モータースポーツに
かける想い

世界の最高峰レースに挑戦

「T・Tレースに出場、優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君と共に誓う。」1954年3月、本田宗一郎は二輪ロードレース世界選手権のマン島TTレースに参戦することを宣言します。54年といえば、最初の製品である自転車用補助エンジンのA型を生産開始してからたった7年です。ドリーム、ベンリイ、ジュノオなど二輪商品を拡充していたものの、いきなり世界最高峰のレースに挑むのは無謀と言われてもしかたのない挑戦でした。しかし、Hondaには創業期から、不可能と思える命題に挑戦する風土があったのです。

59年に125ccクラスに初出場し、60年には250ccにも参戦。信じられないことに61年には125cc/250ccの両クラスで1位から5位までを独占する勝利を果たしました。Hondaの高い技術力を世界に示すと共に、社内では大きな夢を共有し、それを果たすという一体感を生み出しました。モータースポーツはHondaの企業文化に深く根差すことになります。

1959年、レースによって技術が鍛えられるという信念から、日本初の完全舗装の本格的レーシングサーキットの建設に着手し、1962年9月に鈴鹿サーキットが完成。11月に第1回全日本選手権ロードレースが開催された。日本初の高速道路である名神高速道路よりも早い開業でした。

その出来たばかりの鈴鹿サーキットでは、Hondaは初の四輪車のコンセプトカー、SPORTS360を披露。1962年の全日本自動車ショーで軽トラックT360とともに一般公開され、1963年にはT360、S500が市販されました。

四輪車を発売した翌年には自動車レースの最高峰、フォーミュラワンに参戦します。1964年8月2日のドイツGPにエンジンもシャシーも自社開発したRA271で参戦。そして1965年10月、メキシコGPでRA272が初優勝を果たします。 最高峰レースに挑む、勝って技術を磨くことが、四輪でも達成されました。

レースは人と技術を育てる道場

レースでは量産と比べて極めて短期間に開発を行い、その技術の優劣がレースの成果で誰の目にも明らかになることから、技術者を育てるのに最適な道場であるとHondaでは考えます。実際にレースエンジンやレーシングカーの開発をした技術者が、後の量産車の開発で力を発揮し、またレース開発に戻ってくる、ということがHondaでは当たり前です。
一部の例外を除いて、Hondaではほとんどのトップカテゴリーレースの開発では、Honda内の技術者達が自ら開発を行います。もちろん、サプライヤー様やパートナー様たちの協力を得ながらですが、開発全体を第三者委託したり、人に委ねたりすることはあまりありません。それでは人を育てることに繋がらないからです。

前述のマン島TTレース含むロードレース世界選手権から1967年をもって撤退してから12年を経て79年にWGPに復帰しましたが、4年ほど完走も難しいほどの低迷期が続きました。Honda独創の楕円ピストンやアルミモノコック構造の車体など、ユニークな技術を盛り込んだもののレースでの実戦では問題が多発しました。

四輪でも2008年を持って終了した第三期の後、7年のブランクを経て2015年にF1に復帰しましたが、初勝利を挙げた2019年までの4年間は苦悩の連続でした。

しかし、自らの手でユニークな技術を開発するので、時間は要しましたが、いずれも後の大きな勝利に繋がっていく道筋でした。

不可能と思える目標に挑み、もがき苦しみながら努力を重ねて勝利を掴むことで、人々に感動を共有する。
それがHondaのモータースポーツの真髄だと考えます。