ナイジェル・マンセル
「常に全開で駆け抜ける男」

「型破り」──ナイジェル・マンセルの波瀾万丈なレース人生は、よくこのように形容される。

マンセルは苦労人だった。他の多くのトップドライバーのように、裕福な家庭に育ち、恵まれた環境の中でレーサーへの道を突き進んだわけではない。ジム・クラークのレースに感動し、レーサーになることを目指したマンセルは、順調とは言えない環境のなかで、激しい荒波の世界に足を踏み入れた。カート、FF1600、F3とステップアップする過程では、少しでも優位なマシンを手に入れるためにすべてのものを犠牲にしてレースに打ち込んだ。そのように這い上がってきたマンセルにとって、唯一最大の武器が「速さ」であり、それこそがモーターレーシングにおいて最も重要なことだという確固たる哲学を持つことになる。周囲の注目を集め、存在を認めさせ、少しでもいい地位、マシンを手に入れるためには、人より速く走ることが何より重要だった。クレバーなレース展開、冷静な判断、オーダーの順守より、とにかく目の前のマシンを抜くこと。そしてわずかでもタイムを削ることがマンセルにとってのレースだったのである。

ウィリアムズ加入で才能が開花

そんなマンセルのスピリットを最初に高く評価したのは、チーム・ロータスの創設者であるコリン・チャップマンだった。そうして、ようやくF1レギュラードライバーの地位を手に入れたのは1981年のことだった。しかしロータス時代のマンセルは、速さが噛み合わないレースが続き、新たにチームマネージャーとなったピーター・ウォーとはいい関係ではなかった。そして1982年末にチャップマンが急逝し、マンセルの立場はさらに悪化することとなる。

純粋に速さを追い求めるその姿勢は、マンセルに対する評価を常に二分した。マンセルのドライバー人生は、この狭間で揺れ動き、浮き沈みの激しいものとなった。そのレーススタイルを評価するチーム関係者と、指示に従わず自分勝手なレースを繰り返すと非難するチーム関係者がはっきりと分かれた。だが、妥協をアドバイスする声もあれどマンセルは自らの信条を変えることはなかった。

マンセルを評価していたフランク・ウィリアムズは、ロータスで立場の悪くなったマンセルを1985年チームに引き入れた。1984年からHondaと本格共闘し第2期Honda F1初優勝を果たしたウィリアムズは、強力な武器となるFW10と新スペックRA165Eを投入し、トップチームに上り詰める準備は整っていた。ナンバー1ドライバーはケケ・ロズベルグで、マンセルはナンバー2としての加入だった。

当初、ロズベルグはマンセルに対して厳しい態度をとっていたが、それが悪評による誤解だとわかり、チームは良い状態に変わっていく。それとともに、Hondaがシーズン中盤から投入した新スペックのRA165Eが本領を発揮し、ウィリアムズは優勝争いを演じるようになり、マンセルは第14戦ヨーロッパGPで待望のF1初優勝を挙げると、その次の南アフリカGPも制覇した。

ここからHondaパワーとマンセルの快進撃が始まり、マンセルはチャンピオン争いをするトップドライバーに上り詰めていく。(1985〜1987年ウィリアムズホンダ時代については別コンテンツ参照)

しかし、Hondaパワーを失った1988年から、ウィリアムズは急失速した。勝利を追い求めるマンセルは1989年フェラーリへ移籍し、開幕戦から優勝を飾るなど、速さが健在であることを見せつけた。しかし1990年にアラン・プロストが加入すると、マンセルはチーム内での立場が悪くなり、この年の第8戦イギリスGP後に引退を表明して周囲を驚かせた。しかし、シーズン終盤にティレルの新鋭ジャン・アレジがウィリアムズの誘いを断りフェラーリへ移籍することが発表されると、マンセルは引退を撤回し空席となった古巣ウィリアムズへの復帰を決断。型破りなマンセルらしい行動だった。

悲願の王座獲得も、境遇に恵まれず

1992年はマンセルのF1人生の集大成となった。

この年のマンセルはウィリアムズ・ルノーを駆り伝説的な速さを見せ続けた。最先端メカニズムであるアクティブサスペンションを組み込んだFW14Bは、彼のドライブによって他の追随を許さない速さを見せていた。チームメイトのリカルド・パトレーゼは、同じマシンながら速さでまったく及ばない。アクティブサスペンションの動きが、人間の感覚としてはかなり不自然なものとなり、それは違和感と恐怖心でしかなかったとパトレーゼは後に語っている。しかし、マンセルはそんなことはお構いなしで全開スピリットを貫き、全16戦中14戦でポールポジション獲得、9回の優勝を成し遂げ、F1キャリア12年目にして念願のワールドチャンピオンに輝いた。マンセルの「全開スピリット」がついに花開いた時であった。そして驚くべきは、9回の優勝以外は、2位3回、リタイア4回という結果で、いかにマンセルの独壇場だったかを表している。

この年、もうひとつの大きな出来事が起こった。HondaのF1撤退発表である。第13戦イタリアGPの直前に発表された。奇しくも同じグランプリで、マンセルはチームの反対を押し切る形で2度目の引退表明を行った。Hondaパワーを失うアイルトン・セナとウィリアムズが交渉を始め、その真っただなかにいたマンセルは政治的な動きに疲れ果てた末の決断だった。

マンセルの型破りは、このF1引退後も続く。

1993年アメリカのCARTに参戦したマンセルは、純粋に速さを競うオーバルレースでその実力を発揮し、いきなりチャンピオンを獲得。マリオ・アンドレッティ、エマーソン・フィッティパルディ以来3人目のF1とCART両シリーズ制覇を成し遂げた。そして1994年、スポットながらウィリアムズからF1に復帰して最終戦で優勝、その速さが健在であることを示した。1995年にはマクラーレンに移籍するが、マシンとチームに馴染まないマンセルは、第4戦スペインGPを終えると早々にチーム離脱を表明した。

この時、引退表明はなかったが、結果的にマンセルのレース人生はここで幕を閉じた。

実直で全開な姿勢がファンの心を打つ

常に速さと勝利を追い求めたマンセルは、その信条ゆえに恵まれない状況に晒されることも多かった。しかし、その「全開スピリット」は多くのファンに賞賛され、記憶に残る個性的なレーサーとして今でも語り継がれている。

Hondaの躍進とともにトップドライバーに上り詰めたマンセルだったが、Hondaパワーによってチャンピオンを獲得することは叶わなかった。のちにマンセルは1986年最終戦オーストラリアGPでほぼ手中にしていたワールドチャンピオンの座を、レース終盤のタイヤバーストにより逃したことを「人生で最も悔しかった」と述懐している。