第Ⅱ章
世界に広がる事業展開

第4節 欧州・アフリカ・中東 第2項 アフリカ

第4節 欧州・アフリカ・中東
第2項 アフリカ

「地球最後のフロンティア」とも呼ばれるアフリカでのビジネスに
ホンダが本格的に参入したのは1980年代からであった。
今後もインフラ整備や人口増加が続くなど
さまざまな問題を抱えながらも、さらに大きな可能性を秘めたアフリカ市場。
しかしこの広大なアフリカを、一つの地域として捉えることはできない。
国の政情、規制のあり方などもそれぞれ違う。
こうした市場環境の下、ホンダは活動拠点として3つの国に進出した。
ナイジェリアでは品質を守りながら、いかに低価格で二輪車を提供できるかが求められ
南アフリカでは欧州メーカーとパートナーとなることで四輪事業に参入。
ケニアでは、小さく始めて大きく育てる、という考え方を進化させ、二輪車戦略に挑んだ。
これらの活動は、決してあきらめずに、地道に、着実に、前へ進む挑戦の連続であった。

オイル景気に沸くナイジェリアで現地生産に踏み切り
アフリカでの本格活動を開始

 日本の約2.5倍の国土に、現在2億人以上の人口を有するアフリカ最大の経済大国、ナイジェリア。同時に、アフリカ屈指の産油国としても知られている。
 ホンダのアフリカでの歩みは、1960年代、当時のホンダ・モーター(後のベルギー・ホンダ・モーター BH)で生産していたモペッドのナイジェリアへの輸出から始まった。しかし当時は、対日輸入規制などもあり、市場開拓と呼べるほどの活動は行っていなかった。未開拓のまま、年月が流れた。
 そのナイジェリアが、1970年代になるとホンダにとって大きな位置を占めるようになる。世界経済を揺るがした第一次石油危機(オイルショック)によって産油国ナイジェリアに「オイル景気」が訪れ、自動車やオートバイを含む耐久消費財が飛ぶように売れ始めた。ナイジェリアは産油国の中でも良質な原油を産出していたため、巨額のオイルマネーが社会を潤し始めたのである。これを機に、ホンダの二輪車も急速に販売が増加した。1974年には、それまで月に1,000台ほどを主に欧州から輸入していたが、みるみるうちに10倍の月1万台に膨れ上がった。
 これなら二輪車の現地生産は必至だとホンダは確信した。ディストリビューター(輸入代理店)である現地企業のレベンティスと交渉し、ナイジェリア政府関係者とも折衝を重ねた末、1979年7月、オグン州オタ市にレベンティスとの合弁による二輪・汎用製品販売会社、ホンダ・マニュファクチュアリング・ナイジェリア(以下、HMN)を設立。同年10月には早くも工場建設に着手した。
 しかし、多くの困難が伴った。当時のナイジェリアはインフラが整備されておらず、毎日のように停電が起こった。そのたびに電灯が消え、扇風機が止まった。また、上下水道の整備も遅れていたため、雨が降れば路上のクルマが水没してしまうこともしばしばであった。さらに、日本から現地に渡った駐在員にとっては食事も一苦労だった。衛生上、生水は飲めず、野菜も生では食べられない。日本食が手に入らないため、持参したインスタントラーメンは貴重品だった。このような環境の中で、駐在員はまさに更地の鍬入れから始め、現地スタッフを雇用し、鼓舞激励しながら技術指導を行い、量産までこぎ着けた。
 二輪車の組み立てに加えて溶接や塗装まで行える、ナイジェリアでは近代的な工場が完成。1981年1月、日本からの部品供給を受け生産を開始した。

インフラが整備されていない厳しい環境の中で立ち上げたHMN二輪車工場。写真は完成検査ライン

インフラが整備されていない厳しい環境の中で立ち上げたHMN二輪車工場。写真は完成検査ライン

未曾有の事態発生
ディストリビューターに救われた懸命な代金回収

1980年に生産を開始したHMN二輪車工場

1980年に生産を開始したHMN二輪車工場

 生産体制を整えたHMNはナイジェリア市場で順調に歩み始めた。だが、ほどなくして、思いもよらぬ局面に遭遇する。旺盛な需要に伴い、日本から大量の部品を輸入するようになったが、その代金が日本へ送金されないという事態が発生したのである。入金を待つ日本側も気が気ではなかった。
 事の経緯はこうであった。それまで高騰していた原油価格が下落し、原油輸出によって取得していた外貨(USドル)が不足してきたのである。その一方で、HMNは輸入した組み立て部品の代金を、いったんナイジェリアの通貨であるナイラで中央銀行に振り込み、USドルに交換して日本に送金する手続きを行っていた。ところが中央銀行にUSドルが不足していたため代金が決済されず、日本に送金されなくなってしまった。しかもこうした経済の混乱により、国内通貨のナイラも価値が目減りし始め、代金の回収はさらに困難な状況となった。
 なんとしてでも全額を回収しなければならない。そのためには日増しに価値が下がるナイラをディストリビューターであるレベンティスに集めてもらわねばならず、さらに中央銀行に対しては、少ないUSドルを日本への送金に割り当ててもらえるよう粘り強く要求する必要があった。この2つのハードルをクリアするのは困難を極め、現地駐在員と日本側の担当者にとっては落ち着いて眠れない日が続いた。
 このような暗闇に光が見えたきっかけは、レベンティスの尽力によるところが大きかった。レベンティスはホンダの二輪事業のみならず、ホテルやスーパーマーケットなどを手広く展開する優良企業であったが、それらに投入する予定の事業資金までHMNに回してくれた。1960年代に始まった輸入やHMN設立による合弁事業などを通じ、ホンダとレベンティスが長く深い関係を築いてきたことから、レベンティスは誠意を持ってホンダへの送金に当たってくれたのである。さらに、中央銀行からUSドルを割り当ててもらうことも、レベンティスの協力のもと成功した。
 こうして1984年、ホンダは未回収代金の満額回収を成し遂げたのである。しかしその先に、HMNの存続が危ぶまれる、さらなる大きな試練が待っていた。

創意工夫で乗り切った、HMN存続の危機

 1983年に起きた原油価格の下落は、ナイジェリア経済を混乱させた。その余波を受けて二輪車販売は停滞。かつての年間10万台生産という勢いは、その10分の1、年間1万台へと落ち込み、1986年には年間3,000台強となった。同じ状況にある二輪車メーカーの中には、ナイジェリアから撤退する企業もあった。HMNも存続が危ぶまれたが、これまでの苦労を無駄にしないためにも、踏みとどまることを決断。その結果、1日の操業時間は半分に短縮され、480人いた従業員も180人にまで減らさざるを得なくなった。機械の音で活気づいていた工場が静まり返り、駐在員を含む全従業員が複雑な表情に包まれていた。
 しかし、なんとしてでも生き残らねばならない。このような時だからこそ、ホンダならではの創意工夫が発揮される。みんなで知恵を絞り、節減できる経費は徹底して削り、利益につながることはなんでもやろうと、HMN社長をはじめ、現地従業員たちも決意が固まった。
 工場の存続・再生に向けてさまざまなアイデアが出された。その様子はさながらナイジェリア版アイデアコンテスト*1であった。例えば、工場敷地内に毎時50トンも湧き出る水の商品化など、費用面から計画倒れに終わるものもあったが、部品梱包のクッション材に使われていた大量の紙が柔らかく水に溶けやすいことから、トイレットペーパーとして再利用するなど、実にさまざまな試行錯誤が繰り返された。また、駐在員が販売店を回っていた折に、現地の人が段ボールをカットしてガスケット代わりにしているのを見かけ、これをヒントに工場にあるガスケットに適した素材を使って急きょ内製するなど、利益につながるアイデアもあった。
 こうした涙ぐましい、再生に向けての努力により、HMNは次第に利益を計上していった。そして1979年設立以来、初めての配当を実現した。それは当時の金額で2,500万円ほどの少額であったが、まさにみんなの汗がしみ込んだ賜物であった。

  • :1970年から開催された「オールホンダ・アイデアコンテスト」。この前年に当時の狭山製作所で行われた運動会で、各課対抗の仮装行列を観た本田宗一郎が「これは面白い。これこそホンダの夢と頭の運動会だ」と喜んだ一言がきっかけとなり生まれた。仕事を離れた時間に、自由な発想で夢を実現してきた多くの従業員は、ものづくりの難しさと同時に楽しさも会得していった

グローバルネットワークを活かし
高品質の二輪車をより安く、より多くの人に

HMN製CG125(1989年)

HMN製CG125(1989年)

 市場規模が極端に縮小した中でも、HMN製の二輪車CG125はナイジェリアで人気のモデルであった。1989年には、組み立て部品の輸入コスト削減などを目的に、供給元を日本からブラジルの生産拠点に切り替え、新モデルCG125NRを投入。より多くのお客様へホンダの二輪車をお届けしたいと考えていた。
 しかし、その後も長く続くことになるナイジェリアの経済低迷が、二輪車市場の流れを大きく変えていった。日本を含む海外から中古車の流入が始まり、さらに1990年代後半から、中古車をわずかに上回る価格帯で中国製のコピー車が進出。低価格を武器に約9割ものシェアを占めるようになったのである。
 ナイジェリアでは一般市民にとってバイクはまだ高額商品であり、ホンダにとっては法人が主要顧客であった。そして一般市民の移動手段として、都市を中心に増えてきたのが「オカダ」と呼ばれるバイクタクシーであったが、そのバイクタクシードライバーのほとんどが、中国製コピー車を選んでいた。
 このコピー車は、ホンダの二輪車を模しており、お客様にとって価格は半値以下だが品質は大きく劣っていた。当時のホンダにとって、それはすでに中国で大きな問題となっていた。ホンダはこの問題の解決策として、中国での合弁会社である五羊ー本田摩托(広州)有限公司(以下、五羊ホンダ)が品質と価格を両立できる商品を生産し販売していた。
 そこでHMNは、この五羊ホンダから組み立て部品の供給を受けることを決定。2002年、ホンダブランドにふさわしい高品質でありながら、中国製コピー車に対抗できる十分な価格競争力を持った、CGL125を発売した。高い耐久性や優れた燃費に加え、ロングシートを採用した後部座席の居住性、キャリアを装備した積載性など、バイクタクシー仕様として新たなユーザー獲得に挑戦したのである。
 発売直後は中国製二輪車に比べて価格がやや高いとの評価を受けていたものの、1年後には品質が良くてランニングコストが安いことがバイクタクシードライバーの間で広がり、CGL125のシェアは徐々に拡大していった。しかし、2000年代半ばになると、今度はインド製小型二輪車が市場に参入。ホンダ車と中国製の中間という価格帯で登場したのである。
 さらに厳しい価格競争を強いられることになったHMNは、2011年に低価格戦略車を打ち出す。バイクタクシー仕様の新モデルAce CB125と、新たに幅広いお客様に向けた、スタイリッシュで先進的なデザインのAce CB125-Dを発売。2013年にはよりいっそうの低価格を実現した、排気量110ccクラスのCG110を、2017年にはビジネスユースに適した同じく110ccクラスのAce110を投入。さらなる販売拡大を目指し、攻勢をかけていった。
 2019年、HMNは設立40周年を迎え、同年、累計生産100万台を達成した。設立以来、HMNは中国製やインド製の多数のブランドとの価格競争に対して、実用性や耐久性はもちろん、自社工場での組み立て検査や生産管理などによって、ナイジェリア国内約160社のディーラーとお客様から信頼を勝ち取ってきた。
 原油価格の変動によって外貨準備高の下降と回復が繰り返され、常に不安定な市場環境を余儀なくされる中で、HMNは日本と連携しながらグローバルネットワークを活かし、地域に適した高品質の二輪車を、より身近な価格で提供しようと奮闘を続けている。それは、市民の生活に不可欠な交通インフラの一つとして、長く安心して使っていただける二輪車をお届けしたいという一心にほかならない。

CG110(2013年)

CG110(2013年)

ビジネスユースに適した新型小型二輪車Ace110(2017年)

ビジネスユースに適した新型小型二輪車Ace110(2017年)

現地に即したビジネススタイルでベストを尽くす
南アフリカでの四輪事業展開

UCDDへの委託生産という形でスタートした南アフリカでの四輪車生産。始まりはバラードだった UCDDへの委託生産という形でスタートした南アフリカでの四輪車生産。始まりはバラードだった
J.D.パワーの「2004年初期品質調査」でブランド別ランキング1位に選出される J.D.パワーの「2004年初期品質調査」で
ブランド別ランキング1位に選出される

 アフリカ諸国の中で第2位の経済大国である南アフリカ。第1位のナイジェリアとともにアフリカ経済を牽引している。19世紀後半にダイヤモンドや金などが発見されて以来、鉱業が主導となり、その資本を原資に製造業などが発展してきた。そのため近代化が進み、アフリカでは最も早くモータリゼーションを迎えた国である。高速道路が地平線の彼方まで続き、市街地では世界の主立ったメーカーのクルマが走っている。
 南アフリカにおけるホンダの四輪車生産は、1982年10月、小型4ドアセダンのバラードから始まった。しかし、市場参入を果たすまでの経緯は、単純なものではなかった。というのも、当時の南アフリカは四輪完成車を全面輸入禁止にしており、また、現地生産を行うにしても、部品の現地調達率に対する極めて厳しい規制があった。年間の自動車生産台数は約20万台規模の大きな市場であったが、ホンダにとっては、現実的に不可能に近いことであった。
 それが、あるきっかけから可能性が見えてきた。二輪車とパワープロダクツ部品の輸出ですでに取引のあった現地ディストリビューターから、政府内に規制緩和の動きがあるとの情報を入手した。加えて、生産事業に参入するなら、当時メルセデス・ベンツの代理店で生産も行っていた、ユナイテッド・カー・アンド・ディーゼル・ディストリビューターズ(以下、UCDD)をパートナーにするべき、との提言を受ける。こうして幾度となく交渉を重ねた末に、UCDDと技術提携契約を締結。委託生産という形でバラードの生産がスタートし、販売についてもUCDDのディーラーを通じて行われることになった。
 発売から間もない1983年、南アフリカ製バラードは高い評価を得た。地元有力紙「The STAR」が選ぶ、「‘83 カー・オブ・ザ・イヤー」小型車部門を受賞したのである。こうした評価を追い風に生産台数は順調に伸びていった。
 その後、ホンダは現地に駐在員事務所を開設。生産機種はシビック3ドアおよびバラード(シビック4ドア)に拡充され、2000年までの18年間で、南アフリカ生産車の販売台数は約17万5,000台に達した。そしてこの年、大きな転機を迎える。
 ホンダとダイムラークライスラー・サウスアフリカ(UCDDから社名変更。以下、DCSA)は南アフリカにおける長期的な観点から、双方ともに独自の施策展開が必要と判断。2000年末をもって提携関係を解消することに合意し、ビジネス戦略を再構築することを発表。ホンダは長年にわたり南アフリカでのホンダ車の生産・販売とブランド構築に携わったDCSAに敬意を表した。これによりホンダ車の現地生産は2000年内で終了することになり、ホンダは現地法人ホンダ・サウス・アフリカ、後のホンダ・モーター・サザン・アフリカ(以下、HSAF)を2000年6月に設立。南アフリカの輸入規制も変化していたことから、HSAFは二輪車・四輪車・パワープロダクツ製品の輸入・販売会社として新たなスタートを切ることになったのである。
 HSAFはホンダならではの多彩な製品群で、拡販を推進していった。二輪車では、2003年に南アフリカでシェアナンバーワンを獲得。四輪車では、J.D.パワー・アンド・アソシエイツが南アフリカの全メーカーを対象に初めて実施した「2004年初期品質調査(IQS)」において、ブランド別ランキングでホンダが1位に選出された。2007年には新型シビックが南アフリカ カー・オブ・ザ・イヤーをホンダ車として初めて受賞した。また、パワープロダクツでは、汎用エンジンや発電機はもとより、グリーンビジネスやマリンビジネスも展開するなど、南アフリカを拠点に南部地域の人々の暮らしに役立つ商品やサービスを展開していった。

移動の喜びを一人でも多くのお客様に届けたい

ナイジェリアにおける四輪事業展開

1992年にHMNの四輪車販売チャンネルとしてナイジェリア初のホンダ車専売ショールームをオープン。その後、2013年に四輪車および部品を輸入・販売する現地法人ホンダオートモービル・ウエスタンアフリカ(HAWA)を設立。2015年にはアフリカにおけるホンダ初の四輪車生産工場が稼働し、アコードの組み立て生産を開始した。