データが示した全開スピリット〜Hondaの先進技術が表したマンセルの個性〜

マンセルがHondaと組み始めた1985年以降、
Hondaは秘密兵器としてテレメトリーシステムの開発に全力を上げた。
その初期段階でデータロガー開発を担当したエンジニアは、
マンセルのドライビングをデータによって確認し、他と明らかに違う個性を認識していた。
モナコの分析が示した驚異のアクセルワーク
ナイジェル・マンセルがウィリアムズホンダに移籍してきた1985年は、Honda 第2期F1活動においても大きなターニングポイントとなるシーズンだった。性能&信頼性を大幅に高めた通称“Eスペック”の投入と、データロガーシステムの構築である。特にデータロガーの出現は、その後Hondaの秘密兵器となるテレメトリーシステムへと進化し、F1全体に大きな影響を与えるものとなる。

Honda 第2期F1活動でデータロガーシステムを構築していった伊藤寿弘(写真右)と橋上栄二元エンジニア。
Hondaのエンジニアである伊藤寿弘と橋上栄二は、1985年から開発を開始したデータロガー及びテレメトリーシステムに携わり、当時Hondaエンジンをドライブするドライバーたちと関わってきた経験を持つ。現在ではデータロガーは広く普及し、走行中のレーシングマシンからさまざまなデータを収集して分析することで、ドライビングを改善する手法は誰もが行なっていることだが、当時はコクピットでドライバーが何をやっているか外から知ることは困難で、外から計測できるラップタイムでしか何が起こっているかを窺い知ることはできなかった。
1985年半ば、伊藤らHondaの電装担当技術陣は、急激に進歩し始めた電子技術を駆使してデータロガーの開発に着手し、他のF1チームに先駆けて1986年の実戦に投入する。走行中の車両の様子やドライバーの様子をデータで正確に把握できるこのシステムは、開発により遠隔データ収集が可能となるテレメトリーへと進化し、F1マシンの走行中の状況を常に把握できるようになる。
その初期段階がデータロガーだったが、伊藤と橋上が開発を担当していた当時から、マンセルの走りは際立っていた。
「データロガーで分かったことがあります。たとえばモナコGPのコースにはトンネルがありますが、マンセルだけは出口まで(アクセルを)全開にしていたんです。ネルソン・ピケも、アイルトン・セナも、アラン・プロストも、みんなトンネルに入って右コーナーになるところではアクセルを戻していました。言うまでもなく、怖いからです。中嶋悟さんに聞いても、『あんなところで全開にはできないよ』と言っていました。でもマンセルだけは全開なんです。多分、彼は怖くないんですね。びっくりしました」と伊藤は当時を振り返る。
伊藤のシステムを引き継ぎ、収集したデータをいかに解析していくかを追求してロギングシステムをさらに磨き上げていった橋上も、マンセルの走り方についてこう話す。
「データを解析する立場から見ると、マンセルは前に目標物が見えると速いんです。自分の前にいるものは許さないぞ、みたいな感じです。そういった意味では、彼は”レーサー”だったんでしょうね。それと対照的なのはプロストで、レースは60何周でやるものだから、全体をマネージメントして勝つんだ、という組み立てをする人でした。一方マンセルは、前に目標物があると、とにかく抜くというスタイルの人だったから、レース後半になってくると燃料が足りなくなったりとか、タイヤがダメになったりとかいうことも起きました。どちらが優れているのかとかいう話ではなくて、(マンセルは)個性的で面白い人だなと思って見ていました」


データがドライビングを変える過渡期だった
データロガーという、新しいツールを与えられた当時のドライバーたちは、今まで触れたことのない“データ”というものを、どのように受け入れてどのように活用していったのか。伊藤はこう証言する。
「データロガーを使い始めたら、セナはとにかく頻繁にデータを見に来ました。他のドライバーのデータも見せろと言って、ホテルに持って帰って熱心に研究するんです。でもマンセルはそういうデータはあまり見ようとはしませんでした。もちろんホンダ側からは(データが)こうなっているよという情報は提供していたので、それはちゃんと理解していました」
橋上は、セナから『前回のデータと比較しやすくして欲しい』などの要望を受けてデータ解析システムの機能を増やしながら、ドライバーたちがそれをどのように活用するのかを眺めていたという。
「面白かったのはプロストです。彼は、セナがデータのどこを研究していたか教えてくれと言ってきました。セナがなぜ速くなったのかを知ろうとしたんですね。そういう意味では、プロストも向上心がすごかったし、(セナに)負けたくないという気持ちが強かったんでしょう」
Hondaの技術者たちが開発したデータロガーとデータ解析システムを通して、コースを走り終えた後のドライバーたちは、自分のドライビングと車両の動き方を照らし合わせ、最も効率の高い”新時代の”走り方を追求するようになった。一方で、あくまでも自分の感覚を重視する旧来からの走り方にこだわるドライバーたちもいた。その点で言えば、マンセルはまさに後者の代表格で、データよりも自分の感覚を優先し、自らの能力でマシンのポテンシャルを最大限に引き出すやり方を貫いた。ドライビングのスタイルやロジックが入れ替わる時代、まさにその過渡期の真っ只中にいたのが、史上最強と言われたHondaエンジンを背負って走るドライバーたちだったのである。
橋上は言う。「もちろんマンセルも、速く走ることについては向上心が高かったんです。でもその走り方とデータとは、彼のなかではあまり結びついていなかったのかもしれません。マンセルがこだわったのは、あくまでもフルスロットルからフルブレーキ、そしてフルスロットルという走り方で、とにかくコーナーの入り口までスピードはすごくて、出口に向けて全開になって出て行くときも一番速い。エンジンのパワーがちょっと足りなくても、そんなことより自分の力で全開で走るだけだ、という気持ちが強い人だったように感じます」
これに対し、データを活用する”新時代”のドライバーたちは、コーナー入り口と出口のスピードを落とす反面、コーナリング中のボトムスピードを持ち上げる走り方を追求するようになる。タイヤに対する負荷を減らすとともに燃費を向上させる、”効率重視”のテクニックである。そしてその両者のラップタイムは、少なくとも1980年代終盤の時点では結果的に拮抗していた。両者が激闘を演じる当時のF1グランプリで、マンセルの走りが際立ち、個性派として人気を集めた理由のひとつがここにあったと言えるだろう。

フレンドリーで気さくなマンセルの人柄
マンセルはまた、プライベートでも分け隔てなく人付き合いのいい人物だという。来日時にチームスタッフと食事はもちろん、ボーリングやゲームも一緒に楽しんでいた。伊藤はコクピットを離れたマンセルの魅力をこう語る。
「鈴鹿サーキットで走行テストをするために結構来日していたんです。テストが終わるといつも行く店で焼肉を一緒に食べましたが、すごく楽しい人でした。F1ドライバーという感じは全然せず、ただの酔っ払いのお兄ちゃんといった感じ。そう言えば、鈴鹿サーキットの遊園地にゲームセンターがあって、そこへ一緒に行ってクルマのゲームを、ずっとやったこともあります。4人か5人ぐらいで、みんなでワーワー騒いで夜まで遊んだりしました」
こういうマンセルの人付き合いの良さは橋上も覚えている。
「セナとかピケは、自分でパーティーを開催して、そこに我々を呼んでくれるというかたちの遊び方をする人なんです。でもマンセルは、我々の方に来て一緒に遊ぶ、本当にフレンドリーな人でした」
コース上では気性の激しい武闘派でありながら、コースを離れればスタッフと一緒になって遊ぶ。それぞれの個性が発揮され、人間味溢れていた旧き佳き時代のF1。その最前線で活躍しながら人間としての魅力を発散したスター選手が、マンセルだったのである。
