2冠王者ピケとの確執、悲運のタイヤバースト

手強いチームメイトの出現
3連勝で1985年シーズンを締めたウィリアムズホンダにとって、1986年シーズンはタイトル獲得を確実にものにするシーズンと位置付けられていた。そして、ほとんど順調にすべてが進んでいったシーズンだった。
しかし、ナイジェル・マンセルにとっては障害が立ちはだかる。良好な関係を構築していたケケ・ロズベルグがチームを去り、新たなチームメイトとしてネルソン・ピケが加入してきたのである。ピケがウィリアムズと契約発表したのは1985年8月、この時まだマンセルは勝てるドライバーとして認められていたわけではなかった。一方で既に2度(1981/83年)のワールドチャンピオンだったピケは、当然ナンバー1ドライバーとしてチームに迎え入れられ、ピケ自身もその待遇を要求した。マンセルもその状況こそ受けいれたが、ピケの立ち振る舞いにはどうしても受け入れられないところがあった。そしてシーズン前のテストから、ふたりのドライバーの対立は表面化していた。
そんな不穏なムードに拍車をかけるような大事件が起こった。開幕直前に行われたフランス・ポールリカールでのプレシーズンテストの最中、チーム代表のフランク・ウィリアムズがサーキットから帰途で交通事故を起こし、下半身麻痺となる重傷を負ったのである。チームに激震が走ったのは言うまでもない。
シーズン開幕を迎えたウィリアムズホンダは、代表不在の危機感がチームを引き締めたのか、シーズン序盤を順調にスタートした。開幕戦ブラジルGPでピケが勝利を飾り、第2戦スペインGPではマンセルがアイルトン・セナ(ロータス・ルノー)との激闘の末に僅差の2位を獲得。モナコGPの後に行われたテストで、かつてのチームメイトであるエリオ・デ・アンジェリスが事故死し、マンセルは精神的に大きなダメージを受けたが、第5戦ベルギーGPからマンセルの快進撃が続く。第5戦、第6戦、第8戦、第9戦と優勝したマンセルはドライバーズ・ランキングのトップに踊り出たのである。

母国戦でついにランキング首位に
なかでも母国グランプリとなった第9戦イギリスGP(ブランズハッチ)は、マンセルに吹く追い風を感じさせるものだった。まず、開幕前の事故で療養していたウィリアムズ代表が車椅子に乗って現場に復帰したのである。マンセルにとって理解者である代表の復帰は、大いに力となった。そして、タイトル争いの主役を演じるイギリス人ドライバーを迎える地元ファンの熱狂は凄まじいものだった。その応援を受け、マンセルはピケに次ぐ予選2位を獲得し、勝利を狙って絶好のスタートを切ったが、直後マンセルのマシンにトラブルが発生しスローダウン。マンセルのレースはそこで終わるはずだった。しかし、後続で大きなクラッシュが発生してレース中断となり、幸運にもスペアカーで再びレースに挑むチャンスが得られたのである。2度目のスタートでやや出遅れたマンセルは巻き返し、トップを走るピケをオーバーテイクし優勝。リタイアのはずだったレースで勝利を得たマンセルが、シーズンの主導権を握っていることは誰の目にも明らかだった。同時にこの勝利で、マンセルはついにシリーズランキングのトップに立った。

シーズンの流れがマンセルに大きく傾くと、ピケはチームの自分に対する対応に不満をあらわにした。しかし、ウィリアムズ代表は取り合わず、ピケにマンセルと正々堂々戦うことを要求した。Hondaがこの年に投入したRA166E1.5ℓターボエンジンは、前年のRA165Eを改良し信頼性を補強したものであったが、ソフトウェア面で革新を迎えた。マシンの状態を正確にセンシングするデータロガーシステムが投入され、大きく進歩したのだ。この先進的な技術は、後にテレメトリーシステムとしてF1のスタンダードとなるが、Hondaはいち早くこのシステムを開発し実戦に投入したのである。ドライバーの操作をモニタリングできるようになり、マンセルの優れたドライビング、度胸ある全開スピリットが証明されていたことも、ウィリアムズ代表が政治的にマンセルを抑え込まなかったひとつの理由だと言われている。

「あと20周」で無念のタイヤバースト
最終戦である第16戦オーストラリアGPをマンセルはランキングトップで迎え、マンセルのチャンピオン獲得は目前となった。このレースを3位以内でフィニッシュできさえすれば、自力でタイトルが決まる状況だった。ポールポジションからスタートしたマンセルは、タイトル獲得のために無理をせずポジションを落とした。タイトルを争う誰が優勝したとしても、彼にとっては3位入賞で十分だったからだ。しかし、その3番手走行中のレース終盤63周目、バックストレートで左リヤタイヤが無惨にも引きちぎれ、マンセルからすべてを奪った。このレースに勝利し、大逆転チャンピオンに輝いたアラン・プロスト(マクラーレン・TAG)は「ナイジェルに与えられるべきタイトルだ」と語った。
マンセルはシーズン最多の5勝、ピケが4勝を挙げ、ウィリアムズホンダはライバルチームに大差をつけてコンストラクターズ・チャンピオンを獲得した。逸冠したマンセルの失意は計り知れないものだったが、HondaにとってはF1で初のタイトル獲得を成し遂げた歴史的なシーズンとなった。
