第Ⅰ章 経営

1951年当時の本田宗一郎(左)と藤澤武夫(右)

1951年当時の本田宗一郎(左)と藤澤武夫(右)

第1節

創業と開拓の時代

限りない夢、あふれる情熱

1948-1973(本田宗一郎・藤澤武夫)

大正から昭和の初めにかけて、それぞれ異なる夢を持つ二人の青年が、社会に飛び出していった。
時代の自由な気風が国民の背中を押してくれた格好である。
しかし、日本は太平洋戦争で焦土と化し、終戦後は物資不足とインフレ、食糧難に人々はあえいだ。
ホンダが産声を上げたのは、まさにそのような苦難からの復興が始まろうとする時代だった。
しかし二人のものづくりに対するあふれんばかりの情熱は誰にも負けない。
ホンダの挑戦の歴史の幕開けである。小さなオートバイメーカーとしてスタートした時から世界を目指し
四輪事業に参入するのとほぼ同時にF1™*1に参戦を果たし、画期的な低公害エンジンを開発していく。

*1:F1世界選手権(以下、F1)

機械いじりの好きな少年は起業を目指した

 本田宗一郎は1906年生まれ。家は鍛冶屋で、後に自転車販売を始める。少年のころ、精米機の焼玉エンジン*2などのさまざまな機械に興味を持っていた。やがて生まれ育った村(静岡県磐田郡光明村、後の浜松市天竜区)にやってきた自動車に魅せられる。尋常高等小学校を卒業すると15歳で単身上京し、父親が購読していた自転車業界誌『輪業の世界』の広告で知った自動車修理工場、アート商会で働き出す。住み込みの見習いである。よく働き、何でも学ぶ、機械いじりの大好きな少年は、オーナーの榊原郁三氏がレーシングカー製作に挑むと、中古複葉機のエンジンをアメリカ製のシャシーに載せたスペシャルマシンづくりを手伝った。自らアイデアを出し、部品を器用につくり、榊原氏の信頼を勝ち得る。消防車修理の依頼を受けて盛岡へ単独で出張を命じられたことがあった。消防署員らは10代の小僧が来たと落胆したが、本田が消防車を黙々と分解し、修理を見事にやってのけると、失望の表情は喜びに変わった。技術の前に人は平等であることを学ぶ体験となった。
 やがてのれん分けを認められて21歳で独立、自動車修理業を営むアート商会浜松支店を開業し、経営者としてのスタートを切った。修理の腕が評判となるばかりか、発明の才もあったことから「浜松のエジソン」と称される。消防車に強力な放水ポンプを取り付けたり、バスの乗客数を増やす改装を施したりするほか、クルマの下にもぐり込まないで済むリフト式修理台も発明している。しかし、本田は人がつくったものを修理するだけでは飽き足りなくなり、1936年、製造業へ転身する道を選んだ。
 エンジン部品のピストンリングを生産する東海精機重工業(株)を立ち上げるが、開発は失敗に次ぐ失敗、あっというまに資金は枯渇し、窮地に追い込まれた。本田は知識がないと無力であることを痛感し、30歳にして浜松高等工業高校(後の静岡大学工学部)に夜間聴講生として通い始め、冶金の知識と技術を貪欲に吸収した。そして懸命の努力が実を結んでピストンリングの試作に成功し、最盛期には従業員2,000人を抱えるまで成長した。
 しかし、時代の波が本田を呑み込む。1941年に太平洋戦争が勃発すると、東海精機重工業の経営は国の管理下に置かれた。従業員は徴兵され、ついには終戦を迎える前に、空襲と大地震で工場も失ってしまった。

  • :加熱した焼玉と呼ばれる燃焼室に燃料を噴射する内燃機関。構造が簡易で安価なため
    日本では明治後半から普及、精米、製材、ポンプ、小型船舶など幅広く使われた
アート商会浜松支店

アート商会浜松支店

シャイな青年は商才に目覚めた

 一方、本田とタッグを組むことになる藤澤武夫は、東京小石川に1910年に生まれた。就職したのは23歳の時である。勤務先は日本橋の鉄鋼材販売店三ツ輪商会、鉄鋼材を工場に売り込むセールスマンだった。文学を愛し、思索を巡らせる性格で、人付き合いは苦手と見られていたが、商売をするうち隠れていた才能が開花し、売り上げ成績でトップになる。得意先には誠心誠意で接し、納品期日が遅れそうなときは言い訳をせず、正直に理由を述べてわびた。これがかえって藤澤への信頼を高めた。わびと同時に解決策を提案した。一方、値動きの激しい鉄鋼材を扱うには、投機的な才覚も必要だった。競争の激しいこの仕事での9年に及ぶ経験で、藤澤はそれを身に付けた。
 オーナーに召集令状が来た時には、店の切り盛りを任されるまでになる。しかしこの時、藤澤は、仲介ビジネスに満足することなく、メーカーを目指した。1939年、店の番頭を続けながら、切削工具を製作する日本機工研究所を立ち上げる。メーカーを起業した経験は、戦後生かされることになる。
 戦時中、本田と藤澤は互いに面識こそなかったが、それぞれ同じ航空機メーカーに製品を納入する立場にあった。当時のこのような二人の関係には、後の運命的な出会いの伏線が張られていた。

終戦、それぞれの再出発

 1945年8月15日、終戦を迎えると、本田は会社を手放し、「人間休業」を宣言した。周囲からは働きもしないでぶらぶらしている生活に思われたが、実際には、これからの時代の変化を見極めるため、必死に模索を続けていた。製塩機・ロータリー織機の開発・試作をするなど、数々の逸話が伝わっている。夜になると友人を集めて、手に入れたアルコールで酒盛り。炒った麦と杉の葉を入れてウイスキーっぽくするのは、さち夫人の役目だった。
 本田が人間休業期間を終えたのは、ほぼ1年たった1946年のこと、エンジン動力の乗り物のビジネスを思いつく。旧陸軍無線機の発電用エンジンを自転車に補助動力として取り付けるというアイデアだ。当時の日本では自転車が大衆の足であり、山のような荷物を運ぶ手段でもあった。自転車に補助動力を取り付けたら、きっと喜ばれるだろう。
 しかし、集めた500基ほどのエンジンを、単に駆動系部品を付けるだけで市販するような安易な方法は採らなかった。1基1基完全に分解し、手を加えては組み直して自転車に取り付け、試走してから売った。当時はエンジンと他の部品を自転車店に出荷すると、店がそれを既存の自転車に取り付け、販売した。補助動力付き自転車は大衆に手の届く価格だったことから受け入れられ、大人気となった。補助動力で町を走る自転車は、その排気音から「バタバタ」と呼ばれた。
 ものづくりを目指して、一度は部品メーカーの経営に成功するも、すべてを手放し、そこから再出発することにより、自らが得意とする技術の分野で人の役に立つ、世の中のためになる、というホンダの原点といえる想いの芽生えとなった。1946年9月1日、焼け野原に本田技術研究所が誕生した。
 1947年になると、河島喜好(後の二代目社長)も浜松高等工業学校を卒業して入社。ホンダは、いよいよオリジナルのエンジン開発に挑む。1947年の第一号製品のA型には、さまざまなアイデアが盛り込まれているが、特筆すべきは、この時点で量産化に向けた挑戦が始まっていたことである。本田は「うちはダイキャストでやる」と言い張った。当時の規模からすれば、安価で簡易な砂型鋳造が妥当であったと思われるが、のちのちの量産化を視野に入れて、あえて金型鋳造のダイキャストを選んだのである。製法としても、削粉を出さず工程もシンプル、材料も少なくて済み、出来上がりが美しいという生産合理性に基づいていた。とはいえ、金型一つでも50万円はかかる。現在の貨幣価値に換算すると、およそ1,000万円相当だ。
 資金の乏しい中、道具を駆使して金型づくりから着手した。金型は初期型では一部にとどまったが、その後、シリンダー・シリンダーヘッド・クランクケース・コンロッド・ロータリーバルブのシートと、金型づくりをコツコツ進め、後期型では大部分がダイキャスト部品となった。翌年には工場をベルトコンベア化させた。
 A型はたちまち人気を博し、全国からブローカーが買い付けにやって来るまでになる。このころ、ホンダの成功に刺激されて、浜松だけでも大小40あまりの「ポンポン」(浜松での補助エンジン付き自転車の呼び名)メーカーが出現した。
 一方、終戦当時の藤澤は、辛うじて空襲の被害を免れた工場を福島に疎開させる決意をしたものの、機械を福島に運んだその日に戦争は終わった。焼け野原を前にして、藤澤はこれからの日本では住宅の建設が盛んになると考えた。それなら先手を打とうと、山林を買い、福島で建築用の製材業を始めることにしたものの、その需要も社会が落ち着けば一過性に終わると気付いて、さらに次の一手を模索し始めていた。

A型(自転車用補助エンジン)走行会(1947年)

A型(自転車用補助エンジン)走行会(1947年)

本田技研工業株式会社創業
オートバイメーカーとしての本格的な船出

1948年本田技研工業設立(写真は1952年の山下工場) 1948年本田技研工業設立(写真は1952年の山下工場)

 ここでホンダの草創期を整理すると、人間休業期間を脱した本田が、無線機発電用エンジンとの出会いとほぼ同時期に設立したのが本田技術研究所だった。「昭和21年晩夏、ススキのなびく浜松市山下町30番地の焼野原に、ささやかなバラックが建てられた。中にベルト掛けの古旋盤、外に工作機が約10台ばかり並び、入り口に本田技術研究所の看板が出され、社長以下12、3名の従業員が忙しく働いていた」本田技研創立7周年に刊行された社史冒頭の一節である。10月に自転車用補助エンジンを発売、すぐにオリジナルのエンジン開発に着手し、翌年にはA型を生産開始。将来の量産を視野に入れたダイキャストや当時としては先進的なベルトコンベアを採用するなど、意欲的な試みにあふれていた。
 A型の成功で勢いづいた本田は、1948年9月24日、資本金100万円で浜松市板屋町に本田技研工業(株)を設立した。そしてついに、1949年8月、フレームからすべて自社製の本格的なオートバイ、ドリームD型が登場する。あまたある自転車用補助エンジンメーカーから一歩抜け出し、オートバイの生産を実現した。「ドリーム」と名付けられた美しいマルーンカラーの車体は、街中でも、ひときわ目を引いた。
 エンジンはダイキャストで生産し、フレームは鋼板をプレスしたチャンネルフレームを採用した。自社製の動力式組み立てラインを開発した。大量生産による効率と、安定した高品質を同時に目指したのである。
 ドリームD型が発売されたちょうどそのころから本田が「世界一」を口にするようになったと、河島は後に語っている。

ドリームD型(1949年)

ドリームD型(1949年)

ドリームD型 走行動画

「こっちの持っていないものを、あっちが持っていた」本田と藤澤の出会い

 本田と藤澤、生い立ちも性格も異なる二人が初めて対面したのは、創業の翌年の1949年8月のことだった。藤澤は、共通の知人である竹島弘(元・中島飛行機(株)、後の常務)を介して本田に会った。本田は42歳、藤澤は38歳。自らの技術とアイデアで、人の役に立ち、世の中のためになるものづくりを目指す本田。それこそが新しい時代を切り開くと信じ、事業を大きく育てようと考えた藤澤。たちまち意気投合すると、藤澤は自分の会社を畳んで、本田と手を組むことに決めた。運命を大きく変える決断の理由を、二人は異口同音にこう語る。「こっちの持っていないものを、あっちが持っていたからだ」
 二人は、自らの可能性をすべて賭け、大きな夢を実現したいという想いで、強く結び付いた。この志が、75年にわたるホンダの歴史の始まりだった。創業して間もないホンダに託した二人の夢は、世界一のオートバイメーカーとなることだったが、身の程知らずともいえるこの夢がさらにもっと大きく膨らんでいくことになるとは、本人たちでさえ想像していなかっただろう。
 しかし、そのころのホンダの経営は、苦境にあえぐ状態だった。ドリームD型の成功は長く続かなかった。変速ペダルを踏みっぱなしにしなければならない半自動のクラッチシステム、アメリカの金融引き締め策に起因する不況、ライバルメーカーとの競争など、さまざまな理由で、販売台数は失速して、ホンダは早々とピンチに直面してしまった。
 藤澤は常務として入社すると、逆風をものともせず、精力的に動き始めた。1950年、台湾向けにA型を輸出して当面の資金を稼いだ。さらに世界への第一歩として、同年に東京営業所・東京工場を開設したのである。

最大の課題は代理店・販売網の開拓

河島喜好とドリームE型 河島喜好とドリームE型

 1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、在日アメリカ軍からの物資やサービス需要が高まり、国内景気が上向き始める。好景気のさなか1951年10月に発売されたのが、146ccのエンジンを載せたドリームE型だ。採用された4ストロークOHVエンジンは高い工作精度が要求され、コストもアップする。しかし2ストロークに比べ、排煙や騒音の大幅な低減という優れた商品性を実現できる。発売前に行われた「箱根越えテスト」では、河島の乗ったE型が当時の日本製オートバイには難所であった箱根峠の上り坂をトップギアのまま一気に駆け上がった。
 当時、オートバイ販売店が全国で約300店ある中で、ホンダを扱う代理店はわずか20店ほどであった。むろんホンダ専門店ではなく委託販売で、支払いは先方の都合任せという状態だった。本田は藤澤と意気投合した際、販売を中心に財務や組織など、技術に関すること以外は藤澤に全面委任していた。藤澤は当時のホンダに欠けていた販売体制や営業体制の強化と銀行取引関係を一手に引き受けた。効率の悪い代金回収状況を改善するだけでは足りない、最大の課題は代理店・販売網の開拓にあると藤澤は考えた。まず行ったのは、営業担当者を全国各地に送り込む人海戦術だった。営業担当者は、担当地域のオートバイ販売店や自転車店を回り、ホンダ二輪車の委託販売を引き受けてもらう。その代金を先払いしてもらうと商品を供給する。先払いの代金を元手にさらなる新規開拓の旅を続行するという、借金を新たな借金で返済する状態だった。
 こうした営業担当者の地道な努力もあり、D型の月産が最高160台程度だったのに対して、E型は半年後に500台を記録し、3段変速になった1年後には2,000台を記録。3年後には年間販売3万2,000台と売り上げが急上昇した。

ホンダは、松明は自分の手でかかげていく

 そのころ、東京工場ではカブ号F型の開発を進めていた。自転車用補助エンジンの最新作だが、白い燃料タンク・真っ赤なエンジンはデザイン的にも斬新で、自転車に取り付けたスマートな姿は誰にでも親しめる雰囲気を持っていた。藤澤はカブ号F型を皮切りに、ホンダの販売網を一気に飛躍させることになる。

カブ号F型(1952年)

カブ号F型(1952年)

カブ号F型 走行動画

カブ号F型キャンペーン カブ号F型キャンペーン 藤澤武夫のカブ号F型 ダイレクトメール作戦で、自転車販売店を主とした独自の販売網が確立された 藤澤武夫のカブ号F型 ダイレクトメール作戦で、自転車販売店を主とした独自の販売網が確立された

 営業担当者を大量投入する代理店・販売網の開拓は、どうしても時間と金がかかる。やっと中小企業になったばかりのホンダにはそれだけの営業コストを捻出する資金力はない。金をかけず、もっと効率的にカブ号を売り込む方法はないか思案した結果、藤澤は日本中の自転車店に一括でアプローチする方法を考えた。当時5万軒を超えた自転車店にダイレクトメールを送るのである。その文面が秀逸だった。「あなた方のご先祖は、日露戦争の後、勇気をもって輸入自転車を売る決心をされた。(中略)ところが今、お客さまはエンジンの付いたものを求めている。そのエンジンをホンダがつくりました。興味がおありなら、ご返事ください」といった具合である。すると3万軒以上から返事が舞い込んだ。すかさず3万軒に「1軒1台ずつ申し込み順にお送りします。小売価格は2万5,000円ですが、卸価格を1万9,000円にします。代金は郵便為替でも、三菱銀行*3京橋支店へ振り込んでいただいても結構です」と返信する。町の自転車店にしてみれば、見知らぬ会社に先払いで代金を送るのは躊躇するところである。藤澤は用意周到に三菱銀行に掛け合って、京橋支店長名義で「当行の取引先ホンダへのご送金は三菱銀行京橋支店にお振り込みください」と、ホンダの信用を裏打ちする手紙を銀行からも送ってもらったのだ。
 反響は大きかった。すぐに約5,000軒から送金があり、最終的には1万5,000軒に到達した。藤澤はさしたる投資もせずに短期間で「自前の全国販売網」をつくり上げてしまったのだ。同時に、二輪車業界には例のないダイナミックなPR作戦をスタートさせた。当時、人気絶頂だった日劇のダンサー50人が乗ったカブ号F型が東京・銀座を華々しくパレードした。その光景は全国に報道され、女性も乗れるカブ号F型の名は日本中に一気に広まった。このころ、藤澤は約束手形で確実に代金を回収する月賦販売の仕組みも実現させている。
 藤澤は後年、「ホンダは、松明は自分の手でかかげていく企業である」と語っている。自分たちで市場を読み、生産計画を立て、それに基づいて資材を調達し、協力メーカーに発注する。すべての情報が自分たちの掌中にあり、決断するのは自分たち自身である。誰かに追従したり、世の中に便乗するのではなく、自分たちが良しとするやり方でゼロから切り拓いていく。この姿勢こそ、後のホンダの成長を下支えし、リードしてきた経営理念の根幹をなすものであり、自前の販売網構築は、まさにその第一歩であった。

  • :後の(株)三菱UFJ銀行

輸入工作機械へ高額投資。世界一こそ日本一

 松明を自分の手でかかげていくホンダにとって、解決しなくてはならない壁があった。さまざまな部品の内製化と高品質の確保である。
 当時のホンダの内製部品の構成比率は2割に満たなかった。戦前の精度の劣る工作機械でつくられた部品を買って組み立てていては、世界一を目指すと豪語してもなれるわけがない。本田と藤澤は、ホンダを最新鋭の生産設備を持つメーカーへ飛躍させる決意をした。
 ドリームE型・カブ号F型の好調な売れ行きを背景に、ホンダは大規模な増資に踏み切り、1952年10月、総額4億5,000万円に及ぶ輸入工作機械購入計画を決定する。ちなみに増資後の資本金は600万円であった。さらに同時期に埼玉県足立郡大和町白子(後の和光市白子)と静岡県浜松市葵町・住吉町の計3カ所にエンジン生産と車体製作を一貫して行う生産工場を建設。投資額は機械と合わせて10億円に上った。当時の産業界において、まったく類を見ない規模とスピーディーな展開だった。本田はアメリカへ、河島はヨーロッパへ、海を渡って視察と設備調達の旅に出た。
 導入した工作機械は、部品の精度も、ホンダ製品の競争力も世界水準に押し上げるための一翼を担い、新機種開発でも威力を発揮していくことになる。

アメリカから買い付けた工作機械と本田宗一郎(右)

アメリカから買い付けた工作機械と本田宗一郎(右)