ナイジェル・マンセル インタビュー

Hondaは、ナイジェル・マンセルを“勝者”にした──。
そしてマンセルは、F1ドライバーとしての成長を支え、1992年のワールドチャンピオン獲得へと導いてくれたHondaへの感謝を、今も決して忘れていない。
2025年のグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードで、マンセルはHondaRA166Eエンジンを搭載した1986年のウィリアムズFW11をドライブ。走行直後の高揚感が残る中、チームのガレージ裏で日陰に身を寄せ、当時を振り返る時間を共にしてくれた。
F2から始まったHondaとの関係
マンセルとHondaの関係は1980年に始まる。ロン・トーラナックの招きで、Hondaエンジンを搭載したラルトRH6でF2レースに4戦出場。フォーミュラ・フォードでの成功を経て、F3での試練の時代を抜けようとしていた頃だった。
「ラルトとロンの経験は素晴らしかった。とにかくたくさん走って、いろいろ試せる機会だった。ロンには『いいクルマにあまり良くないエンジンを載せるか、逆にするか』と聞かれて、『じゃあ、いいクルマにいいエンジンを載せれば?』って返したんだ(笑)」
実際、マンセルは3戦目のザントフォールトで5位、4戦目のホッケンハイムではテオ・ファビに次ぐ2位を獲得。Hondaにとっても価値あるパートナーとなった。

ロータス時代、そしてウィリアムズへの移籍
F1デビューは1980年のロータス。名将コーリン・チャップマンはマンセルの資質を早くから認めていたが、1982年末にチャップマンが急逝すると、チーム内の力関係が変化。新たに指揮を執ったピーター・ウォーとの関係はうまくいかなかった。
「名前は出さないけど、僕のことが明らかに気に入らない人物がいて、最初の年に契約があるのに給料を削ってきた。あれは納得できなかったね。」
1984年、ウォーがアイルトン・セナの加入を目論んでいると知ったマンセルは他チームを模索。ウィリアムズが候補に挙がったが、フランク・ウィリアムズはなかなか決断を下さなかった。
「僕は“候補リスト”に入ってると聞かされたけど、それが5、6人いるならリストとは呼べない。だから、親しい記者だったピーター・ウィンザーに、『ザントフォールトの週末にフランクに“リストから外してくれ”って伝えてくれ』と頼んだんだ。」
レースではマクラーレンのプロスト、ラウダに次ぐ3位で表彰台に登壇。日曜夜、ウィリアムズのピーター・コリンズが現れ、フランクの意思を伝える。
「最初は断ろうとした。でもピーターに『自惚れずに受けろ。君にとって素晴らしい一歩になる』と言われて…その通りだった。」

Hondaとのターボ時代
1984年、HondaのターボエンジンRA163EとRA164EはK.ロズベルグですら手を焼いた強烈なパワーユニットだった。
「マーティン・ブランドルが言ってたけど、あれは“毎コーナーでドライバーを殺しにかかってくる唯一のクルマ”だった(笑)。予選仕様では、極めて高い出力、でも出力の立ち上がりは完全に予測不可能。突然パワーが入ってスピン、なんてことも普通だった。」
1985年のFW10は改良されたが、それでもターボの“スイッチのような”パワー特性は健在。Kekeとマンセルは、毎戦ごとに異なるスペックのエンジンを使い、AからFまで仕様違いが存在したという。
「気がつけば、もう1,000馬力に達していて、年末から年明けにかけてはさらにパワーが増し、1,050馬力以上、さらにはレース用のオーバーテイクブーストまで使えるようになっていました。」

初勝利、そして「Red 5」の誕生
1985年のブランドハッチでF1初優勝を飾ると、マンセルのキャリアは飛躍的に進展。翌年からは“Red 5”のゼッケンも定着した。
「レッドアローズ(英空軍)の“Red Five”にちなんでるんだ。子どもの頃、カートで使ってた番号でもあるし、自然な流れだった。」

FW11とRA166Eの記憶
グッドウッドで再会したFW11を前に、マンセルの表情が一変する。
「“獣”が戻ってきた感じ(笑)。でも、RA166Eになってからは扱いやすくなったし、サーキットに応じて大小のターボを使い分けられた。燃料設定も複雑で、特に1986年カナダGPではパトリック(・ヘッド)に『ペースを落とせ』って無線で言われて、順位を落としながらも最後には逆転勝利を収めた。忘れられないレースだったね。」

栄光と挫折、そして感謝
「僕は、Hondaと一緒ならワールドチャンピオンを2回は獲れたと思ってる。1986年のアデレードではピットインを望んだけど却下され、結果的にリタイア。1987年の鈴鹿では予選中にクラッシュし、背骨を87Gの衝撃で損傷。3〜4ヶ月間、下半身が動かなかった。」
「でも、Hondaとウィリアムズで13勝を挙げた。今のドライバーの中には、当時のF1の過酷さを知らない人もいる。でも、あの経験があったから今の自分がある。Hondaの技術と開発努力には心から感謝してる。」
「1992年、僕とHondaはそれぞれF1を去った。でも僕は、その年にHondaと共に築いた経験を活かして、ついにチャンピオンになれた。」
「最近のHondaのレッドブルとの取り組みも素晴らしい。世界タイトルをいくつも獲得している。心からレーシングスピリットを持ったメーカーだよ。本田宗一郎さんが言った “レースなきHondaは存在しない” という言葉は、今もまったくその通りだ。」


デビッド・トレメイン
デビッド・トレメインは、F1を中心とするモータースポーツ分野で36年以上の取材歴を持つ、英国の著名ジャーナリスト兼作家です。
『Motoring News』および『Motor Sport』誌の元エグゼクティブ編集者であり、これまでに現地取材600戦を含む660戦以上のF1グランプリを報道。
モータースポーツに関する著書も50冊を超え、その筆致は歴史への造詣の深さと、技術的な洞察、そして情熱的な語り口で知られています。