逆境を跳ね返し追い上げ、0.014秒差の僅差フィニッシュ

開幕直前フランク代表が重傷を負う
1986年3月、F1界に激震が走った。ウィリアムズ・チーム代表者であるフランク・ウィリアムズが交通事故に遭い、下半身不随となってしまう重傷を負う事態が発生したのだ。しかしチームは、チーフエンジニアのパトリック・へッドを筆頭にフランクの旧友たちの尽力により、滞りなくシーズン開幕へ準備を進めた。フランク自身も半年後には車椅子に乗って現場に復帰。このアクシデントはチームの結束力より高める結果となった。ただチームには懸念材料が開幕前からあり、それはシーズンが進むにつれてより顕著な問題となっていた。それはこの年から加入したワールドチャンピオン経験者のネルソン・ピケと勢いに乗るナイジェル・マンセルのライバル関係だった。開幕戦でピケが優勝し、ウィリアムズホンダは順調にシーズンをスタートさせたが、ふたりのライバル意識のボルテージは上がっていった。

快走も痛恨のスローパンクチャー
5年ぶり開催となったシーズン第2戦スペインGPは、新設のヘレス・サーキットが舞台となった。ドライバーはもちろん各チームとも初めてのコースとなり、タイヤメーカー(グッドイヤー&ピレリ)にとっても、レース中のタイヤ交換を要するかどうかは微妙で難しい状況だった。
レース周回数は72周。ここまで連続ポールシッターのアイルトン・セナ(ロータス・ルノー)が39周までトップを走る。ロータスにとってはF1グランプリ通算100回目のポールポジションでもあった。一方3番グリッドスタートのマンセルは序盤5番手まで順位を落とすも33周目までにマクラーレン勢と僚友ピケを抜いて2番手に上がり、40周目にはセナもオーバーテイクし首位に立つ。その直前の39周目にピケはエンジンから白煙を吹いてリタイアを喫している。
レース前半に燃費を気遣いペースを落としていたマンセルは、レース後半に向けて主導権を握った。ところがその後リードを広げられず、63周目に極端にペースを落としてしまいセナと直後に続くアラン・プロスト(マクラーレン・TAG)になす術なく抜かれてしまう。後輪の1本がスローパンクチャーしていたのだ。その数周前からタイヤに金属片(リヤディフューザーパネルの破片)が付いていることに気づいたチームはマンセルにピットインを促していたが、本人はこれを拒否。しかし3番手まで落ちたことで観念し、このラップでタイヤ交換となった。ピットインには9秒を要し残り8周時点で首位セナから19.186秒遅れとなったマンセルだが、フレッシュタイヤを得てファステストラップを記録した65周目には首位セナに1周4秒もの差を詰めて追い上げる。69周目には2番手プロストを抜き去り、70周目に入ったところでセナとの差は5.354秒だった。
僅差のフィニッシュ
なんとかトップを死守していたセナだったが、タイヤが限界を迎えておりコースにとどまるのが精一杯という状況だった。最終ラップに入ったところでトップ2台の差は1.589秒。ヘアピン状の最終ターン16を立ち上がって最後のストレートに入り、アウト側ラインを目一杯使って立ち上がったセナの背後からマンセルがイン側に飛び出てチェッカー直前の加速合戦となった。ほぼ併走したところがフィニッシュラインで、横一線のサイド・バイ・サイドの末、その差0.014秒で勝ったのはセナだった。71年イタリアGP、モンツァでの有名な0.01秒差ゴールに匹敵する大接戦だった。自分が勝ったと思い込んでコクピットから降りたマンセルは「エッ? 」という表情を浮かべたが、やれることはやったという満足感からか、表彰台上でセナとマンセルの間は穏やかに、お互いの健闘を讃え合った。そしてマンセルは記者会見で入院中のフランク・ウイリアムズに対し「たぶんテレビを見ているよね。ごめんよ、あとほんの少しで勝てなかった。チームもHonda エンジンも素晴らしいから、次は必ず勝ってみせる」と熱いメッセージを送ったのだった。

