航続距離、充電時間、価格、静粛性──EV開発における全ての要素を同時に極限まで高める。そしてクルマ本来の魅力である車両ダイナミクス性能は大幅に進化させるという前代未聞のプロジェクト。
社長賞を受賞した次世代BEVチームの挑戦は、そんな“絶望的な目標”から始まった。
その成功の裏には、領域を超えて響き合った少数精鋭のチームと、Honda独自の組織文化があった。
“絶望”を突破せよ──不可能だった前提と戦ったチームの決断
プロジェクトの立ち上げ時に与えられた目標は、あまりに現実離れしていた。航続距離の延長、充電時間の短縮、求めやすい価格の実現。そして静粛性や操縦安定性を犠牲にせず、既存モデルより上のセグメントを超える性能を出すこと。さらに車体重量も大幅に削減──従来のセオリーを全て否定する条件だった。
「全員が“冗談でしょ”と思った」。後にメンバーはそう語る。
静粛性(NV性能)の目標値は、最高峰のラグジュアリーカーを連想させるほど高かった。従来のセオリーでは、重量をかけて静かにするのが常道。だがこのプロジェクトでは、軽量化と静粛性を同時に成立させなければならない。
ダイナミクス性能では、Bカテゴリーのコスト内で、CカテゴリーSUVをも上回るレベルが求められた。従来のクルマに対する常識をすべて覆す、そんな課題に、初期段階から“絶望”という言葉がチーム内でささやかれた。
しかしこの目標設定は、Hondaらしい発想でもあった。絶望的な課題に対して「できない」と言わず、「どうやったらできるか」を全員で考え続ける文化が、本田技術研究所には根付いている。
このチャレンジを実現したポイントは、チームの編成にもあった。それぞれの専門領域を代表して選ばれた精鋭のエンジニアが集まり、室課をまたがずに一つのチームとして集結。Hondaの研究所の根幹をなす、フラットな“文鎮型組織”を体現し、担当領域を超えて一台のクルマを仕上げる。
一人が複数の役割を担い、隣の専門領域に踏み込むことが日常になった。設計担当者と動的性能担当者が解析や実車テストの結果を一緒に分析し、評価や具体的な構造の考案を行う。境界を越えた協力が、新しい発想を連鎖的に生み出していった。
メンバーは口を揃える。「このチームには“テイカー”はいなかった。全員が“ギバー”だった。」
互いに与え合う文化は、Hondaの研究開発に長く根付くDNAでもある。失敗を恐れず提案できる空気、個人の判断で動ける裁量、そして何より「自分のためではなく、クルマのために」という価値観が、組織プロジェクトで力を発揮した。
領域の壁をぶち破れ──踏み込み合うことで生まれた進化
こうして編成された次世代BEV研究チームでは、領域を越えた協力が自然と生み出された。サスペンション設計では、従来後付けになりがちだったNV性能を設計段階で最優先に据え、車体側の要求を起点に固有値を決める新しい指針が生まれた。
NV担当は「溜め込んでいた“やりたかったこと”を全部吐き出した」と語り、評価と設計のやり取りが「進化のループ」を作り出した。従来の開発ではできなかったようなサスペンションの動かし方のイメージを共有し合いながら進んだ議論は、これまでにはない広がりを持った。
こうして開発が進められると、メンバーはお互いに「負けていられない」という気持ちを強くしたという。仮説が失敗に終わっても、落ち込む暇もなく新たな説を立て、それもダメなら即座に次の施策に切り替える。わずか半年で一台を作り替えるほどのスピード感で、愚直に改善を繰り返した。各領域が垣根を超え、お互いの部品を設計し合いながらフィードバックを交わすという、従来のセクション分けに縛られない進め方も定着した。
誰か一人の領域で「達成」を宣言することはなかった。全員が「車一台として仕上がるまでは安心できない」と感じながら、最後の最後まで全体を見据えた。チーム全体で、領域を横断する議論を意識的に行い、「個々の最適解ではなく、全体の最適解を」という姿勢で、軽量化とNV性能、動的性能のバランスを実現した。
その中で、ボディー設計は、従来の骨格強化に収まらず、ドアも含めたクルマ全体を構造体として考えることで進化。サスペンションにも革新的なシステムを生み出すことに成功した。NV担当は、従来では使われていなかったシミュレーションツールを導入し、微細な現象を可視化することで新しいアプローチを確立した。
「いいね」が火をつけた──絶望を確信に変えた瞬間
特に印象的だったのは「いいね」と評価し合う空気だ。設計者が持ち込んだ新しい仮説に、性能評価者が本当に良いときだけ「いいね」と返す。その一言は単なる賛同ではなく、次の挑戦を呼び起こす合図だった。「性能評価者から『いい』と言われた瞬間、全身にスイッチが入る」とメンバーは言う。互いの領域を尊重しながら踏み込み、挑戦を肯定するこの文化は、チーム全体に連鎖的な熱を生み出した。
高い目標に「これは冗談でしょ」と一瞬だけ愚痴をこぼした直後、「じゃあどうやるか」に切り替わる。絶望の時期は確かにあったが、チームはギスギスすることなく「クルマのために」という価値観で結ばれていた。この空気こそが、常識を超える成果を現実に変えた。
目標達成への自信が深まったのは、評価に向けた準備が終わり、完成車を全員で試乗したとき、「いいものができた」と確信に変わる。その過程で、最初に試作したクルマと完成車の違いを肌で感じ、変化の手応えを全員で共有した。
評価会を終えてからも乗り込みを続けていると、「タイヤサイズを変えてスポーティーに走らせてみよう」という声が上がった。クルマの出来の良さから、「このままスポーツカーとしても出せるのでは」と感じられるほど、クルマのポテンシャルは際立っていた。
後に、Hondaの経営陣向けの研究報告の場で、派手なエアロを付けたクルマを仕立てて披露し、高評価を得たスポーティーモデルの誕生。これは、「自分たちは本当にすごいクルマを作っている」という確信に変わる体験でもあった。
止まらない進化──先に見据える“さらに上”の未来
社長賞の受賞が告げられると、チームに広がったのは驚きと実感の薄い静かな空気だった。「最初は飲み込めなかった」とメンバーは振り返る。
多くは“世界初”クラスの成果にしか与えられない、「遠い世界の出来事のように感じていた」賞。その受賞によって、プロジェクトの重さ、自分たちが挑んでいた課題の大きさが改めて胸に迫ってきた。
その驚きと実感は、同時に大きな誇りへと変わっていった。Hondaの中でも特別なこの賞に、自分たちの挑戦が選ばれた──それは、チーム全員にとって「やってきたことは間違っていなかった」という確かな証明になった。
研究段階に区切りがつき、量産に向けて動き出した次世代BEV。ここまで挑戦を重ねて達成した今、この先にまだ伸びしろはあるのか、という問いに全員が即答した。
「伸びしろしかない。」
その一言に、このチームの現在地と未来への覚悟が凝縮されていた。
「もう全員、次の課題に向かって動いている。これが量産される頃には、すでに私たちにとっては既存技術になっている」。挑戦を終えた瞬間から、次の“絶望的な目標”に向けた準備は始まっている。ライバルメーカーとの競争の中で進化を止めれば、一瞬で置いていかれる。「日々進化し続けるしかない」という言葉には、その覚悟がにじむ。
社長賞という大きな評価を得ても、その目は未来を見据えたままだった。今回の成果はゴールではなく、さらなる進化のスタートラインに過ぎない。
