第3章 活動の充実化
二輪販売店を主役に据えた
セーフティ・ニューチャレンジ
1988年、年頭の二輪販売店大会および代理店会議の席上、自動二輪に乗る若者を交通事故から守る「セーフティ・ニューチャレンジ」を発表した。主な取り組みは、バイク販売店に来店するヤングライダー全員に安全度診断チェック・アドバイスを行うことや、若者の間に特徴的に多い事故パターン(カーブ・交差点の直進・右折など)の啓発活動、新たに全国150会場で「Hondaスポーツライディングスクール」の実施、事故を防ぐための具体的な知識・スキルの宣伝啓発活動などだ。
このチャレンジ計画の大きな特徴は、実行推進者が販売流通に携わる代理店、販売店である点だった。自動二輪の販売比率の高い販売店を中心に、すべての来店客に安全度診断チェックとアドバイスを実施し、代理店の主催するスポーツライディングスクールに、そこでの訓練が必要と思える客を送り込む責任を負った。
安全度診断チェックおよびアドバイスの実施目標数は年間20万人。スポーツライディングへの動員は年間30,000人とされた。運営に必要なインストラクターは約500人と計算され、そのためにはHMS参加者やセーフティクラブのメンバーの中から、社会人や大学生でライディングのスキルと指導力があり、また指導者として適性のある人々にインストラクターを依頼することになった。
セーフティ・ニューチャレンジが発表されてから代理店側でもライダーが楽しんで学べる「場づくり」が急ピッチで進められた。1989年5月時点でHSR(Hondaセーフティ&ライディングプラザ)が新潟、東京、大阪、岡山、熊本、酒田、仙台、坂出に開設された。参加者は1989年の1年間を見ると978回開催し、のべ1万1,658人だった。年齢別にはターゲットとする16歳から24歳の若者層が56%以上の参加。また、経験2年未満のライダーが43%近くを占めていた。
全国150会場で実施された「Hondaスポーツライディングスクール」
グッドライダー運動の全盛期
セーフティクラブが全国組織に成長
二輪車販売店が個々に持っていたセーフティクラブが全国組織として「全日本セーフティクラブの集い」の統一名称で新発足したのは1980年3月だった。会員は個人ではなくクラブ単位。県、地区、全国のレベルで会長、副会長が選ばれた。
それぞれのレベルでのミーティングなどのイベント開催(日本セーフティクラブミーティング全国大会など)は、従来の活動を継承したが、行政が主催する安全イベントへの協力(安全パレードなど)、カーブミラー磨き、空き缶拾いなど社会貢献のための行動が、重要な活動項目になった。
「全日本セーフティクラブの集い」が、ボランティア活動を強く打ち出した背景には、「三ない運動」に代表される二輪車への世論硬化がある。多くの健全なライダーの存在を世の中に知ってもらうというニーズは、メーカーや販売店のものでもあったが、それ以上にユーザー自身の欲求だった。ライダーは走っているだけで白い目で見られ、ツーリングなど集団で行動すれば、暴走族と非難された。安運本部は「全日本セーフティクラブの集い」が社会公認の団体(具体的には総務庁が認める青少年団体)に昇華され、ライダー保護だけでなく、社会的信用と社会的発言力が強まることを期待していた。
毎年鈴鹿で開催されたセーフティクラブミーティング全国大会には、最盛期7,000人ものクラブ員が全国から自分のバイクで参加し、再会を喜びあった。これは走る機会を提供することを目的に開催したものであるが、世の中に広くグッドライダーがいることをアピールすることにもなった。
結成6年後の1986年に終わり、「H・A・R・T」(Honda Active Riders' Terminal)が誕生した。「セーフティクラブ」から、「日本セーフティクラブ」、「全日本セーフティクラブの集い」への発展は、二輪をめぐる当時の厳しい社会状況を直接的に反映している。この運動の核は二輪販売店(Honda安全運転普及指導員)と銘柄を問わぬ二輪ユーザー、およびHondaの安全運転普及活動だった。「H・A・R・T」は二輪市場が成熟期に入った段階での、顧客サービスの一翼を担う色彩が強い。集団から個の時代へ、という社会変化や、成熟期市場での販売店の経営合理化といった背景もあった。
セーフティクラブミーティングの様子
セーフティクラブを契機に
自由に移動できる喜びを届けたい
全国で組織されたセーフティクラブの一つであるSC肥後は、障がいを持った方自らが運転を楽しむ仲間と集まり、クルマを通して障がい者への理解と安全運転を広く訴えようと発足したセーフティクラブだった。発起人の一人である刀川(たちかわ)哲也は、地元販売会社であるホンダ肥後(現、Honda Cars熊本)の営業スタッフだった。
1980年、刀川はサリドマイドで両腕に障がいを持つ辻典子(現姓、白井)さんが熊本市役所の福祉課に配属されたニュースを知った。「この人にも、クルマを運転させてあげたい」
市役所に出かけることが多い刀川は、福祉課に立ち寄るたびに声をかけ、SC肥後への入会を勧めた。
SC肥後に入会した典子さんは、足が不自由な人たちが、手動式のアクセルとブレーキを装備したクルマで運転していることを知る。自立に向かって精一杯生きている人たちと接し、クルマが足の不自由な人の移動手段として大きな役割を果たすことを理解した。
年が明けた1981年、刀川は安運本部の吉村征之を訪ねた。典子さんの免許取得を実現するためには、まず、運転できるクルマが必要だった。
1981年当時の道路交通法では、両上肢をひじ関節以上失った人には免許取得が認められていなかった。足だけの運転装置は可能でも、法律を変えなければ公道は走れない。吉村は同僚である広報部の松本建夫に相談し、副社長の杉浦英男の了解を取りつけると、運転補助システムの調査と開発費用の捻出のために社内を奔走し、プロジェクトチームを立ち上げた。
三陽自動車学校においてシビックを運転する典子さん
フランツシステムの実用化
両上肢障がい者の免許取得を実現
異例のスピードで進んだ開発が実を結び、1981年5月、埼玉県にある交通教育センターレインボー埼玉に試作1号車が運び込まれ、走行練習が行われた。「あっ、走った!」
日本で初めてフランツシステムを搭載したクルマを運転した典子さんは、当時の思いをこう語る。「クルマがあればどこへでも行けるし、自由になれる。今度のことは私だけの問題ではないと思います。同じ障がいを持つ大勢の人のために頑張らなければと感じています」
1981年6月以降、霞ヶ関や行政諸官庁への説明に奔走し、身体障がい者団体の目の前では自身も両上肢障がいを持つシステムの開発者であるエーベルハルト・フランツ氏が見事な運転技術を披露。一連の運動の成果によって世間の注目が集まり、同年11月には国会で「足で運転する車について」の質疑が行われ、同月下旬に道路交通法施行令一部改正が発表された。1982年、道路交通法が改正。両手が不自由な人への運転免許証の交付が決定した。
両上肢障がいで免許取得をめざすのは、典子さんが日本初。1982年7月、筆記・実技とも1回で合格。これを契機に両上肢障がいを持つ人の免許取得の道が拓かれた。
フランツシステムとは、左足元のペダルを自転車のように漕ぎ、ハンドル操作を行って運転できる装置
『二輪車の事故分析』から始まった
交通事故を科学的に分析する取り組み
1978年、安運本部は1977年のデータを分析し、『昭和52年二輪車の事故分析』を刊行した。警察データをコンピューターによって詳細にチェックし、明らかになった二輪車の事故実態をライダー・ドライバーが活用できるようにわかりやすくまとめたものだ。
例えば、現在では一般的になっている「二輪車の被害者性(二輪車は他に害を加える度合いは弱く、主に四輪車から被害を与えられやすい車)」という概念や、その被害者性を防止するために「二輪車の被視認性(他車から見られやすいこと)」が大切であるというコンセプトが紹介されている。
1978年の刊行当時、社会では二輪車悪者論が一般的だった。二輪車事故といえば、即ち二輪ライダーの暴走と一方的に決めつけられ、四輪車側の非はなかなか世間に受け入れられなかった。今では、指定自動車教習所の学科のカリキュラムでも、混合交通のなかで、二輪・四輪運転者それぞれの相手方に対する留意点などが取り上げられるようになっている。
刊行以降、安運本部の二輪教材に積極的に取り入れられた。二輪指導員教本、また実技訓練(HMS、Hondaスポーツライディングスクール等)、原付教室、原付乗り方教室のカリキュラムにも活かされたほか、講習会、研修会で今日のように定着した。
1980年には九州大学の白藤先生の「情動研究」をサポートする活動も始まり、1982年からは全国の指定自動車教習所の有志で構成する研究組織「交通安全教育研究会」が発足した。
二輪車の事故について科学的分析をまとめた
『SAFETY RIDING 混合交通と2輪車』
Hondaの海外販売チャンネルでの
安運活動が本格化
Hondaの海外販売チャネルで安全運転の普及活動が一挙に本格化したのは1980年代後半に入ってからだった。海外での安全運転普及活動の進め方は国情や交通事情の違い、陸上交通制度の整備レベルなどによって異なってくる。安運本部は海外での普及活動にあたって、事故を起こさないための運転者教育とトレーニングの有用性およびそのための場と指導者づくりに重点を置いた。1980年代の海外活動が盛んだったのは、主にアジア・オセアニア地域だった。
フィリピンでは、1980年にマニラ市郊外の二輪生産工場の敷地にマリワサ・ホンダ・ライディングアカデミー(のちホンダ・ライディングアカデミーHRA)が誕生した。日本を除くアジアで最初のライダー教育の場であり、敷地約8,000平方メートルに教室、オフロード用訓練コースを有した。
当時、フィリピンの二輪市場の特徴は保有台数の80%以上がトライシクルと呼ばれるサイドカー付きタクシーであり、個人用は2割である点だった。さらに、その個人用の8割は業務目的で利用され、個人が通勤や通学等の移動手段に利用していたのは全保有台数の5%程度だった。
シンガポールでは、1985年に政府系資本と合弁の自動車教習所であるSSDC(Singapore Safety Driving Centre Ltd.)がオープンした。シンガポール政府が建設資金を出して設立。Hondaから指導員が出向し、現地インストラクターの指導にあたった。当時、シンガポール政府では、多発する交通事故を食い止めるため、他国の交通制度を調査した結果、日本の制度が最適と判断した。文化の違いを乗り越え、SSDCでは指導者の層に厚みができ、後に近隣諸国の指導者に向けて活動展開の指導や安全教育を実施するまでとなった。
また、韓国とタイでは現地の販売代理店から依頼を受けた安運本部が指導者を派遣して講習会・訓練を開催。オーストラリアでは、1989年、ヴィクトリア州の州都メルボルン市にあるHondaオーストラリアの本社隣接地に、同国初の本格的な二輪の教育・訓練学校「HART(Honda Australia Rider Training)」が誕生した。
1985年に開設されたSingapore Safety Driving Centre(SSDC)
2
1980 イラン・イラク戦争
1983 東京ディズニーランド開業
1985 公社民営化 NTT、JT発足
1986 チェルノブイリ原発事故
1989 昭和天皇崩御