ノンフィクション小説本田技研
「ええっ、安全対策の研究?それが私の配属ですかあ」
小林三郎は、思わず自分の声が高くなったのに気づかなかった。
「そうだ。新設の第6研究ブロック。メンバー46人。今、ウチの研究所は700人ほどだから、結構大所帯だぜ」
小林は半ば茫然とした。
スポーツカーを作りたくて(株)本田技術研究所に入社したのだ。
それが・・若い夢が急にしぼんだ。
研究所の大食堂でコーヒーを飲んだ。苦い味がした。
テレビは小柳ルミ子の「わたしの城下町」を流している。ニュースに変わり米国のベトナム反戦運動が出た。1971年とはそんな年だった。
前年には大阪万博が開催されている。自動車の安全には関心さえ払われない頃だった。突然、小林から離れた席で笑い声が弾んだ。
エンジンや車体の連中のようだ。───来年出る初代シビックのチームかなあ。ああいう所には・・俺は行けないんだ。
安全の"6研"か。
──小林はコーヒーを飲みほした。やはり苦かった。
この6研はやがて数々の独創的な安全デバイスを生みだすことになる。
4WS(4輪操舵システム)、4輪ABS(アンチロックブレーキシステム)
──だが、それはずっと後のことでスタート以来10年は何も出てこなかったのだ。
見向きもされないがため、いつしか"猫またぎの6研"と呼ばれた。
小林の担当は、猫もまたいでゆく地味な6研の、なかでも難関のエアバッグシステムの開発だった。
小林たちは議論を重ねた。
人間は神様じゃない。時にはミスをする。
事故を未然に防ぐためのブレーキ等の研究は一次安全だ。
小林は孤独だった。
技術開発には予測というものがある。その先の見通しが立たない。
やってきたことが全てむだに終わるかもしれない。
辞めたい。毎夜そう思った。だが、もう部下のいる身だった。
10数人のチームは4人に減り、その責任者なのだ。
ある日、計画説明に上司を訪れた。「小林君、これ中止だ」「えっ!」