キャリア72戦目で念願の初優勝

Hondaの進化とともに急成長
Hondaは1983年シーズン半ばに第2期F1活動を開始。15年ぶりのF1復帰だった。まずF1参戦のため設立したスピリットでテスト参戦し、最終2戦から1980~81年にコンストラクターズタイトルを獲得したウィリアムズにエンジン供給。1984年から本格参戦を開始した。ドライバーは1982年チャンピオンのケケ・ロズベルグとジャック・ラフィット。初期のホンダ1.5ℓV6ターボエンジンはパワフルだがパワーバンドが狭く、信頼性もあまり高くなかったが、1984年猛暑のダラスGPではロズベルグの大健闘により第2期での初優勝を果たした。そして翌85年、ラフィットが古巣リジェ・ルノーに戻り、ナイジェル・マンセルがロータス・ルノーからウィリアムズホンダの一員となった。彼は新天地を得るや、勇猛果敢で鳴らしたロズベルグに負けぬ好走を見せ始める。シーズン前半は予選順位でロズベルグに及ばなかったが、全16戦を終えた時には予選でチームメイトに対し7勝9敗にまで盛り返してきた。第5戦カナダGPから投入したHondaの改良型エンジン「Eスペック」が本領を発揮し始めると、マンセルの速さもその本領を発揮し、優勝の可能性が高まってきた。
マンセルは第13戦ベルギーGPで新鋭アイルトン・セナ(ロータス・ルノー)とこの年のチャンピオンとなるアラン・プロスト(マクラーレン・TAG)との間に割って入ってシーズン初表彰台となる2位に入ると、その次戦イギリス・ブランズハッチで開催されたヨーロッパGPで遂に自身初の勝利を遂げた。地元グランプリで達成した歓喜の初優勝は、F1グランプリ出走72戦目に成し遂げられた悲願の勝利だった。

ロズベルグの“ナイスアシスト”
決勝スタート直後、予選3位のマンセルは好スタートで2番手に進出するが、ターン2で軽くコースアウトしてロズベルグとネルソン・ピケ(ブラバム・BMW)に先行されてしまう。ロズベルグは序盤、首位のセナに仕掛け続けるが、7周目のターン4でセナがインを閉じてきたことで接触、巻きこまれたピケはその場でリタイアとなった。左後輪をパンクさせたロズベルグはピットに戻ってタイヤ交換後、ほぼ1周遅れでコースに戻る。その戻った場所は、先頭セナとそれを捉えんとするマンセルのすぐ前方だった。9周目のターン3、ロズベルグがペースを落としながら巧みなライン取りでセナの鼻先を抑える間に、マンセルはコーナー出口でセナを一気にかわして首位に立つ。当時は周回遅れが首位マシンにポジションを譲る義務はなく、ロズベルグはマンセルに迫るセナの前に立ちはだかり、その間にマンセルがリードを広げることに成功。ロズベルグは見事なチームプレイを見せ、マンセルのトップ死守に大きく貢献した。

ブランズハッチを圧倒したHonda
これ以降、マンセルは75周目までその座を保つことになる。驚くべきは、セナがペースダウンを余儀なくされていることを見届けたロズベルグが、猛烈なペースで首位マンセルを抜き返して同一周回に復帰すると、3位表彰台まで順位を戻したことだ。「Eスペック」のレースディスタンスを通した速さは圧倒的で、レース後のインタビューで「マンセルはどこが速かったか?」と聞かれたセナは、「直線スピードと加速」と答える。この頃からセナはHondaエンジンの優位性を強く意識するようになったと言われている。
12万人の観客を前に首位を快走するマンセルは右手の拳を振り上げてチェッカーを受けた。イングランド人のF1グランプリ勝利は1977年最終戦・日本GPのジェームス・ハント以来8年ぶりのことだった。
