MONTHLY THE SAFETY JAPAN●2004年6月号
opinion
武部健一
道路文化研究所理事長


1925年東京生まれ。48年京都大学土木工学科卒業。特別調達庁、建設省勤務を経て日本道路公団の創設時に入社。東京建設局長、常任参与などを歴任。81年片平エンジニアリングに入社、社長、会長としてコンサルタントの経営に従事。93年道路文化研究所を設立。以後、同理事長として道路の歴史・文化に関する研究、執筆活動に専念。主な著書は、『インターチェンジ』『インターチェンジの計画と設計』『高速道路の計画と設計』『中国名橋物語』(編訳)、『道路の計画と設計』(編著)、『道のはなしI・II』(1992年度国際交通安全学会賞・著作部門受賞)など。
人とクルマが共存する社会に向けて、歩ける道路環境づくりが重要

道路の主役は人間という点から、歴史的に道路を見る

武部さんの著書『道I・II』が2003年度国際交通安全学会賞・著作部門を受賞しました。国際交通安全学会賞としては二度目の受賞です。同書は道路について先史時代から現代までを包括して、技術と社会、文化などの視点から全体像として描いた通史ということが、高く評価されました。
古代律令国家の時代に造営された七道駅路(東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)がどこを通っていたのか、どれだけの路線があったのか、武部さんには長い間疑問であったといいます。当時の資料から、七道には402の駅があり、30里ごとに1つあったとされていました。武部さんは5万分の1の地図をもとに402駅の所在を割り出し、4年かけてすべて訪ねたそうです。「その結果、古代道路の総延長は6300kmあったとしましたが、このルートがあちこちで今の高速道路のルートに重なるのです。歴史地理学の木下良先生も、以前から昔の官道のルートをたどると、行く先々で高速道路の工事にぶつかるので、疑問に思っていたそうです。私も高速道路の技術者のときに、工事でよく国分寺跡とか国府跡にぶつかっていました。歴史家と技術者がそれぞれ別々のアプローチで古代の官道と高速道路の関連に気がついたわけです」。
七道駅路は中央の都と諸国の国府を結ぶネットワークで、国府へ最短距離で行けることを優先して、できる限り直線で通すかたちで造っていたといいます。今の高速道路のルートも都道府県の県庁を最短距離で結ぶことを優先したことによって、ルートが類似したと、武部さんは推定しました。
江戸時代の五街道など幹線道路網を引き継いだ明治時代以降、馬車、人力車から自動車へと、道路の主役は車両交通に代わり、道路構造もそれに対応して整備されていきますが、自動車交通を重視し、歩行者などの安全や便宜は軽視されてきました。「東京など都市の市街地の街路については歩道の規定は明治時代からありましたが、全国的な幹線道路である国道について、歩道が構造令の対象になったのは1970年の構造令改正からです」。
そして、日本の道路政策は交通安全対策とともに、環境対策に取り組むようなります。「クルマ優先から人間の復権の流れを受けて、1993年の道路構造令の一部改正では、歩行者の安全で円滑な交通の確保が、目標とされました。クルマ社会を脱皮し、人とクルマが共存する時代への転換を示すものといえます。これからは、クルマが主であることは変わらないと思いますが、目的地に直達する必要性だけでなく、健康や楽しみのために歩くことがますます重要になってくるでしょう。歩ける道路環境づくりが大事になると思います」。道路の主役は人間という点から、歴史的に道路を見てきたのが今回の著作といえます。

この記事へのご意見・ご感想は下記のメールアドレスへ
sj-mail@ast-creative.co.jp
 
  安全運転普及活動コンテンツINDEX