第2章 創部期

暴走族騒動をきっかけに始まった
高校生の安全運転教育

安運本部の創部前年の1969年には、和歌山、名古屋、大阪、六甲山等の各地で集団暴走行為が新聞紙面で取り上げられ、1972年には富山で群衆3,000人を巻き込む暴走族騒動があった。
高校問題への取り組みは山形県から始まった。SJ紙1971年8月号は次のように紹介している。「山形県高等学校安全運転研究会(YHS)が発足したのは今年2月。この研究会には山形県の高等学校長協会、教育委員会、警察本部や県下高校教師が参加、安運本部がバックアップしている。このように教育、警察、メーカーが三位一体となって高校生の安全運転教育を全県あげておしすすめているのは山形県が初めてのことであり、高く評価され、その動向が注目されている」
安運本部には警察、行政、家庭裁判所(少年交通部)など官庁、電力、ガス等の大手私企業からも多くの協力を求める声が寄せられていた。当時、安全運転教育といえば交通法規遵守万能主義、交通のモラルや心構えを訴える精神主義的な講話が一般的だった。安運本部のインストラクターは、実車に乗っての指導を徹底していた点が、高い評価をもって受け入れられた大きな理由といえる。
一方、安運本部が直面した問題の一つは、高性能バイク排斥ともいえる一連の社会現象だった。1972年の春から夏にかけて各地で起きた暴走事件で一気に顕在化した。
愛知県、島根県など一部の地域では高校生をバイクから切り放す「三ない運動」に入り、10年後の1982年、全国高等学校PTA連合会が行ったバイクの免許を取らない、バイクに乗らない、バイクを買わないの「三ない」決議によって、メーカーにとって大きな向かい風が生まれた。
当時の調査では、暴走族の使用車両は7対3で、二輪車が多い。暴走族が用いたバイクはナナハン(排気量750cc)が中心で、約40%を占めていた。500cc以上でいうと65%になる。大型バイク、少年、暴走族という一連のイメージが社会に形成されていくのは、こうした事情を反映していた。
当時は免許制度上、段階取得制のような制限がなかった。16歳で免許を取ると、高性能バイクを誰でも購入、使用することができた。
1972年から広がり始めた暴走族問題を契機に、一般市民や教育関係者の間に、以下のような社会の共通認識が急速に広がり、同意を得ていった。

  • 1. 二輪は暴走族や少年非行の温床である
  • 2. 二輪は事故を多発する危ない乗り物でもある
  • 3. 二輪の免許取得年齢を18歳に引き上げるべきだ

警察庁は1975年の10月、ナナハン対策として、道交法の一部改正を行い、大型二輪車による技能試験を義務づけた。その結果、合格率は当初、2. 9%と激減した。

国際交通安全学会と連携した暴走族研究の推進

1974年9月、本田藤沢記念財団法人「国際交通安全学会」を設立した。安運本部の研究的部分を支援する学者、研究者を中心メンバーにした学術団体で、研究活動を通し、広く交通と安全に寄与することを目的に掲げた。
最初の研究テーマの一つとして暴走族をあげることで、発足したばかりの国際交通安全学会も、二輪排斥の社会風潮に関わることになり、当時の学者たちを中心につくられた。研究結果は、学会誌や単行本などで公表された。

  • 1. 暴走族は、青少年問題であり、特に差別された青少年の問題である
  • 2. 二輪、四輪を非難しても、問題解決には至らない
  • 3. 以上は全国データと面接調査、潜入調査を根拠にしている

学会の報告は、交通行政から提供された全国データや、独自調査などで、初めて数量的に暴走族を把握したものだったので、説得性とリアリティがあり、これを契機に、暴走族は二輪の問題だというような暴論は影を潜めていった。
同学会は設立時、本田藤沢記念と名乗っていたが、当初から早い機会にその冠をとることが計画されていた。「交通とその安全」の研究団体としては、参加した学者や社会から信頼を得るためにも、中立的性格が期待されていたのだ。暴走族研究は、中立性と実証性という立場を貫くことで、そうした社会の期待に応えたものだった。

安全教育の推進とグッドライダーの育成
「青少年と交通安全」シンポジウム

1974年当時、安運本部の戦略は、地道に、確実に、現場主義で進められた。組織的には、支店に配置された地区インストラクターの努力が実り、二輪代理店の安全意識が向上。アンチ二輪の世論と事故の増加、マーケットのかげりなども危機意識を高める効果があった。
こうしたなかで安運本部が企画したのが、全国23ヵ所で実施された「青少年と交通安全」シンポジウムだった。全国の主要都市を巡回し、バイク事故や非行化の実態と対策を公開討議するもので、1974年7月の福岡県を皮切りに2年間にわたって行われた。
当時、高校生のバイク事故は激増している。1974年の1年間で約500名が死亡していた。バイクを禁止するのではなく、乗せて教育する・積極的に指導する、が安運本部の主張の要点だった。高校生の交通事故減少のため、安全教育の必要性を訴えることが目的だが、社会にすでに形成され始めた二輪悪者論、メーカー悪者論に修正を求める側面も持っていた。
開催は文化放送をキー局にした全国の民間放送23局「レインボー会」が引き受けた。同会は安運本部のラジオ番組『おはようグッドドライバー』を契機に、23の放送局を会員につくられたもので、交通安全をスローガンにしている。
開催地は、1974年は札幌、盛岡、山形、松本、尾西、松山、福岡、金沢。1975年は札幌、小樽、盛岡、秋田、仙台、長野、大宮、静岡、岡山、米子、広島、松山、大分、宮崎、熊本。
参加者はマスコミ、教育委員会、警察、安運本部、高校教師、高校生、PTA代表などである。Hondaからは安運本部長が出席した。シンポジウムの間には、教育の効果を知らしめる目的で、高校生対象の安全運転講習会の実演も行われた。

「青少年と交通安全」シンポジウム風景

日常的な安全教育の舞台をめざした
ホンダセーフティクラブ発足

1971年10月、Hondaは次のような宣言を行った。
「安全運転普及指導員の活動を通じ、クラブづくりにも力をそそぎたいと思います。この組織は、安全を中心にした、一般ライダー・ドライバーの楽しい集まりとし、職場・学校・地域につくられるもので、日常的な安全教育が可能になると考えられます」
名称はセフティクラブ(のちにセーフティクラブ)。クラブづくりと運営は、普及活動のなかで養成された安全運転普及指導員が担当するという構想だった。
安全運転普及指導員の養成は、職場・学校・地域などで手を上げた人たちを対象に進められる計画があり、クラブもその線に沿って「職場・学校・地域」につくられる方針だった。
安全運転普及指導員の養成対象がHondaの販売系列に絞られ、クラブの活動内容や運営は次のようなものになった。

  • 1. Honda系列の二輪/四輪販売店ごとにクラブをつくる。名称は○○販売店セーフティクラブ
  • 2. 会員は登録制
  • 3. 会員のインセンティブは安全運転を啓発するための機関誌(月刊)配布
  • 4. ツーリング、ドライブなどの催しは、各クラブが自発的に行う
  • 5. 会費も各クラブが自主的に決める

安運本部ではクラブづくりを呼びかけるマニュアルを販売店に配布するとともに、すでに発行していた隔月刊の機関誌『HONDA2』(二輪ユーザー用)、『HONDA4』(四輪ユーザー用)をクラブ員に配布。機関誌はその後『SAFETY 2&4』と名称が変更された。
セーフティクラブの会則は、クラブ員が安全運転をモットーとし、地域社会の交通安全に積極的に協力することや、安全運転技術の向上に努め、相互の親睦を深めることを強調。クラブ事務局の機能は、各クラブの交流のためのイベント企画とその実施のためのお手伝いで、クラブ活動の主体はそれぞれのクラブにあった。また、クラブ員はHonda車の顧客だけでなく、すべての二輪、四輪利用者を対象とした。
活動は安運本部地区事務局の支援を受けて各地で活発に進められた。地区事務局はまたリーダー養成の研修会を開き、活動の核となる人たちの育成に努めた。4年後の1976年末、登録クラブ数484、クラブ員数約7,000人。最盛期の1980年には登録クラブ数が1,000、クラブ員数約30,000人まで成長した。

左:セフティクラブ発足を伝えるTHE SAFETY JAPAN(1971年10月30日号)
右:セフティクラブ会員に配布していた隔月刊の機関誌『HONDA2』創刊号

二輪車を販売する側が届ける
「手渡しの安全」の重要性

1970年当時、年間の二輪死者数は、3,000人近かった。Hondaも関係行政も、二輪車の事故分析は行っておらず、例えば、死者の過半数が免許取得2年未満、18歳以下といった実態はよくわかっていなかった。ただ、一つひとつのケースから若年者に事故が多発していることは推定できた。
安運本部が二輪事故の増加に対して最初に行ったキャンペーンは「ヘルメットでいこう!」(1971年7月〜 11月実施)だった。70年代の初めは、ヘルメットの必要性が理解されておらず、データも研究論文も知られていなかった。「ヘルメットでいこう!」キャンペーンに対する販売店側の素朴で真剣な反響の一つは、ヘルメットを勧めると、バイクが売れなくなるという心配だった。

左:1971年7月から実施された「ヘルメットでいこう!」キャンペーン
右:1971年から始まった「ヘルメットでいこう!」キャンペーンのハンドブック

安運本部は安全啓発のために『セーフティ資料』を制作。第1号で取り上げたのがヘルメットだった。研究データ収集のなかで、二輪ライダーの死因の67. 6%が頭部衝撃によるなどのことが判明し、ヘルメットの大切さを理解してもらう必要があった。
当時の安運本部は、なぜその活動が必要かを関係行政やマスコミなどオピニオンリーダー層に、理論的、データ的に説明しつつ、顧客、広くは社会に向けてのキャンペーンを行っていた。店頭指導は、その結果生まれた手法の一つである。
また、1970年11月以降に国内で販売されるHondaの新車には『セーフティドライブ セーフティポインツ』が同梱されていた。当時、安全運転の小冊子を車両本体に同梱したのはHondaが初だった。小冊子の前身は、安運本部設立の翌月にあたる1970年11月につくられたリーフレット『安全運転専科』。店頭活動の考え方は、活字だけでなく、血のかよう言葉と心で、お客様を事故から守ろう、に尽きる。「手渡しの安全」という言葉も、この精神から生まれた。

1970年11月以降に国内販売されたHondaの新車に同梱された安全運転小冊子

社会に先駆けて取り組んだ救急法普及
ホンダ・ファーストエイド(HFA)

ホンダ・ファーストエイド(ホンダ救急法・HFA)の活動は、1979年から始まった。この取り組みは、わが国で企業がファーストエイドに本格的に取り組んだ最初のケースだった。
1979年、トップの方針としてファーストエイド講習を、Hondaグループの全従業員を対象として実施することが決定。同年7月には役員室および部長対象の講話「安全とファーストエイド」が行われた。
当時、交通事故に遭遇した際、何とかしてあげたいとは思っても、何をどうすれば良いかわからず、また素人が医者の真似のようなことをしてはいけないという昔からの考えが、「救急」に対して人々に消極的な態度をとらせてきた。脳外科医で、東京消防庁の初代救急部長も務めた岡村正明先生は講話においてファーストエイドを「事故の現場に医者はいない」「死にそうな時に何とか死なないようにして医者の治療を受けられるようにすること」と解説した。
HFAの従業員に対する導入は、各事業所で3日間講習を受けた「HFAインストラクター」を養成。そのHFAインストラクターが8時間の講習を行ってHFA普及指導員をつくり、各事業所でHFAインストラクターとその助手を務めるHFA普及指導員が3時間の講習会を10人から15人の従業員に対して行った。3時間コースの受講者は「救護員」と呼ばれた。HFA講習会はHondaグループ以外からも求められるようになり、開始3年目の81年には受講者数を3万人まで増やした。

ホンダ・ファーストエイド(HFA)研修の様子

HFA研修では実際の交通事故現場を想定した訓練も行われた

ブラジルから始まった
海外現地法人での安全運転普及活動

1972年1月、宗一郎は年頭の記者会見で「海外においても安全運転普及活動を強化する」と言明し、その年の3月「海外安全運転普及推進委員会」が発足した。目標は、二輪生産工場がある国や要望の強い国から活動を行うことだった。
Hondaの海外法人のなかで、最も早く安全運転活動に取り組んだのはホンダ・ド・ブラジル(現、モトホンダ・ダ・アマゾニア)だった。1973〜77年にかけてブラジル全土で開催したHonda Mobile Courseは、石油会社とタイアップしてキャラバン隊を組織し、全国の都市や町でバイクのデモンストレーションや試乗会を開催するものだった。また映画会等のイベントを企画し、その間に交通安全に関する講演を挟みながらバイクを展示・PRを実施。この企画は警察の支持を得て、長時間一般の道路を封鎖して路上でのバイクデモンストレーションや試乗会の開催が実現した。
1978年、ホンダ・ド・ブラジルはサンパウロの本社屋隣接地に、約5,200平方メートルの二輪乗車訓練コースと教室棟を持った二輪訓練センターを建築。国としてライダー教育を行う仕組みがブラジルにはなく、販売店スタッフを乗車訓練のできるインストラクターとして養成し、販売時点で内容のある乗車訓練を行う必要があった。こうした活動により、1985年までに全国48の販売店が自前の訓練センターを持つに至った。

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1970 日本万国博覧会開催
1972 沖縄返還
1972 日中国交正常化
1973 第1次オイルショック
1978 成田空港開港
1979 第2次オイルショック