覚醒、キャリア5年目の初勝利

転機となったウィリアムズ移籍
1983年から始まったHonda 第2期F1活動は、1984年ウィリアムズへの単独供給という新体制に移行し、第9戦ダラスGPで待望の初優勝を果たした。活動当初は想定外のトラブルや新開発ターボの不調に見舞われたが、Hondaはそれらの経験を基に技術開発に全力を尽くし、1985年に新設計のRA165Eを投入。Eスペックと呼ばれるこのエンジンは、その後のHonda F1躍進の礎となった。しかし、新設計のRA165Eは開発の遅れからシーズン開幕には間に合わず、序盤戦は前年のRA164Eで戦うことを余儀なくされた。
時を同じくして、1985年にウィリアムズに移籍してきたのがナイジェル・マンセルだった。1980年にロータスからデビューするも、マシンにもチームにも行き詰まりを見せていたマンセルに、その速さに一目置いていたチーム代表のフランク・ウィリアムズが加入を呼びかけたのだ。マンセル移籍に対し、当初ナンバー1ドライバーだったロズベルグは前年ダラスGPでのバトルでマンセルと因縁があり、またロータス時代の悪評から、その起用に反対していた。しかし、実際に一緒に仕事を始めてすぐに意気投合し、チームメイト関係はとても良好なものとなった。これによってチームのムードも変わっていったことは言うまでもない。マンセルは、新たな環境に非常に意欲的で、スピードのあるマシンにも満足していた。
期待に満ちた1985年はシーズン前半こそ厳しいレースが続いたが、Hondaは第5戦カナダGPに待望のRA165Eを投入し、続く第6戦デトロイトGPではケケ・ロズベルグが優勝を飾ることで、マシンの戦闘力の高さを証明することができた。チームの士気は上がり、Hondaも新開発エンジンの成功に沸いた。
バージョンアップしたマシンで持ち前の速さを見せていたマンセルだったが、第6戦デトロイトGPでは決勝クラッシュから右親指を負傷し、続く第7戦フランスGPの土曜フリー走行中にミストラル・ストレートでタイヤバースト、320㎞/h オーバーでの大クラッシュに見舞われた。高速でキャッチフェンスを薙ぎ倒しながらバリアに激突し、外れたタイヤが頭に当たって失神。すぐさま病院に搬送されるという深刻なアクシデントだった。幸い脳震盪で済み、マンセルはフランスGPは欠場したが、頭痛と打撲の痛みに耐えながら次戦イギリスGPに出場した。母国レースにはなんとしても出るという彼の強い意志からだった。

勝ち方を覚え、トップドライバーに
フランス、イギリスと連続でロズベルグがポールポジションを獲得し、RA165Eのポテンシャルを立証したものの、初期トラブルが頻発しその後のヨーロッパラウンドでは思うように結果が残せない状況が続いた。ロズベルグがマシン開発にあまり興味を示さなかった一方で、マンセルは積極的にHondaのエンジニアと議論を重ね、Hondaはエンジンの安定性と耐久性改善に努めた。RA165Eには量産エンジンで培った電子制御インジェクションや後にテレメトリーシステムとして完成する独自のデータロガー技術など、先進的な技術が組み込まれており、その熟成は急ピッチで行われた。またFW10も、リヤタイヤの摩耗を抑えるべく改良が加えられていった。チーム、マシンの良い状態が揃った時、すでにシーズンは終盤戦になっていた。

第14戦ヨーロッパGP。母国戦ブランズハッチで開催されたレースで、マンセルはF1初優勝を成し遂げた。ロズベルグとともにアイルトン・セナ(ロータス・ルノー)を封じ込めたチームプレイでの勝利だった。72戦目での初優勝は当時最も遅い優勝と記録されたが、苦労人である彼らしいレコードと言われた。この勝利で勝ち方を覚えたマンセルは、続く南アフリカGPでも連勝。2位にはロズベルグが入り、HondaはF1参戦以来、初めての1-2フィニッシュを達成した。勢いに乗る最終戦オーストラリアGPでもマンセルは予選2位につけ、断然の優勝候補となった。残念ながらスタート直後のアクシデントでレースを終えたが、チームメイトのロズベルグが勝利し、ウィリアムズホンダは3連勝でシーズンを締め括った。まさに、次シーズンから始まる独壇場の序章となったのである。

