アイルトン・セナは、F1史上に今も輝き続ける伝説のドライバーです。
若くして天才ドライバーとして注目を浴びたセナは、
F1にデビューすると並外れた速さを発揮し、その才能を開花させました。
速さと勝利を追い求めるセナは常に限界と戦い、人々はそのストイックな姿勢に魅了されました。
予選でのセナの速さはそれまでの常識を超えていました。
マシンと一体となり、誰も踏み込めない領域へと足を踏み入れる走りは、
65回のポールポジションという記録を生み出し、長きにわたって“最速の証”として語り継がれました。
セナが特別な存在であり続ける理由は、速さだけではありません。
セナはレースを人生そのものとして捉え、自らの信念と向き合いながらレースを戦いました。
極限のスピードのなかに精神性を見出し、自らを磨き続けた求道者でした。
その姿勢にHondaは共感し、最大限のリスペクトを示しました。
セナもHondaとの強い結びつきを望み、ともに戦い、
Hondaはセナの3度のワールドチャンピオン獲得を強力にバックアップしました。
1994年5月1日、セナはレース中の事故で34歳でこの世を去りました。
しかし、それは終わりではなく、セナ伝説の始まりとなったのでした。

Profile
- 名前
- アイルトン・セナ(Ayrton Senna)
- チーム
- Camel Team Lotus Honda(1987)
Honda Marlboro McLaren(1988-1992)
- 国
- Brazil
- 生年月日
- 1960年03月21日

Career
1960年ブラジル・サンパウロで、アイルトン・セナ・ダ・シルバは資産家で経営者であるミルトン・ギラード・ダ・シルバとネイジ・ジョアンナ・セナ・ダ・シルバの長男として生まれました。4歳でモータースポーツに興味を持ち、父親が自作したカートでレースを始めました。そして1973年7月、初めて公式のレースに出場し、トラックレコードを塗り替えて優勝した。1977年に南アメリカ・カート選手権を制したセナは、1978年から1982年にかけて世界カート選手権に参戦し、1979年と1980年にランキング2位となっています。一度もチャンピオンになれなかったことはセナを失望させましたが、その速さは群を抜いており、将来F1でチャンピオンになるドライバーと評されています。
1981年、セナはフォーミュラカー・レースに挑戦するためイギリスへ渡りました。フォーミュラ・フォード1600のふたつのクラスに参戦し、ともにチャンピオンを獲得しましたが、この年限りでフォーミュラ・フォードからの引退を表明し、ブラジルに帰国しました。ブラジルでの家業を手伝うことを強いられたセナでしたが、レースへの情熱は冷めることなく、1982年に再びイギリスへ渡ります。この年、フォーミュラ・フォード2000のイギリス選手権とヨーロッパ選手権をともに制し、その才能と速さをレース関係者に印象付けました。
1983年、当時F1への登竜門とされたイギリスF3選手権に参戦し、チャンピオンを獲得。同年のマカオGPでは、2ヒートを連取して優勝を飾っています。
1984年、セナはトールマンからF1デビューを果たしました。前年からトップチームのテストに招聘され、その能力を高く評価されたセナでしたが、スポンサーやチーム事情などさまざまな理由で交渉はまとまらず、ドライバーに欠員が出たトールマンと契約したのです。初年度からセナは、並外れた速さを見せました。競争力の劣るマシンで上位争いに食い込む走りを見せ、関係者の注目を浴びます。第6戦、大雨でハーフレースとなったモナコGPでは、予選13位から猛烈な追い上げで2位フィニッシュを果たし、自身とチームに初表彰台を、そして自身初のファステストラップを獲得しています。第10戦イギリスGP、最終戦ポルトガルGPで3位に入り、シーズン3度の表彰台を獲得し、ランキング9位となりました。
セナはシーズン途中で翌年ロータスへの移籍を発表しましたが、トールマンとは3年契約を結んでおり、二重契約の問題が発覚します。結局、ロータスとセナが、トールマンへの違約金を支払い、セナは1レース欠場を強いられることで決着し、ロータス移籍が実現しました。
1985年、当時名門チームだったロータスで、セナは躍動します。第2戦ポルトガルGPで自身初のポールポジションを獲得すると、豪雨となった決勝では2位に1分以上の大差をつけてF1初優勝を達成しました。その後、シーズン前半は速さは見せるものの、結果が出ずにいましたが、後半戦では安定したレースを展開し、第10戦オーストリアGPから5戦連続で表彰台を獲得。第13戦ベルギーGPでは、予選2位からスタート直後にトップを奪い、独走で2勝目を挙げました。マシントラブルなどでリタイアが多いシーズンでしたが、7回のポールポジション獲得は、セナの速さを証明する記録となっています。そして、後半戦でポイントを重ねたことによりランキングは4位で、チームのエースだったエリオ・デ・アンジェリスを上回る成績を残しました。
1986年、ロータスのエースドライバーとなったセナは、シーズン前半の8戦で2勝を含む6戦で入賞を果たしました。しかし、後半戦はマシントラブルが続き、結果が伴わずポイント争いでは失速し、終盤にチャンピオン争いから脱落しました。この年はウィリアムズ・ホンダが圧倒的な速さを見せた年で、セナはシーズン中からHondaエンジン獲得を熱望するコメントを出し、チームにアピールを続けました。
1987年、チーム代表のピーター・ウォーは、Hondaと交渉を続け、セナの熱望に応える形でHondaはロータスへのエンジン供給を開始しました。そして、チームメイトには日本人初のF1レギュラードライバーとなる中嶋悟が加入。この年のロータスは大きな注目を浴びることとなりました。しかし、開発途上のアクティブサスペンションにトラブルが多発し、成績面ではロータスは低迷しました。セナは第4戦モナコGP、第5戦デトロイトGPと市街地コースで連勝を果たしました。第7戦イギリスGPはHondaエンジン搭載車が1位から4位を占めるレースとなり、セナは3位となりましたが1、2位のウィリアムズ・ホンダの周回遅れとなったことが、セナを失望させています。この年、セナは16戦中11戦でポイントを獲得し、堅実に結果を残したことでランキング3位となっています。
同年のイタリアGP開催時に、翌年からHondaがマクラーレンと提携しエンジン供給を行うことと、セナがマクラーレンに移籍することが発表されました。
1988年、マクラーレン・ホンダは圧倒的な強さを見せました。2度のワールドチャンピオン経験者であるアラン・プロストとセナのジョイントNo.1体制により、開幕戦から連勝を重ねます。タイトル争いは早々にセナ対プロストの構図となり、両者による激しい戦いが繰り広げられました。セナはシーズン8勝を挙げ、初のチャンピオンを獲得。7勝を挙げたプロストは、総ポイント数ではセナを上回りましたが、当時の有効ポイント制で敗れています。マクラーレン・ホンダの16戦15勝、10度の1-2フィニッシュという記録的な圧勝劇となったシーズンですが、激しいチャンピオン争いによって、セナとプロストの間に大きな亀裂が入り始めた年でもありました。
1989年、マクラーレン・ホンダの優勢は揺るぎませんでしたが、セナとプロストの亀裂は次第に大きくなります。第2戦サンマリノGPでセナはシーズン初勝利を獲得したものの、プロストはセナが「先にトサ・コーナーに入った者がレースの主導権を得る」という紳士協定を破ったと猛抗議し、チーム内の問題が公になる事態となりました。シーズン終盤にタイトル争いは激化し、第15戦日本GPで両者はシケインで接触。マシンを降りたプロストに対し、セナは走行を続けトップでチェッカーフラッグを受けましたが、レース後セナに失格の裁定が下ります。セナとマクラーレンは抗議し提訴も行いましたが、最終戦でセナはリタイアを喫し、裁定の結果に関わらずプロストのタイトル獲得が決まりました。セナはシーズン6勝でプロストの4勝を上回ったものの、2位7回を含む13度の入賞でポイントを積み重ねたプロストが栄冠を手にしたのです。
1990年、前年の日本GPでの問題は、FIA会長による「ライセンス発給拒否」発言にまで発展しました。年を越えてもこの騒動は落ち着かず、セナにスーパーライセンスが発給されたのは2月のことでした。プロストがフェラーリへ移籍し、セナのチームメイトはゲルハルト・ベルガーになりました。そして、この年のチャンピオン争いは、再びセナとプロストによって繰り広げられることとなります。セナはポールポジション10回という予選での速さを活かし、決勝でも6勝を挙げてタイトル争いをリードします。決着は前年同様第15戦日本GPでした。スタート直後の第1コーナーで、先行したプロストにセナがイン側から接触し、両者はリタイア。この瞬間、セナの2度目のチャンピオン獲得が決まりました。
1991年、セナは当時の記録となる開幕4連勝を成し遂げました。第2戦ブラジルGPでは、レース終盤にギヤボックスにトラブルを抱え、最後はギリギリのリードで母国初優勝を飾っています。シーズン中盤になるとウィリアムズが競争力を増して、セナの前に立ちはだかりました。勝利から遠ざかったセナは、第10戦ハンガリーGPで6戦ぶりに優勝。この直前にHondaの創設者である本田宗一郎が死去し、セナは喪章をつけて臨んだレースでポール・トゥ・フィニッシュを達成したのです。続く第11戦ベルギーGPでセナは連勝しましたが、その後はウィリアムズが巻き返し3連勝。タイトル争いはまたしても第15戦日本GPが決着の場となります。チャンピオンを争うナイジェル・マンセルがレース序盤でリタイアし、セナのタイトル獲得が決定。トップを行くセナは、最終周の最終コーナーを抜けるとスローダウンし、チームメイトのベルガーに勝利を譲り、セナは2位でフィニッシュしました。シーズン7勝、14回の入賞を成し遂げたセナは、シーズン中盤に苦戦を強いられましたが、結局ポイントリーダーを最後まで守り切り、3度目のワールドチャンピオンに輝きました。
1992年、F1マシンは転換期を迎え、新技術で優位に立つウィリアムズが開幕5連勝を果たすなど、優勢にシーズンを進めました。奮闘するセナは第6戦モナコGPでマンセルの6連勝を止め、自身のモナコGP4連覇を達成しました。しかし、シーズンを通して劣勢は否めず、優勝3回、ポールポジション1回にとどまり、ランキング4位に終わっています。
Hondaはこの年のイタリアGPで、シーズン終了とともにF1活動を休止すると発表しました。失意のセナは、移籍を公言するようになりましたが、結局実現せずにマクラーレンに残留することになりました。
1993年、フォードのカスタマーエンジンを搭載するマクラーレンの競争力は低下しましたが、セナは健闘を続けました。第2戦ブラジルGPでは母国2勝目を挙げ、ドニントンで開催された第3戦ヨーロッパGPでは、雨のレースを制し連勝を飾りました。第6戦モナコGPではモナコ5連勝、通算6勝目を挙げます。このモナコでの勝利記録は現在でもセナが保持しています。タイトル獲得の可能性は第13戦イタリアGPでリタイアしたことにより消滅しましたが、第15戦日本GP、最終戦オーストラリアGPでセナは連勝を果たし、シリーズ2位で6年間在籍したマクラーレンでの活動を終えました。
1994年、セナはウィリアムズへ移籍しました。前年まで圧勝を続けていたウィリアムズですが、この年からアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどが禁止となり、新型車の完成は遅れ、不安定な状況でのシーズン開幕となりました。セナは、開幕戦ブラジルGP、英田での第2戦パシフィックGPでポールポジションを獲得しましたが、ともに結果はリタイアで、開幕2戦を終えノーポイントはF1デビュー以来初めてのことでした。
そして迎えた第3戦サンマリノGP、ポールポジションからスタートしたセナは首位を守りましたが、後方のアクシデントによりセーフティカーが導入されました。再スタートが切られた7周目、高速コーナー「タンブレロ」でコースアウトしたセナは、コンクリートウォールに激突。これにより頭部に致命的な損傷を負ったセナは、事故発生から約4時間後に帰らぬ人となりました。
セナの死去は世界中に衝撃と悲しみを与えました。Hondaはその死を悼み、青山本社(当時)に献花台を設置しました。セナを弔う多くの日本のファンが来場し、本社の周りに長い列ができたことは、今も語り継がれています。

Records
Profile
- 名前
- アイルトン・セナ・ダ・シルバ
- 生年月日
- 21/03/1960
- 出身地
- ブラジル/サンパウロ
- 体重
- 70kg
- 身長
- 174cm
Race Wins
-
Total
0
-
Honda
0
Pole Positions
-
Total
0
-
Honda
0
Races
-
Total
0
-
Honda
0
Podiums
-
Total
0
-
Honda
0
Retirements
-
Total
0
-
Honda
0
Laps Raced ※
-
Total
0
-
Honda
0
Laps Led ※
-
Total
0
-
Honda
0
※失格時の周回数は除外。ただしFormula 1.comに従い、1988ブラジルGPはリタイア扱い。