POWERED by HONDA

RA002E

2002Honda BAR004
2002Jordan Honda EJ12

異例の94度V10を採用も
高回転域での振動トラブルに悩む

Hondaは第1期F1活動では参戦2年目の1965年のメキシコGPで初優勝を成し遂げた。第2期F1活動時の初優勝もまた参戦2年目の1984年のアメリカGPだった。しかし、2000年からの第3期F1活動では、参戦2年目を経ても勝利には至らず、3年目の2002年にHondaは飛躍を期して組織の再編を行なった。まず、ヨーロッパの前線基地となっていたホンダ・レーシング・ディベロップメント(HRD)でテクニカルディレクターを務めていた西澤一敏を本田技術研究所の栃木研究所に戻し、エンジン/パワートレイン開発責任者に任命。新たにBARと共同で進めるシャシー開発の責任者として橋本健が就いた。この車体とエンジンの開発を統括するのが、前年レース技術開発責任者を務めていた本田技術研究所の小川徹エグゼクティブ・チーフエンジニアだった。この組織再編は過去2シーズンの経験と反省を元にして行われた。2シーズンを戦い、F1で成功するためにはエンジン馬力だけでなく、より重要なのは車体とのマッチングだと強く認識したのである。

2002年に投入したRA002Eは骨格から新たに開発された。RA001Eでは80度だったVバンク角を94度に広げた。これは低重心化とともに、エアボックストレイ内部の吸気干渉低減による出力向上を狙った仕様だ。全長は588㎜から600㎜に伸ばされ、そのぶん重量は3kg増えて111kgとなった。同時にボア×ストロークは97×40.52㎜とビッグボア化。最高回転数は1万8000rpmと、さらなる高回転高出力化が図られた。バルブリフト量を確保するため、バルブトレインは直打式からロッカーアーム式へと改められている。スカベンジングポンプやウォーターポンプまわりはシリンダーブロックおよびロワケースと一体化して剛性を向上。またシーズン後半からは、ボアまわりの高剛性&フリクションロスを狙い、シリンダー表面にニジカルめっき処理が行われたクローズドデッキブロックが採用された。

小川は「エンジンのコンセプトはキープしつつ、Vバンク角を広くしたのは、あくまで車体の設計のことを考えてのこと」とコメントし、車体貢献を重視したことを明かしている。RA002Eでは、いかに重心を低くすることにこだわり、これまでの重心高191.3㎜から14.3㎜の低重心化を達成し、RA002Eは重心高177㎜となった。

2000年代に入って、F1エンジンの開発トレンドは全体の重心高を下げるため、Vバンク角を広げていく傾向が続いていた。主流は90度で、なかには111度という超広角エンジンも投入されている。RA002Eもその流れに添い前述のとおり94度という思い切ったVバンク角を採用したが、高回転領域で振動問題を抱え、シーズン序盤から前半にかけて信頼性に起因するトラブルが多発。車体にも問題を抱えたオリビエ・パニスは開幕から7戦連続でリタイアし、チームメイトのジャック・ビルヌーブもシーズン中盤まで無得点が続いた。

このシーズンのBAR・Hondaの初ポイントは第10戦イギリスGP。雨がらみとなったレースでビルヌーブが4位、パニスも5位に続き、シーズン初ポイントがダブル入賞となった。ビルヌーブは12戦ぶり、パニスに至っては2001年の第6戦オーストリアGP以来、実に21戦ぶりのポイント獲得で、長く続いた低迷を脱したかに思われた。

次戦、第11戦フランスGPにHondaはスペック2.5となる改良エンジンをBARとジョーダンの4台に投入した。しかし、ジャンカルロ・フィジケラは予選前にクラッシュし、レースではパニスと佐藤琢磨が接触。残ったビルヌーブのエンジンはブローしてしまい、Hondaエンジン搭載車は全滅となってしまった。その後、Hondaは第13戦ハンガリーGPで2003年からエンジンの供給をBARだけに絞った1チーム体制に変更することを発表。その2戦後の第15戦イタリアGPでは予選でポールポジションを獲得したウィリアムズ・BMWのファン・パブロ・モントーヤが、1985年にウイリアムズ・Hondaが記録した予選での最高速度を17年ぶりに更新した。この時、BMWのエンジンは最高回転1万9050rpmを記録していた。HondaのF1エンジン開発はこの後、原点に戻ることとなる。それは、さらなる高回転高出力化を目指すことだった。

BAR004

EJ12