第2期F1活動につながる、最初の功労者

1980年6月8日ヨーロッパF2選手権第6戦
マールボロ・フォーミュラ2・トロフィー(シルバーストン)

Hondaとマンセルのジョイントは、F2参戦から始まった

Hondaは1968年にF1活動から一時撤退したが、12年ぶりに国際レースに復帰した。その舞台に選んだのは、F1のすぐ下に位置するF2ヨーロッパ選手権だった。1966年にブラバム・HondaがF2で12連勝したが、当時ブラバム・シャシーの設計者だったロン・トーラナックは、1970年代半ばにシャシーコンストラクター「ラルト」を創設。Hondaは第1期F1時代に監督を務めた中村良夫のアドバイスによって、F2復帰の際にこのラルト社と組むという道を選んだのである。1980年当時F2界で優勢だったのは、マーチや新興トールマン。エンジンとしてはBMWやハートの直列4気筒勢。それに対抗して将来のF1参戦も目標としていたHondaは、80度V型6気筒のRA260Eを開発した。そしてそのエンジンを積むラルトのテストドライバーとして起用されたのが、当時は無名のナイジェル・マンセルで、そのまま1980年シーズンのF2参戦ドライバーとなった。

その前年の1979年9月、チーム・ロータスを率いる天才コリン・チャップマンは、フランスのル・キャステレ(ポール・リカール)で若手新人5名によるF1オーディションを行い、マンセルはそのなかのひとりだった。イギリスF3選手権で非力なトライアンフ・エンジンながらしばしば好走を見せていた実績が評価されたのである。しかし1980年ロータスF1のレギュラーとなったのはエリオ・デ・アンジェリスで、マンセルはテストドライバー契約にとどまった。ロータスF1でのテスト走行経験は光栄なことだったが、実戦参戦の機会はなかなかやって来ない。自力で参戦していたイギリスF3選手権の資金も尽きかけていた。そんなタイミングで、ラルト・Honda陣営からマンセルにF2ドライブの声が掛かり、マンセルは積極的にF2レースに挑んだ。

綱渡りでF1レギュラーの座に

この年のラルト・Hondaはシーズン後半にスポット参戦で4戦を戦ったが、その初陣となる6月の第6戦マールボロ・フォーミュラ2・トロフィーでは予選14位/決勝11位。エンジンが電気系、燃料系の初期トラブルに見舞われた結果だった。しかし、マンセルの走りを評価したチャップマンにより、その後ロータスからF1デビューする機会を得る。上昇機運とともにRA260Eの熟成も進んだことで、9月末のホッケンハイム第12戦(最終戦)プライス・バーデン=ヴュルテンベルクでは予選2位/決勝2位まで食い込んでみせ、翌1981年F2タイトルへの布石を打った。Hondaのエンジニアたちは、マンセルの的確なフィードバックが開発に貢献したとコメントしている。

そして1978年にワールドチャンピオンを獲得したマリオ・アンドレッティのロータス離脱が確定的になった1980年8月のオーストリアGPでマンセルは急遽3台目のロータスに乗りF1デビューを果たすと、1981年以後はデ・アンジェリスとともにF1レギュラードライバーの座を確保したのである。

チャップマン逝去からウィリアムズ移籍へ

だが、マンセルはその後、なかなか好成績を収められないでいた。チャップマンが1982年末に54歳で急逝すると、チームの指揮はその愛弟子だったピーター・ウォアが執ることとなるが、ウォアは長く戦果をあげられないでいたマンセルより、F1デビュー以来目覚ましい活躍で注目が集まる新人アイルトン・セナ獲得に心が動いていた。対してマンセルはその間、1984年大雨のモナコGPで一時トップを走りながらもクラッシュしてリタイア。灼熱のダラスGPでは序盤トップを走りながらも、ゴール直前にストップしてしまったマシンを必死に押す途中で失神してしまうなど、印象的なレースで注目されることもしばしばだった。すでに30歳を越えてF1未勝利というマンセルが、1985年からウィリアムズホンダに移籍するというニュースは、当時さほど注目されたものではなかった。

しかし、マンセルにとってウィリアムズ参加は、1980年F2スポット参戦以来となるHondaとの邂逅であり、トップドライバーへのステップの第1歩となる。