試練がマンセルに成長と栄冠をもたらした〜名将パトリック・ヘッドが語る、Honda時代の”レッドファイブ“〜

ナイジェル・マンセルは、2年目のウィリアムズホンダに加入し、
トップドライバーへのステップを登り始めた。
強力なマシンを得て抜群の速さを見せるも、
数々の試練によって王座を掴めなかったHonda時代を当時のチーフエンジニア、
パトリック・ヘッドがいま振り返る
果敢なドライビングを買われウィリアムズへ
フランク・ウィリアムズとともにウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングを設立したパトリック・ヘッドは、レースをしていた父親の影響もあり、レーシングマシンのエンジニアへの道を歩んだ。シャシーコンストラクターのローラ社に属したり、F1の設計に携わったが、なかなか成功を収められず一旦レースから離れることとなる。その後、ヘッドの技術力を高く評価していたウィリアムズの誘いで、1977年に共同出資で会社を設立。以降ウィリアムズと二人三脚でマシンの開発や運営を中心的に担い、現在もウィリアムズの顧問を務めるレジェンドである。
1985年、ウィリアムズのナイジェル・マンセル起用については、当時多くが疑問を持ったものだ。ウィリアムズは1980年から2年連続でコンストラクターズタイトルを獲得しているトップチームで、マンセルは時折速さ見せてもミスやクラッシュが多く、デビュー以来4年間未勝利で評価はあまり高くないドライバーだった。それでもフランク・ウィリアムズは、ロータスに残ることが難しかったマンセルに可能性を感じてチームへ呼び入れた。
ヘッドは当時をこう振り返る。
「我々は粘り強いレースをする、果敢なドライバーを欲していました。ナイジェルを起用した当時は、彼がイギリス人だからだと散々言われたものですが、フランクは特にそこにこだわってはいませんでした。彼は何よりアグレッシブで勝負へのこだわりが強いドライバーを好み、ナイジェルはロータス時代、それを証明していたと思います。確かにいくつかミスはしていましたが、とにかく大きな可能性を秘めているように見えました」
“レッド5”誕生。タイトル争いの一翼に
当時、マンセルの獲得にはエースドライバーのケケ・ロズベルグが猛反対していたと伝えられている。それまでロズベルグはレースで何度かマンセルの強引なブロックに遭い、そのドライビング姿勢を批判したこともあった。またロータス時代はチャップマンに守られ、イギリス人であるメリットを大いに享受していたマンセルが、ウィリアムズでも同じような待遇を受けるのではないかと危惧していたのだ。
「確かに我々は過去何度か、ドライバーのコンビネーションに失敗したことがありました」とヘッドは苦笑いしながら答えてくれた。
「しかし我々は常に、ふたりのドライバーを対等に戦わせるというのが基本姿勢でした。ケケもそれを理解してから4〜5戦もするとナイジェルを信頼し、非常に強固なコンビネーションを発揮するようになりましたね。そもそもケケは、マシン開発の面にはまったく関心を見せず、どんなマシンでもそれを振りまわして最大限の結果を出してくれはしましたが、技術的なフィードバックはほとんどないドライバーでした。対してナイジェルは、そのイメージからは想像できませんが、技術的なフィードバックはしっかりしていました。ライバルマニュファクチャラーのルノーで走っていた経験もまた、彼の起用を後押しする大きな理由となっていました」
そしてHonda製V6ターボは、この1985年に投入した“Eスペック”から劇的に信頼性とパフォーマンスがアップした。そして、この新スペックエンジンを搭載した第5戦カナダGPから、奇しくもマンセルはゼッケン5を“レッドファイブ”に変えている。この変更は、チームがマシンの識別をより明確にするためにカラーを変更したとも言われていたが……。
「いや、あれはチームではなくナイジェルからの提案でした」とヘッドは証言する。
「あれは、完全にナイジェルの選択でした。チームはそこに関与していません。なぜゼッケンを赤くしたのかは私には分かりません」
この“レッドファイブ”の起源説は、彼がウィリアムズに移籍してから着用していた赤いレーシングスーツと大きな関係があるようだ。マンセルが赤いスーツを着用したのは、イギリス空軍のアクロバット飛行チーム、レッドアローズにちなんで自ら選択したものと伝えられている。また“レッドファイブ”と呼ばれることになった発祥は、当時英国BBCでコメンテーターを務めていたマレー・ウォーカーがマンセル車を“レッドファイブ”と呼んで熱狂的に連呼したことが始まりだった。

Honda時代の経験こそタイトル獲得の糧
“レッドファイブ”をまとってから、マンセルは1985年シーズン終盤のヨーロッパGPで念願の初優勝を遂げ、続く南アフリカGPも連勝。瞬く間にトップドライバーの仲間入りをする。そしてタイトル候補のひとりとして迎えた1986年は、チームメイトにチャンピオン請負人として2冠王者のネルソン・ピケが加入してくる。マンセルはピケに強いライバル心を見せた。
「ナイジェルは、常に自分以外はすべて敵対する存在だと捉えているような振る舞いをするドライバーでした。それが、彼の卓越した速さと、どんな困難も乗り越えて成功しようとする強い決意に結びついていたのだと思います。対してネルソンは、非常に賢いドライバーでした。ナイジェルがとても速く、ある部分叶わないドライバーだと分かると、彼のチーム内の立場を弱くするような政治的な動きにも出ました。ネルソンは常にHondaの信頼を得るためのコミュニケーションにも積極的で、その様子を見たナイジェルは自分が不利だと誤解するようなこともありましたね」
1986年はウィリアムズホンダがシーズンを席巻し、コンストラクターズ・タイトルは早々に獲得したものの、マンセル5勝、ピケ4勝と16戦中9勝を挙げながらタイヤトラブルから最終戦でドライバーズ・タイトルを逃すことになる。
「あのシーズンほど悔しい結末はありませんでした。それ以前からタイヤトラブルは問題視されていて、当時のサプライヤーであるグッドイヤーにも相談していました。しかし返答は『あなたたちのマシン特性の問題だ』と取り合ってもらえませんでした。確かに、当時最強のパワーとダウンフォースを得ていたのは我々のマシンでした。だから、タイヤマネージメントについてもいち早く対策をとらなければなりませんでした。でも最終戦で、ナイジェル車がバーストしたのはタイヤトラブルが原因でした。そして、その兆候はネルソンのマシンにも表れていたので、我々は彼をピットに呼び戻さなければなりませんでした。また首位に返り咲けると考えての判断でしたが、残念ながら追いつけませんでした。1986年はシーズン前にフランクの事故もあり、非常に感慨深いシーズンだったと記憶しています」
そして1987年も、マンセルはあと一歩でチャンピオンを逃すことになる。その瞬間は鈴鹿の予選に起こった。
「あのクラッシュも必要のないことでした。おそらく、ネルソンへの対抗心が強すぎたのだと思います。あれでナイジェルはチャンピオン獲得のチャンスをなくし、ネルソンがその栄冠を戴きました。しかし、そういったさまざまな不運や失敗が糧となり、彼が1991年にチームに戻ってきた時は、さらにいいドライバーになっていましたね。それまでのナイジェルは目の前のレースに勝つことが第一で、シーズン全体を見ることができませんでした。しかし1992年はアイルトン・セナ(マクラーレン・Honda)とのバトルで語り継がれるモナコGPのように、すぐそこに勝利がぶらさがっていても、2位でポイントを押さえるという考え方ができていました。Honda時代のナイジェルなら、勝ちに行って接触していたことでしょう。やはりそれまで彼の前に立ちはだかった数々の試練を乗り越えることで成長を果たし、最終的にワールドチャンピオンの座まで彼を押し上げたのだと考えています」
