運転技術を身に付ける場と機会を提供する
安全運転という言葉が世の中に浸透するずっと以前の1960年代。「われわれは交通機関を扱っているかぎり、責任というものを絶対にもってもらいたい。責任のもてないような人は、すぐ辞めてもらいたい」。1969年4月のホンダ社報において、創業者 本田宗一郎は、こう語っている。その時、社内でも、バイクやクルマというパーソナルモビリティーを世の中に提供するメーカーの果たすべき役割を真剣に考えていた。
若者がようやくの思いでバイクを手に入れたとしても、公道で無謀な運転をしては事故につながってしまう。走る場所もつくらずに取り締まりだけを厳しくする、これではお客様に申し訳ないと、本田は感じていた。同時に本田が懸念していたのは、めまぐるしく変化していく日本の交通環境に運転技術が追い付いていない点だった。当時の日本には運転技術を身に付ける場所も、機会も存在していなかったのである。
1960年、本田はバイクに乗っている若者に、安全に安心して走れる場所を提供しようと、三重県鈴鹿市に国際規格のサーキット建設を決断する。当時の会社規模からは考えられない大事業であったが、本田には実現させたいことがあった。ただ走るだけでのサーキットではなく、より安全性が高く、しかも走ることによって知らず知らずのうちに運転技術が磨けるような、世界に通用するものにすることである。レイアウトは世界的に類のないものとなり、コーナーの数は18個、平らな場所はほとんどないアップダウンの多いコースは、スピードだけでなく、走る者にテクニックを要求し、走ることで自然と運転技術が身に付く難易度の高いコースを目指した。本田の哲学を具現化したサーキットは、スズカテクニカルコース(後の鈴鹿サーキット)と名付けられ、1962年に完成した。
その後1964年には、鈴鹿サーキット安全運転講習所(後の鈴鹿サーキット交通教育センター)を開設。「白バイ隊の殉職事故を防ぐにはどうすればよいのだろうか」という、中部管区の白バイ隊長からホンダに寄せられた切実な相談がきっかけだった。最初の受講者として交通警察官の訓練が始まる。事故の大半は運転技術に起因していたため、実際の交通環境を想定した基礎トレーニングを実践。その結果、白バイ隊の殉職者ゼロの達成に寄与した。これがホンダの安全運転教育のルーツである。
ホンダの安全運転教育のルーツである鈴鹿サーキット安全運転講習所での白バイ隊訓練
正しく楽しい乗り方も含めて安全な商品
日本が本格的なモータリゼーションの時代に突入した1970年は、交通事故死者数が16,765人と史上最悪を記録。そして、米国の弁護士ラルフ・ネーダー氏による、自動車の安全性に対する企業告発が日本に飛び火した年でもあり、ホンダも大きな影響を受ける。
同年9月11日、当時の専務取締役だった西田通弘(後の初代 安全運転普及本部長)は、安全性に問題があると指摘されたN360の案件で国会に参考人として出席した。議員の一人からホンダ車の安全性を確かめるための公開テストを求められると、西田はためらうことなく「公開テスト、大変望むところであります」と答えた。その後、公開テストの必要はなくなったものの、国会でここまで言った以上、ホンダとして何らかのアクションが必要であると考えた。
西田は、本田宗一郎と副社長の藤澤武夫に「耐久消費財であるクルマは、ハードウェアだけじゃなくて、ソフトウェアもやはり商品だという認識が必要なんじゃないか」と切り出した。そして、商品と安全教育の相互関係を強く主張するとともに、すでに1964年から鈴鹿で官公庁や企業を対象に実施していたバイクの安全教育を一般のユーザーに拡大し、そのノウハウを四輪車にも適用するべきだと訴えた。提案は即決され、わずか20日後の1970年10月、安全運転普及本部(以下、安運本部)が発足したのである。参考となる組織がどこにもない中で、驚異的ともいえるスピードで進められたのは、1日でも早く設立することが、一人でも多くの命を救うことにつながるという信念からだった。
鈴鹿サーキット安全運転講習所でのインストラクター養成
使う人とつくる人との間に温かい心の触れ合いを
ホンダは、クルマを利用する人々の安全を守るために最大の努力を払うのはメーカーの社会的責任であり、率先して日本と世界の交通事故減少の役割を果たそうと考えていた。
1971年3月、ホンダは全社を挙げて安全運転の普及に取り組む姿勢を社会に伝えるため、全国の主要新聞に、「ご報告」と「ルーニイさんの話」からなる全面広告を掲載した。商品広告が1行もなく、「安全運転普及のための活動」、「100パーセント点検の実施へ」、「低公害エンジン開発への努力」を社会に約束するという内容だった。具体的な活動として、安全運転普及指導員の養成・安全ドライビングクラブの結成促進と支援など、11の項目を盛り込んだ。あわせて、アポロ13号の奇跡の生還を米国航空宇宙局(NASA)のコントロールルームで指揮をした、当時32歳のルーニイさんと本田宗一郎の対話が紹介された。
「機械が進んでも、人間が基本なのです」という本田の考えを端的に表現するエピソードとして紹介され、「使う人とつくる人との間に温かい心が触れ合うことを基本姿勢として今後の企業活動を実践する」というホンダの企業姿勢が込められていた。
「あの帰還の成功は、機械による自動制御に任せるのではなく、要所要所は人間がコントロールしたからだという。(中略)ルーニイさんは、26才のときから、13号の飛行士たちと深く理解しあうためにずっといっしょに生活してきたおかげで、彼らのクセや、いま何を考え、何を欲しがっているかまでが、声を聞くだけで分かったというのです。(中略)機械文明が際限もなく進歩を続ける現代こそ、それを使う人とつくる人との間に、温かい心の触れ合う、真のコミュニケーションが大切なのだと、私はつくづく感じたことでした」(本田)
こうして安運本部の活動が明確化されると、その目的と重要性は瞬く間に全国の販売会社のスタッフに広がり、活動に賛同した多くのスタッフが安全運転普及指導員の資格を取得し始めた。設立から2年後の1972年には、本部から認定を受けた安全運転普及指導員は8,000人を超え、安全運転講習会参加者も6万人以上と、活動は全国的に広がり、「安全運転」は着実に社会に浸透していったのである。「血の通う言葉と心で、お客様を事故から守ろう」という想いのもと、団結して店頭活動を担った指導員の存在が、現在まで続く「人から人への手渡しの安全」の原動力になった。
受け継がれる
「人から人への手渡しの安全」
ホンダの二輪車・四輪車販売店では、店頭でお客様への安全アドバイスを実施しているほか、ライディングスクールや、ドライバー講習会を開催している販売会社もある。また、一部の四輪車販売会社(Honda Cars)ではスタッフが幼児向け交通安全教室の指導者となるための研修を行っている。研修後、店内での教室開催に加え、販売店の近隣にある幼稚園・保育園に出向き、交通安全教室を実施している。
安全に危険を体験させる活動
安運本部は店頭での手渡しの安全活動の推進とともに、運転者一人ひとりの運転技術向上を目指すための準備も着々と進めていた。ベースとなる教育プログラムは鈴鹿サーキット安全運転講習所で実施しているものを原点としたが、白バイ隊員のための訓練内容を骨子にしているため、体験型トレーニングとともに集団規律を厳しく守ることに重きが置かれていた。一般のライダー・ドライバーを対象とした安運本部の活動とは目的も役割も大きく異なっていたのである。
1972年4月に開催された第3回安全運転普及活動ご報告会で、本田は次のように語った。「安全に危険を体験させる。これが一番、大事なことである。これがすべての安全の基本であろうかと思うわけであります」。安全は危険と隣り合っている。危険を知識で知らしめ、身体でも知らしめること。つまり、安全に危険を知らしめることが基本であり、したがって、一般のライダー・ドライバーを対象に、安全に危険を体験させることが、ホンダの安全運転教育の基本理念となっていった。やがてホンダが行う安全運転のトレーニングは、教育プログラムでは一般の運転者(ライダー・ドライバー)用と職業運転者用、指導者プログラムとしてはインストラクター(安運本部・地区・県支部・交通教育センター)と普及指導者、専用施設として交通教育センターを備えた統一的なものへと進化した。
1980年になると、過去10年の活動を踏まえ、ホンダ式といえる運転教育の体系化と、教育内容と教科書(テキスト類)の記述内容を一致させる取り組みを行い、より効果的な教育の普及に寄与した。
1978年に鈴鹿サーキット交通教育センターで開講した1泊2日コースのホンダモーターサイクリストスクール(以下、HMS)を1982年から1日コースにアレンジし、全国に展開。HMSは免許取得後にバイクを安全に運転するための基本技術を学ぶ、いわばライダーの登竜門的なスクールで、鈴鹿・埼玉・福岡の交通教育センターや代理店・販売店が主催する形で行われた。1991年には、ドライバー向けにホンダドライビングスクール(以下、HDS)を開始。HMS・HDSともに実車を使い、乗って体験し自ら納得する、参加体験型の実践教育のコンセプトにのっとってトレーニング内容を構築した。時代とともに進化するクルマやバイクのハード面での安全性と同時に、運転者のマインドや運転技術というソフト面での安全性向上の場として、鈴鹿に初めて設立された交通教育センターは、現在全国7カ所に設置され、お客様や社会のニーズに対応した幅広いプログラムを展開している。
教習事業に加え、交通教育センターとしての役割を担う
1972年6月、ホンダ開発(株)の自動車教習事業部を独立させる形で(株)レインボーモータースクール(後のホンダレインボーモータースクール)を設立。単なる運転免許取得のための教習事業にとどまらず、企業や官公庁などで二輪車・四輪車を業務で利用する人々に安全運転教育を提供したいという想いがあった。また、安全運転に関する実験・研究・教育システムの開発という役割も担った。同社は、全国7カ所のホンダの交通教育センターのうち5カ所(和光・埼玉・浜名湖・福岡・熊本)を運営している。 ※もてぎ、鈴鹿はホンダモビリティランド(株)が運営
全国7カ所に展開する交通教育センター
しかし、交通安全教育において、運転技術や知識を教えるだけでは限界があった。特に路上におけるさまざまな危険を学んでいただくことは困難だったのである。こうした課題の解決に向け、安運本部ではソフトの研究開発を強化する必要があるとし、2つの取り組みに着手した。
1つは、危険予測トレーニング(以下、KYT)教材の開発である。路上には具体的にどのような危険があるのかを運転者に知ってもらうことが必要と考え、交通教育センターでは1980年代からKYTのペーパー教材を制作。交通教育センターを利用していただいているすべての企業に配布し、企業・団体の安全運転研修での講義にも活用した。そして、1996年に「交通状況を鋭く読む~危険予測トレーニング~四輪車用」のテキストブックが完成(二輪車用は1997年)。交通事故分析に基づいた危険場面200ケース(二輪車編は50ケース)を収録し、単なる危険の発見にとどまらず、事故が起こる原因や運転者の心理も学べる教材となった。手軽なこの教材はKYT教育の普及に大いに役立った。
もう1つは「どうしたら、路上で起こりやすい事故を安全に体験しながら学べるか」、その解決策として検討していたのがシミュレーターによる教育だった。ホンダは「ないものはつくれ」の精神で、危険をよりリアルに体験できる独自のシミュレーター開発に取り組んだ。そして1996年、大型二輪免許教習制度施行に合わせ、Hondaライディングシミュレーターを発売。その後も、2001年にHonda四輪ドライビングシミュレーター、2010年にはHonda自転車シミュレーターを送り出すなど、教育機器の開発は今日も続いている。
二輪車から四輪車、そして
自転車へと続くシミュレーター
1996年の大型二輪免許教習制度の施行に合わせて、自動車教習所でシミュレーター教習が取り入れられることになった。ホンダは、二輪車の特性や法規走行が体験できる機能を付加した世界初となる教育用のライディングシミュレーターを完成させた。また、2001年に発表されたドライビングシミュレーターは、初心運転者教育用シミュレーターとしては初の6軸モーションベース(揺動装置)を採用。これにより加速・減速感もよりリアルに体験できるようになった。2010年発売の自転車シミュレーターは、警察や自治体などに導入され、子どもや高齢者への自転車運転教育に活用されている。
*1:ホンダ調べ