予選クラッシュでシーズン終了。2年連続で栄冠を逃す

1987年11月1日第15戦 日本GP
鈴鹿

王座に向けダントツの速さを見せるも

鈴鹿サーキットが1962年秋に開設されてからちょうど25年、F1グランプリが初開催されることになった。Hondaエンジン搭載車の活躍、「日本人F1初レギュラードライバー」中嶋悟(ロータス・Honda)の奮闘など、F1人気は大いに盛り上がっていた。ところが、思いがけないチャンピオン決定劇に、鈴鹿中が、F1界全体が、大きく揺れた。その中心人物であるナイジェル・マンセル(ウィリアムズホンダ)が、予選中のクラッシュ負傷によって、彼の逆転王座のかすかな可能性は消滅してしまったのだ。

前戦メキシコGPを終えたところで得点争いは、ネルソン・ピケ(ウィリアムズホンダ)73点/シーズン3勝(総得点76)、マンセル61点/同6勝、アイルトン・セナ(ロータス・Honda)51点/同2勝、アラン・プロスト(マクラーレン・TAG)46点/同3勝であり、マンセルが逆転王座を射止めるためには鈴鹿と最終戦オーストラリアGPで勝たなければならない状況だった。コンストラクターズ・チャンピオンは第13戦スペインGPでのマンセルの勝利によって、すでにウィリアムズホンダの2連覇が決まっていた。

グランプリ・スケジュールは通常金曜日から始まるが、初開催や大改修後の場合は木曜から完熟走行が行われる。鈴鹿も木曜午後のフリー走行から始まった。Hondaのテストで鈴鹿走行の経験があるマンセルはこのセッションでも翌金曜日午前のセッションでも最速タイムをマークする。金曜日の走行では1’42”101という、2番手以下に1秒近くもの大差をつける圧倒的なものだった。

鈴鹿は金曜の予選時からすでに盛り上がっていた。ほとんどの日本人ファンにとって初めて生で見るF1。かつて富士スピードウェイで2度行われたF1グランプリから10年もの歳月が経っていた。

S字で大アクシデント、負傷欠場

金曜13時から1時間の予選1回目が始まって、まだ15分という時だった。マンセルが1分42秒616を記録、ピケがそれを上まわる1分41秒423をマークすると、まだ40分も残っているというのに、マンセルはすぐにタイヤウォーマーを外させ、再アタックに入った。そして4速200km/hでS字コーナーを駆け上がろうとしたところで、砂埃に乗ってスピン、後ろ向きでアウト側タイヤバリアにぶつかるとFW11Bは宙高く舞ってコース上に落下、コクピット内のマンセルは自力でコクピットから出られずにいた。ヘルメットを脱いで苦痛で顔を歪めるマンセルは、腰や背骨を強打し、名古屋の病院までヘリコプターで急送された。骨折こそなかったもののドクターストップが掛けられ、マンセルは土日のうちにイギリスへ帰国することとなった。これにより、マンセルの決勝レース欠場が決まった時点で、ピケ自身3度目の王座(1981年と1983年はブラバム在籍)が確定した。しかしチームの誰にも笑顔はなかった。「こんな形で終わらせたくはなかった」とピケはコメントしている。優勝かリタイアかというマンセルと、着実に2位を狙いポイントを重ねたピケが繰り広げた熾烈なタイトル争いは、最終戦を前に鈴鹿であっけなく幕切れを迎えた。

無冠の帝王と呼ばれて

マンセルのいない決勝レースは、若手ゲルハルト・ベルガー(フェラーリ)が完勝する。2年間未勝利だったフェラーリがホンダの地元で勝つとは意外な結果だった。王座を決めたピケはやや精彩に欠け、セナと3番手争いをしていた終盤47周目、エンジンから白煙を上げてピットインして脱落。ロータス・Honda勢は、セナが最終ラップにステファン・ヨハンソン(マクラーレン・TAG)を抜いて2位を奪い、中嶋は6位入賞でポイントを獲得。週末3日間で集った22万人の観客からはこの健闘に歓喜した。

マンセルがHondaとともに戦った3シーズンにわたるストーリーは、鈴鹿でのアクシデントで幕を閉じた。マンセルにとっては無念の2年連続逸冠となったが、自らの速さを証明し、トップドライバーへの道をハイスピードで駆け上がった3年間だった。そして第2期Honda F1も、この3年間で2度のコンストラクターズタイトルを獲得し、トップエンジンの座を揺るぎないものとした。この成長にマンセルの貢献が欠かせなかことは言うまでもない。

勝利を求め続けるマンセルは、1989年一時フェラーリに移籍するもタイトル争いに絡めず、「無冠の帝王」という不名誉なニックネームを授かることになる。そしてマンセルが念願のワールドチャンピオンを獲得できたのは、古巣ウィリアムズに戻って2年目の1992年のことだった。