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Goodwood 2005

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Goodwood 2005

「レーシング・カラーズ」の象徴となったHondavol.1

最初は金色に塗られたHonda F1マシン

2005年6月24日から3日間に渡り開催された
グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード。
HondaはF1初勝利から40年目の今年、
この世界最大級のヒストリック・モータースポーツイベントで、
日本メーカーとして初めてメインスポンサーを務めた。
今回のテーマは「レーシング・カラーズ」。会場中央の広場では
それを象徴するかのような、6台の歴代HondaF1マシンを据え付けた巨大なアームが、
人々の頭上をゆっくりと揺らめいていた。
その景観は主役を務めるにふさわしい偉容であった。

最初は金色に塗られたHonda F1マシン

大空から歴代Honda F1マシンが会場へ向かって舞い降りるかのような大がかりなデザイン。見上げた満場の観衆は、驚かざるをえなかった。

ある者は昔日の思い出を求めて、ある者は伝え聞いた歴史を確かめるために、世代を超えたモータースポーツファンが詰めかけた。

今年も華やかに開催されたグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード。会場のセントラル・ディスプレイには、6台のHondaのレーシングマシンが据え付けられていた。そのうちの2台は、Hondaの第一期F1活動で使われた日の丸カラーのマシンである。このカラーリングは、当時FIA(国際自動車連盟)がF1参加者に義務づけていた「ナショナルカラー」として日本に割り当てられたものだ。今回、現地運営に駆け回ったHonda U.K.(*)のPRマネージャーは言う。

「今回のグッドウッド・フェスティバルのテーマは『レーシング・カラーズ』です。そのテーマの中で、日本のナショナルカラーである日の丸を描いたHonda F1を走らせることには、大きなこだわりがありました」

モーターレーシングが行われるサーキット上には、さまざまな色に飾られた競技車両が群れを成して疾走する。目も眩むような色の饗宴は、モーターレーシングの一つの魅力でもある。近年ではスポンサー企業のイメージカラーが主流だが、かつては事情が少々違った。特にF1グランプリの場合、出走する車両は基本的に、チームが所属する国籍を表す色に塗られなければならなかった。この国籍を表す色、いわゆるナショナルカラーは1900年代初め、レースを統括するFIAによって定められた。

1964年、HondaがF1グランプリに出走する際にも、このナショナルカラーが問題になった。すでにHondaは、マン島TTレースでの活躍をはじめ、61年には二輪世界GPでシリーズチャンピオンとなるなど、世界で名声を得た存在ではあったが、四輪レースには初めての参戦であり、FIAも日本のナショナルカラーを定めていなかったのだ。そこで、HondaはFIAにナショナルカラーを新たに登録するところから仕事を始めなければならなかった。

*Honda Motor Europe Ltd. イギリス:二輪、四輪、汎用製品の輸入販売および欧州全域にわたるSEDなどの統括機能を持つ。

*マーチ卿邸宅前にそびえ立つセントラル・ディスプレイ。写真左からRA272、RA300、ロータスHonda 99T、ウィリアムズHonda FW11、マクラーレンHonda MP4/4、B・A・R Honda 006。

ナショナルカラーを決定するためにFIAへ出かける際、携えていったデザイン画の複写。すでに日の丸が描かれている。

当初、本田宗一郎はHondaF1マシンの車体色、すなわち日本のナショナルカラーとなる色を金色にしようと考え、「車体を金色に塗れ、できれば金箔を貼れ」と言い、実際に初期の開発作業の中で実験車両RA270は金色に塗られた。当時の担当者はこう証言する。

「オヤジ(本田宗一郎)は最初、金箔を貼れ!と言い出したんですよ。でも、当時塗装室にいた職人気質の頑固親爺、でも大変優れた方がいて、『いくらオヤジが言ったからって、そんなことできるわけがねえじゃねえか!』って。それでもなんとか、金色にしようと考えたんです。当時、工場の近くにあった肉屋さんが使っている秤が金色だったなと思い出して、あれがいいとわざわざ一緒に見に行き、当時の塗料メーカーにできるだけ近い色をつくってくれと無理を言った。金色とはいってもかなり目が粗いフレーク塗装というやつでね、そこにクリアを厚く塗ったから、まあ派手にビカビカ光るんです。オヤジも文句を言わなかったからこれで良かったんでしょう(笑)」

本田宗一郎がなぜそこまで金色にこだわったのか。今となっては真相は分からないが、ただ派手にしたかったのではないかという説もあれば、本田宗一郎にとって日本のイメージ色は金色だったのだろうという説もある。

アイボリーホワイトに赤い日の丸の舞台裏

しかし、1964年にF1にデビューした実戦車両RA271は結局は金色ではなく、アイボリーホワイトの地に赤い日の丸を描いたカラーリングで彩られていた。ナショナルカラーがこの色の組み合わせに決まった経緯については、FIA側から提案があったとする説があったが、他の説が今回の取材で得られた。

HondaはFIAとの交渉以前にすでに金色が他国のナショナルカラーとして登録されているのを知っており、一度はホワイトに決まりかかったが、ドイツのシルバーに似ているので、アイボリーに日の丸の組み合わせを採用したということだった。F1初代監督の中村良夫が、当時FIAへ交渉に行く際に携えていったというカラーリング原画は、実験車両のRA270をベースに白地に日の丸を描いたものである。

前出の開発担当者によれば、「あの日の丸は、『このへんにこれくらいの丸いの!』とオヤジさんが身振り手振りで決めました。直径は何センチで、とかそういう話ではなく、グルグルやってる手の動きを見て、こんなもんだったかなって。そもそも、オヤジのイメージ、実現したい形とか色とか大きさをそれだけで理解できないと殴られちゃう(笑)。わたし自身は悪くない色だなと思うけど、良い悪いを超えた話でしたね。オヤジが決めちゃったんだもの。個人的には、ラインを入れた方が良かったかなとは思いますけどね」ということになる。

こうした証言に加えて、その後実験車両のRA270も金色からホワイトに塗り替えられて試走をしている記録もあり、アイボリーホワイトに日の丸というナショナルカラーは、現在言われているよりも前の段階で、案としてHonda内部で(というよりも本田宗一郎の頭の中で)イメージされていたものとも思われる。

横置きした排気量1500ccV型12気筒エンジンから甲高いHondaミュージックを奏でながら、コースを疾走したRA272。

横置きした排気量1500ccV型12気筒エンジンから甲高いHondaミュージックを奏でながら、コースを疾走したRA272。

1959年からのマン島TTレースへの挑戦がF1進出への鍵になったことは間違いない。RC166は67年二輪世界GP 250ccクラスでタイトルを獲得。

1959年からのマン島TTレースへの挑戦がF1進出への鍵になったことは間違いない。RC166は67年二輪世界GP 250ccクラスでタイトルを獲得。