第Ⅳ章
事業の基盤となる
取り組み

第1節 SED開発システム

第1節 SED開発システム

企業としての
成長とともに
常に
革新を進める
製品開発体制

創業期のホンダは、本田宗一郎という一人の天才的技術者の発想から製品が生まれ企業としての基盤が築かれていった。
その時代が過ぎようとした時、次代を担う技術者たちは
天才はいなくても一人ひとりの個の力を束ねて進んでいこうと、集団指導による製品開発の道を選んだ。
お客様に喜んでいただける商品をいかに効率良く、スピーディーに送り出せるか。
重要となるのは、本質的な目的を追求する徹底的な議論と、全員が同じ方向を目指す意思の共有だった。
それは開発現場から始まり、販売や生産といった部門を超えた開発体制へと発展。
しかし、時代の変化や社会環境への対応、海外拠点との協調と連携など企業として成長していくほど課題・難題に直面する。
ホンダの開発体制は、改革と模索を繰り返しながら常に最適解を求め、今なお進化を続けている。

ホンダ初の小型乗用車1300の開発で気付いた
企業体質の転換期

 1967年、ホンダはいよいよ小型乗用車市場に参入すべく、1300の開発をスタートした。陣頭指揮を執った本田宗一郎が特にこだわったのは、空冷エンジンだった。確かに空冷エンジンを搭載した軽乗用車N360はベストセラーカーになっていた。だが、開発者たちは空冷エンジンが小型乗用車と結び付くのか疑問だった。騒音対策や熱処理など空冷特有の課題を解決するには、困難が多すぎた。しかし、従来一貫して空冷エンジンの生産を続け、厳しい二輪車業界の中でトップメーカーの座を維持してきたという創業者の自信と、空冷エンジンはメンテナンスが容易で、温度環境の変化に強く、安心して広い地域で使用できるという信念のもとに、開発者たちは空冷エンジンを載せた小型乗用車の構想を具体的に進めることとなった。
 開発者たちの苦労の末に空冷エンジンは完成し、1969年5月に1300は発売された。多くの販売店が他メーカーにはない技術のクルマを売ることができるという期待感を持っていた。しかし、お客様の反応は非常に厳しいものであった。発想の段階から生産に至るまで徹底的にベストを尽くしたものの、期待した販売台数は得られなかった。
 1300は、何が問題だったのか。当時、研究所所長(後の本田技研工業会長)だった杉浦英男は次のように述懐している。
 「一言でいえば、商品としての自動車というものに対する理解が、必ずしも十分でなかったといえるのではないだろうか。(中略)開発に当たっては、当然のことながらお客様の視点というものを意識していたつもりだったが、結果としては技術というものが前面に出てきてしまって、このクルマが最終的に、どんな人たちに、どんなふうに乗ってもらうか、ということが不明確になってしまっていた。これが1300から得た最大の教訓だったと思う」
 1300の発売から2カ月ほどが過ぎたころ、杉浦たちは本田のもとへ説得に向かった。N360から空冷エンジンの設計を手掛けてきた久米是志(後の本田技研工業三代目社長)たちの声を届けるためだった。久米には空冷エンジンの限界が見えていた。目前には排出ガス規制に対応したエンジン開発が迫っていた。本田を前にした杉浦らは、水冷エンジン開発が必要であることを主張した。説得の末、ようやく水冷エンジンは解禁された。
 こうして1300が残した教訓は、その後のホンダの製品開発に大きな転機をもたらすことになったのである。

開発体制変革のきっかけとなった1300

開発体制変革のきっかけとなった1300

1300 走行動画

一人の天才が導く開発から
集団で取り組む開発体制へ

 1300の開発は、度重なる設計変更など決して効率の良い開発とはいえなかった。四輪車の機種も増え、技術的な幅も広がり出したホンダにとって、一人の天才が全部をコントロールできる時代ではなくなっていた。
 1971年4月、研究所の社長が、本田から社長代行だった河島喜好(後の本田技研工業二代目社長)に交代した。河島はすぐさま、研究開発体制の改革に着手。「独創的な商品を意欲的につくりだすこと」を目標に、新しい研究開発システム(R&D開発フロー)をスタートさせた。河島は、個々の専門化された分野で優れた才能を一定方向に集結させていくことに重点を置いた。この考えをもとに、久米が中心となって開発のシステム化と組織体制の改革を確立していった。
 久米は、河島から「研究所の仕事の仕方を、集団指導体制へ改革せよ」と告げられたという。そして次のように伝えられた。
 「私たち一人ひとりは、本田さんには及びもつかない凡人でしかない。とはいえ、一つぐらいは本田さんより、もうちょっといいような取りえを持っているだろう。それを束ねて仕事をしていこう」
 新開発体制の主な内容は次の6項目であった。

  1.  ①併行異質自由競争主義による開発や
    D開発と未知技術を含んだR研究の区分
  2.  ②開発スタート時からの「売る・つくる」部門の参画
  3.  ③商品開発の「目的・目標要件」の設定
  4.  ④チームによる推進体制
  5.  ⑤開発ステップごとのS・E・D評価
  6.  ⑥これを補う技術評価

(注)
R研究

魅力ある商品を生み出す基礎となる新技術の開発
未知の技術(個別、複合)を完成する基礎的研究段階
生産販売に供する商品の開発。R研究段階で
新技術を身につけ、その技術で商品を開発すること

D開発

  • 生産販売に供する商品の開発。R研究段階で
    新技術を身につけ、その技術で商品を開発すること
  • S 販売部門(Sales)
  • E 生産・生産技術部門(Engineering)
  • D 量産開発部門(Development)

 この開発体制は、すでに1970年の秋から久米の指揮によって開発を進めていた、初代シビックや米国の排出ガス規制マスキー法(1970年改正の米国大気浄化法)適合を目指したCVCCエンジンの開発に早速、生かされていったのである。

初代シビックの開発で生まれ
現在も継承されている、ホンダの「A00」(エーゼロゼロ)

 初代シビックの開発においては、開発のスタート時に、研究所所長の杉浦から開発チームに「7つのお願い」が発行されていた。それは、開発途中から導入された新たな開発体制6項目の中の、③商品開発の「目的・目標要件」の設定に相当するといえるものであった。
 1)軽自動車のユーザーが、次に乗りたい車
 2)ホンダの販売網、整備体制で売られる車
 3)対米輸出が可能な車
 4)マスプロ、マスセール可能な車
 5)ホンダらしい車
 6)開発完了は1971年中
 7)ボディーは3年、エンジンはヘッドを載せ替え、1975年以降も継続生産できること
 これらの項目が掲げられたことで、作るべきものが明確になり、それをチーム全員で共有することができるようになったのである。そしてこの7項目からなる、商品開発の「目的・目標要件」こそが、今日まで続く、ホンダのさまざまなプロジェクトにおいて出発点として掲げられる、「A00」の始まりといえる。
 この「A00」という呼び名は、開発現場でふと生まれたものであった。シビックおよびCVCCエンジン開発を率いた久米が、当時の様子を次のように語っている。
 「人が束になってやるのだから、横の連携を徹底的にとる必要がある。そこでワイガヤをやり始めた。(中略)これはどういうチャレンジなのか、目標の意味をどこまでも深めて、全員が分かって理解するまでワイガヤをする。(中略)ワイガヤをやり尽くしたら、それから仕事の仕方をシステム化する。(中略)研究所の仕事の仕組みも改革しました。評価制度をつくり、そこからD0、D1というふうな段階で、こういう評価要件で進めようとつくっていきました。そうしたら偶然にも『A00』なんて言葉が生まれてきたりした」
 こうして開発の構想が練られ、7つの目的・目標要件は満たされていった。シビックは1972年7月に発売されると、小型乗用車市場に旋風を巻き起こす存在となったのである。

「目的・目標要件」を設定し開発されたシビック「A00」という言葉はその過程で生まれた

「目的・目標要件」を設定し開発されたシビック
「A00」という言葉はその過程で生まれた

全社ブロジェクト「NHP」によって構築された
SED開発システム

S=Salesセールス(販売)E=Engineeringエンジニアリング(生産・生産技術)D=Developmentディベロップメント(研究開発)が連携をとりながら、一体となって商品開発に携わるシステム S=Salesセールス(販売)
E=Engineeringエンジニアリング(生産・生産技術)
D=Developmentディベロップメント(研究開発)
が連携をとりながら、一体となって商品開発に携わるシステム

 河島の提唱によって1971年に研究所から始まった体制改革は、1972年には全社を挙げて取り組むプロジェクト「ニュー・ホンダ・プラン(NHP)」へと発展した。あらゆる部門で顕在化してきた問題を洗い出し、部門同士のつながりを重視しながら全社的に整理し、課題解決を推進していった。その一つとして、約2年間の検討を経て、今日のホンダの製品開発体制の礎となるシステムが構築された。
 商品企画段階からユーザーであるお客様の声を生かせる開発体制として、S・E・Dの3部門が有機的に連動しながら、お客様に喜ばれ満足していただける製品開発を目指す、SED開発システムが1974年にスタートした。
 これにより、従来のような開発から生産、そして販売へとリレーされ市場に送り出されていた体制から、3部門が同時進行することでダイレクトに市場や生産現場の意見が開発に反映されるようになり、開発期間の短縮、設計変更の削減などとともに、ニーズを確実につかんだ商品の市場投入が可能になったのである。
 SED開発システムが導入されたのは、シビックの上級車を目指したアコードの開発からであった。SEDの各部門から集まった合同プロジェクトチームが編成され、「初めに要件ありき」で目的・目標を設定し、それぞれの立場や経験を踏まえて互いに意見を出し合い、生産から販売計画まで組み込んだ商品開発が行われた。国内のみならず米国でも市場調査を行い、シビックの上級シリーズとして世界に通用する本格的な小型車を目指し、開発が進められた。

爽快感あるスタイリング、M・M思想を追求したパッケージング、操作性の良いインパネ。アコードは市場で高い評価を受けた

爽快感あるスタイリング、M・M思想を追求したパッケージング、操作性の良いインパネ。アコードは市場で高い評価を受けた

 1976年5月に初代アコード(アコードCVCC ハッチバック)が発売されると、箱根で行われたジャーナリスト対象の試乗会では、そのデザイン・居住性・装備の使い勝手・乗り心地・静粛性など、すべてにわたり高い評価を受けた。市場でも発売と同時に受け入れられ、翌年に発売された4ドアサルーンとともに、驚異的ともいえる大ヒット車となった。SED開発システムによる成果は、大いに発揮されたのである。

米国SED開発システムを構築し開発されたアコード ワゴン

米国SED開発システムを構築し開発されたアコード ワゴン

SED開発システムの地域自立化へ
USアコードの現地開発

 1976年に誕生したアコードは同年に輸出が開始されると、米国をはじめ急速な販売台数の上昇によって、1980年1月には早くも生産累計100万台を達成した。1982年には米国の生産会社、ホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチュアリング(HAM)*1で現地生産を開始。アコード 4ドアサルーンがラインオフした。
 ホンダは「需要のあるところで生産する」という考えのもと、生産の現地化を進めていたが、世界最大の自動車大国である米国においては、SEDすべての現地化による体制強化が必要と考えた。そこで、1984年にD部門のホンダ・リサーチ・オブ・アメリカ(HRA、後のホンダR&Dノースアメリカ)を設立し、翌1985年にはE部門の技術支援としてホンダエンジニアリング・アメリカ支店(EG-A)*2を設立。これによりS部門のアメリカン・ホンダ・モーター(AH)とともに、米国におけるSED開発システムを構築したのである。
 この新たに誕生した体制によって、1987年にまずはアコード特別仕様車(’89年モデル)の現地開発がスタートし、時を待たずして、初代アコード ワゴン(’91年モデル)に始まる北米専用モデルの本格的な現地開発へと進んでいく。そして現地開発の一里塚を築いたといえるACURA CL(’96年モデル)へと発展していった。現在、米国のホンダでの独自開発による機種が多く存在し、お客様に受け入れられているのは、こうした現地での開発システムを確立し、体制強化を続けてきたからにほかならない。

  • :2021年4月1日付でHAMを含むアメリカの四輪車生産関連法人と四輪車開発機能が統合されホンダ・ ディベロップメント・アンド・ マニュファクチュアリング・オブ・アメリカ (HDMA)が設立された
  • :1988年には法人化されホンダエンジニアリング・ノースアメリカ(EGA)を設立
アコードをベースにHRAが開発したACURA CL

アコードをベースにHRAが開発したACURA CL