第2章 創部期

1972年 お客様向け安全運転講習の様子

安全運転普及本部の発足

発案からわずか20日間で立ち上がった安全運転普及本部。前例のない取り組みで、手探り状態から活動方針を固め、活動が明確化されていくと、瞬く間に日本全国へ普及の輪が広がっていきました。そして、設立からわずか2年後の1972年、本部から認定を受けた安全運転普及指導員は8,000人を超えて、安全運転講習会参加者も6万人に達し、全国的な組織化も進んでいきました。

スローガン、シンボルマークの制定と
知識人、交通行政関係者との交流

安全運転普及本部(以下、安運本部)事務局は本社(Honda八重洲ビル)6階のサービス部の一角で活動を開始した。「走りながら考えろ」がスタート時点の実状を象徴する言葉になった。設立した1970年10月から71年3月頃までの立ち上がり期間に、集中的に行ったのは以下の7点である。

  • 1. 活動方向や活動内容について外部の有識者の意見を聞く
  • 2. 活動プランをつくる
  • 3. Hondaの安全運転普及活動と誰にもわかる中心スローガンとシンボルマークをつくる
  • 4. Hondaの安全運転普及活動と誰にもわかる移動バス(走る安全運転教室)をつくる
  • 5. ユーザー啓発用の安全運転パンフレットをつくる
  • 6. 専門に安全運転普及の活動を行うインストラクターを養成、本社および各地区に配置する
  • 7. Hondaの安全運転普及活動を専門に行う宣伝・教育プロダクションを外部に育成する

スローガンとシンボルマークは、安運本部という新しい組織を社会に認知してもらうために不可欠のものである。スローガンの条件は、Hondaの企業ポリシー(人命尊重、安全運転普及は企業の社会的責任)が反映されていること、松明を高くかかげること、遠い将来まで見通してあること、明るく前向きなイメージ、などである。1971年はじめ、スローガンとシンボルマークが社会に発表された。
安全運転普及活動はHondaにとって今までにない活動だった。経験や理論が少ない現状を打破するため、学識経験者をはじめとしたブレーンとの交流を積極的に進めた。交流・懇談の目的と相手は以下のように要約できる。

  • 1. 日本の社会構造、社会の動きなどへの理解を深め、社会と企業の良い関係をつくり出すための、知識人との交流
  • 2. 交通安全の理論と科学を発展させるための、知識人、交通行政、交通教育関係者などとの交流
  • 3. 活動展開のための社会システムをどうつくるか、交通行政関係者との懇談

各界の知識人との人脈をつくる活動のなかで、社会というものを理解するため、安運本部は様々なアドバイスを受けた。

安運本部設立当初に用いられたSAFETY JAPANシンボルマーク

交通安全への姿勢を社会に
積極的に伝えていく広報活動

安運本部の最初のミッションは、Hondaの信用とイメージを早急に確立することにあった。そして、クルマを利用する人たちの安全を守るのは自動車・二輪車メーカーの社会的責任であり、Hondaが率先して日本と世界の交通事故減少の役割を果たそうと考えていた。そこで、社会に対して納得性の高い「考え方」を提示し、実践でその正しさを証明し、積極的な広報展開を行う準備が進められていった。

  • 1. 交通事故は、人、車、環境の相互関係で発生する
  • 2. 交通事故を防ぐうえで、ドライバーの役割は極めて大きい
  • 3. Hondaは車(ハードウエア)と運転者(ソフトウエア)の両輪で、安全を推進する

この考え方に対立するのは、いわゆる欠陥車騒動や交通事故急増を背景に、マスメディアを通して社会に広まった考え方だった。大半の責任を二輪車・四輪車に負わせるものであり、程なくナナハン問題や50ccミニバイク事故増(高いスピード、大きな馬力は不要)、暴走族問題、三ない運動などでも、マスコミと世論の主潮になっていた。
1971年3月15日、安全運転普及本部長 西田通弘の名で、官公庁、自動車関係専門家、マスコミに次のようなステートメントを発表した。

<車を安全、快適に乗っていただくこと>これが、ホンダの心からの願いです。
ホンダは、これまでに二輪1500万台、四輪110万台という数多くの車を世界中にお届けしてきました。
ホンダは、つねに積極安全思想を元本とし、製品を開発・生産すると共に、お客さまに最高の状態でお乗りいただくための完璧なサービス体制に、オールホンダを挙げて取り組んでまいりました。
また、かねてより人間尊重の基本に立って、車の理解と正しい運転の普及にも積極的に努力してまいりました。
しかしながら、年を追って激増する交通災害は、誠に憂慮すべき事態にあります。
わたしどもは、昨年10月〈ホンダ安全運転普及本部〉を設立し、従来の活動をさらに拡充・強化させ、より豊かなカーライフ育成に寄与したいと念願しております。
すでに、この理念のもとに積極的に活動中です。
皆々さまの、この活動に対するご理解とご協力を以って、わが国の交通災害防止にいささかでも役立てば幸甚に存じます。
どうぞ絶大なるご支援とご協力を心よりお願い申し上げます。昭和46年3月

一世を風靡した商品宣伝が一行もない広告展開

ステートメントを発表した翌日の3月16日、全国の主要新聞にHondaの『ご報告』と、本田宗一郎社長の『ルーニイさんの話』からなる1頁全面広告が掲載された。
この社告の主旨は、軽自動車N360をめぐって起きた社会問題について、会社の考えを明らかにするとともに、人間尊重の基本に立ち、自動車メーカーの義務として、3つの原則を社会に約束したことである。3つの原則とは「1.積極安全思想に徹した安全車を提供する」「2.万全の安全整備を行う」「3.安全運転普及運動を推進する」であった。
発足して数ヵ月しか経過していない時点で、新聞の全面広告を出して取り組みを発表し、その大部分を1〜2年のうちに達成したことを考えると、当時のHondaがいかに安全運転活動の普及促進に重きを置いていたかわかる。欠陥車騒動に端を発していたとはいえ、企業の存亡をかけた取り組みと表現しても過言ではない。
その後、全国紙と主な地方紙を使った、商品宣伝の部分が一行もない、ひたすら交通安全知識の啓発に徹した広告は、社会的に大きな反響を呼んだ。

  • ◎新聞広告のテーマ
  • ・二輪ライダーの3つの基本(1971年5月31日)
  • ・交通安全のための問題集 正解率は?(6月6日)
  • ・カーブに向かう。くだり勾配、見通し悪し(6月19日)
  • ・もうひとつの鈴鹿(7月4日)
  • ・点検(9月12日)

訴求の仕方も斬新だった。例えば、6月19日付の『カーブに向かう。くだり勾配、見通し悪し』は、「セフティドライバーは、このカーブに入る前、《予知情報》22項目を処理します」と副題がつくように、今日では広く利用されるようになった危険予測トレーニングを、1971年の段階で先駆的に使っていた。
一連の広告は、やがて日本の交通安全教育のベースとなる考え方、知識、理論、学識者との協力、教育の場の設置を社会に提供するものでもあった。広告をきっかけに、安全運転普及指導員に応募してきた一般市民が1,820人に上ったことからも、その社会的反響の大きさがうかがえる。

社会に早急な信用確立をめざし
積極的な広報活動を展開

安運本部設立の翌年の1971年8月、月刊紙『THE SAFETY JAPAN(SJ)』が創刊された。媒体の役割は、日本の交通安全に寄与する情報提供と、Hondaの安全運転普及活動の報道であった。紙面はタブロイド新聞サイズを採用。そのため、極力メーカー色を出さない編集方針のもと、安全運転についてのデータ、情報の提供、各界オピニオンリーダーによる安全運転への意見発表に力が入れられた。
SJは発行当初より第三種郵便物に認可されていた。郵便法では第三種郵便物を「国民の文化向上に資する定期刊行物の郵送料を安くして、購入者の負担を減らすことで入手の便を図り、社会・文化の発展に役立つことを目的としたもの」と定義しており、紙面の公共性が社会的に認められた証左の一つといえる。
時を同じくして、安運本部ではラジオ・テレビといったマスメディアを活用した広報啓発活動を積極的に展開。文化放送朝のラジオ番組『おはようグッドドライバー』は1972年から10年間放送された。

山形県高等学校安全運転研究会(YHS)の取り組みを伝える
THE SAFETY JAPAN創刊号(1971年8月10日号)

安全運転普及活動を長期継続するための組織づくり

1970年から73年にかけて、安全運転普及活動の組織づくりが3つの面から行われた。1つ目は、本社、支店、県別代理店、営業所といった二輪・四輪の販売網をあげて、活動に動員できる体制をつくること。2つ目は、本社、支店、県に対応して、Hondaの指導員づくりを進めたこと。3つ目は、地域や職域で日常的な活動にあたる一般の普及指導員づくりである。
安全意識や運転スキルを普及・啓発するには、専門的な知識を持った指導者が必要である。安運本部はHonda従業員を対象に、1971年1月に公募を行い、300人を超える応募者の中から、20人を第1期インストラクターとして採用した。続いて関連会社にも同様の呼びかけをし、30人が採用された。合わせて50人の採用者は、鈴鹿サーキット安全運転講習所(現、鈴鹿サーキット交通教育センター)で、2月1日から7日間の厳しいトレーニングを受け、正式のインストラクターとして独り立ちしていく。
トレーニングの講師は、安全運転普及活動については本部長と事務局長、運転スキルや教育手法については、安全運転講習所の所長、専門の指導員、プロのインストラクターが担当した。
第1期インストラクター50人は、1971年5月初旬、本部(本社)、地区(支店)、製作所、関連会社などに配置され、地区推進委員長(支店長)の管理下で活動を開始した。
本部と地区のインストラクターの最初の大きな仕事は、県支部インストラクターの養成と、1971年夏から始まった販売店の社員や一般応募者を対象にした、二輪・四輪の普及指導員の養成だった。
普及指導員は、販売店の店主やスタッフの方々、学校の先生、公務員の方など、安全運転の普及促進に情熱と関心を持つ方々を広く組織しようとするものだった。1971年7月15日時点で、全国に1,500人の普及指導員が誕生していた。計画では、普及指導員はHonda販売店の経営者、従業員などを中心に、職域や学校においても安全運転の思想と技術を啓発してゆく人材を育成し、1972年中に6,000人にまで拡げる予定となっていた。
実際、1972年の報告資料によれば、普及指導員が行った講習会および鈴鹿での講習会を除いた本部、地区、県支部インストラクターが行った安全運転講習会の参加者は約60,000人(1972年3月時点)に達した。内訳は学校(41,955人)、官公庁(6,466人)、一般(11,442人)。インストラクター(主として県支部)が担当する講習会の実に70%は「高校生」が対象だった。

鈴鹿サーキット安全運転講習所でのインストラクター養成の様子

全国各地に整備を進めた交通教育センター

Hondaは交通安全教育には、「危険を安全に体験してもらう(危険を知ることで安全の大切さがわかる)」「実車を使った運転実技のスキルアップが欠かせない」の2つを一貫して考えてきた。そのためには広いスペースと様々な路面状況を再現できる設備、機材類が揃う専用の施設、そして特別に訓練された指導者が必要である。
安運本部設立当初、安全教育の啓発とトレーニング普及のため、鈴鹿サーキット安全運転講習所の活動を強化することをはじめ、安全運転普及常設館(ホンダショールーム = SRを活用)を全国の主要都市につくり、シミュレーターなどを設置して安全啓発を行うこと、さらには専用バスを使って各地で安全運転移動教室を開催する構想を練っていた。後年、安全運転普及常設館(東京)の設置、安全運転移動バス活動など一部実施に移されたが、実際の活動を通して「交通教育センター」構想に発展していった。

専用バスを使って各地で安全運転移動教室が開催された

交通教育センターの構想は、地区(各支店)ごとに一つの交通教育センターをつくるのを最終目標とし、安運の地区活動と一体になって、教育実践の場として、活動を進めていくものだった。
1973年7月に第1号となる交通教育センター福岡が誕生し、Hondaの姿勢が、社会に広く明らかにされた。その後、各地で開設が進んでいく。

左:安全運転普及常設館パンフレット
右:交通教育センター福岡設立当時のパンフレット

安全運転教育の理念は
「危険を安全に体験させる」こと

安運本部の教育プログラムは、警察・官公庁を対象とした鈴鹿サーキット安全運転講習所の体験型トレーニングが原点である。しかし白バイ隊員のための訓練内容を骨子にしていたため、体験型トレーニングとともに集団規律を厳しく守ることに重きが置かれていた。一般のライダー、ドライバーを対象とした安運本部の活動とは目的も役割も大きく異なっていた。
1972年4月の第3回安全運転普及活動報告会(設立報告を第1回として)で、宗一郎は次のように語った。「安全は危険と隣り合っている。危険を知ってこそ、安全を本当に理解したといえる。危険を知識で知らしめ、身体で知らしめること、つまり安全に危険を知らしめることが基本である。したがって安全に危険を体験させることが私どもの活動である」
宗一郎の言葉によって、一般のライダー、ドライバーを対象としたHondaの安全運転教育の理念が確立した。
また、このとき、「安運インストラクター→普及指導員→一般ライダー、ドライバー」の流れで、地域や学校での安全運転講習会を進めることも発表された。ホンダ安全運転普及指導員のための実技指導用、講義用のマニュアル、通信教育用マニュアル(二輪用、四輪用)がつくられ、指導員のレベルアップに用いられた。
一般を対象に開発された二輪、四輪の安全教育プログラムの特色は、駐車場など一定のスペースがあれば実技訓練が可能な点で、広く普及が期待された。
「バイクワンデースクール」を(社)全国二輪車安全普及協会へ提供、「スポーツライディングスクール」、「女性ドライバー教室」、「1日ドライバースクール」などの教育プログラムと教本の作成と並行して、ライダー、ドライバー教育の場づくりも始まった。
やがてHondaが行う安全運転のトレーニングは、教育プログラムで一般と職業ライダー、ドライバー用、指導者としてはインストラクター(安運本部、地区、県支部、交通教育センター)と普及指導員、専用施設として交通教育センターを備えた統一的なものに成長した。1973年は、安運本部が啓発から実技指導まで、名実ともに安全運転の普及が行える教育体制を整えた年といえる。

指導員養成に使用された
「普及指導員マニュアル」と「講義用マニュアル」

教育プログラムの礎は交通事故の科学的分析

Hondaが安運活動の根底に置いたのは、交通事故の実態と分析である。教育プログラムの開発も、交通事故の分析をベースに置いている。現在は、警察庁の交通統計をはじめ、(公財)交通事故総合分析センターといった公的機関などにより、数量的、ミクロ的な分析が行われているが、70年代には現在ほど整備されていなかった。そこで安運本部は、オールHonda従業員が関係した二輪車の交通事故(1,764人)を調べることから始めた。この従業員の交通事故調査結果は、安運本部資料『二輪車と事故』としてまとめられ、関係方面に配布された。
さらに、警察庁交通局の全面的な理解とデータ提供のなかで進められた分析作業『2輪車〈自転車を含む〉の死亡事故分析 死亡事故のかたちと原因』で、調査はさらに深められていく。最初の1冊は1975年の事故を数量分析したもので、1977年4月に、警察庁交通局と安運本部のそれぞれの名前で発刊された。この二輪事故分析シリーズは、1984年まで続けられた。
一連の分析の大きな特徴は、分析対象を第一当事者だけでなく、第二当事者まで広げたことで、二輪事故の全体像が初めて明らかになった。
Honda安全運転普及指導員のマニュアル(二輪用、四輪用)などの教材では、医学(生理学など)、心理学、工学などの研究成果が、内外から取り入れられ始めた。ヘルメットについての米英の研究、運転中の視力低下、視野狭窄研究、認知から操作までの運転行動と心身反応、運転と性格の研究などが、二輪車や四輪車の運動特性の研究成果とともに、教材に採用された。
これらの研究成果を、実地に役立つよう教育プログラムに組み入れていったのは、本部、地区のインストラクターたちである。当時のインストラクターの一人はこう語っている。「ベースは鈴鹿で学んだものですが、様々な専門家の方のアドバイスをつけ加えながら、カリキュラムを改善していった。『精神主義』のような部分はなくしていった。鈴鹿では一人ひとりの走り方を見て、どうアドバイスしていくかということを学んだ」

警察庁交通局の協力で分析作業がまとめられ1975年に刊行された
『2輪車〈自転車を含む〉の死亡事故分析 死亡事故のかたちと原因』

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1970 日本万国博覧会開催
1972 沖縄返還
1972 日中国交正常化
1973 第1次オイルショック
1978 成田空港開港
1979 第2次オイルショック