバーあたり約10数基が準備され、年間では軽く200基以上を必要とした。開発費と活動費は膨大だが、Hondaはエンジンの信頼性とドライバビリティに徹底してこだわった。V10初年度のRA109Eでは常用回転限界が毎分1万2000回転だったが、RA100Eではそれが1万4000回転にまで達しつつあった。シフトダウンなどのオーバーレブにより瞬間的には1万5000回転を越える場合もあるが、それさえも許容するレベル。ここまで回しても壊れない驚異の信頼性を、RA100Eは誇った。

シーズンの天王山は鈴鹿の日本GPだった。セナは1年前のリベンジを果たすべくプロストを“撃破”する。スタート直後の1コーナーで接触した2台のマシンはグラベルの砂塵の中に消え、セナの2度目の戴冠が決まった。この1年後、セナはこの接触が故意だったことを認めた。もちろん、その行為自体は批判されるべき危険なものだ。しかし、それほどの強い憎悪が89年の鈴鹿から1年間、彼の心を占めていたということである。

スロットルが前年までのスライド式からバタフライ式に変更された。しかし、“セナ足”と呼ばれたアクセルワークになかなかマッチせず、開発陣は苦労したという。またセナの求めに応じて、サーキットの現場で様々な調整が行われていた。しかも、すべて手作業だったのだ。鈴鹿には開発陣の丹精を込めたスペシャルエンジンが持ち込まれたが、僅か9秒で砂塵の向こうへと消えてしまった。

スロットルが前年までのスライド式からバタフライ式に変更された。しかし、“セナ足”と呼ばれたアクセルワークになかなかマッチせず、開発陣は苦労したという。またセナの求めに応じて、サーキットの現場で様々な調整が行われていた。しかも、すべて手作業だったのだ。鈴鹿には開発陣の丹精を込めたスペシャルエンジンが持ち込まれたが、僅か9秒で砂塵の向こうへと消えてしまった。

結果的にダブルタイトルを死守したマクラーレンだが、もはや圧倒的アドバンテージは彼らのマシンにはなかった。セナとHondaの存在がなければ、タイトル獲得は難しかったはずだ。しかし、プロストが去りベルガーが加入したマクラーレンは、非常に統率のとれたレーシングチームへと変貌してゆく。その時セナは、完全にマクラーレンを掌握していた。

シャシー

型番 McLaren Honda MP4/5B
デザイナー ニール・オートレイ
車体構造 カーボンファイバー/ハニカムモノコック
全長×全幅×全高 4470mm×2133mm×965mm
ホイールベース 2895mm
トレッド(前/後) 1800/1660mm
サスペンション(前/後) ダブルウイッシュボーン+プルロッド/ダブルウイッシュボーン+プッシュロッド
タイヤ(前/後) 13×11.75in/13×16.25in
燃料タンク 212L
トランスミッション マクラーレン製横置き6速
車体重量 500kg

エンジン

型式 RA100E
形式 水冷72度V10 DOHC4バルブ
排気量 3498cc
ボア×ストローク(mm) 93.0×51.5
圧縮比 12.4
最高出力 680ps以上/12800rpm
燃料供給方式 PGM-FI 2インジェクター
スロットル形式 10連バタフライ式スロットルバルブ
過給機

RA100E