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藤澤武夫がアメリカで見てきた山を登るカブ

当時のHonda社内報より
1958年に初代スーパーカブC100が発売されると、簡単な操作で扱いやすく、信頼性と燃費の良さなどでたちまちヒット商品になります。1960年には、スーパーカブ専用の工場として鈴鹿製作所が稼働しました。
1961年5月には、スーパーカブの生産累計が100万台を突破し普及がさらに加速します。
同年8月には、第二種原動機付自転車として55ccのスーパーカブC105が発売されるなど、バリエーションも豊富になってきました。そんななか9月に発行されたホンダ社報の中で、専務・藤澤武夫のアメリカ出張みやげ話が掲載されています。
その抜粋を紹介すると、
「ユーザーが撮ったという8ミリのフィルムを見るかというから見せてもらったんだ。このフィルムは最初は飛行機から山を撮ってあるんだ。この山が1千メートル以上の山だということなんだ。それが終わると4人のお父っつぁん連中が映る。みんなカブを持っているんだ。それが、自分の住宅の近所で荷物を積んだり、思い思いに家族と笑ったりしている。───そうしてその4台の車をトラックに乗っけて、一番最初に映した山の麓まで来るわけだな。そこで4台のカブを下すと、ガソリンだのモービルだの積んでるカブもあるし、食料品を積んでるカブ、それから鉄砲を積んでるカブもある。天幕や毛布を積んでるものもある。これから標高千メートル以上もある山へ4台で行くわけだ。このコースは、自動車はここ以上は上がれない。ここの道まで。そこで4台のカブが動き始めるわけだが、山の上に砂地のようなところがあって、その砂のところを足でふんばりふんばり、のっかってるんだ。これはカブでなければだめなんだな。───それから断崖みたいなところを来る。そうしてキャンプして、明け方になると川で顔を洗っているのもいるし釣り竿で魚を釣っているお父っつぁんもいるし、猟をしてきて、鳥を焼いているところで、めしを食っているお父っつぁんもいるということで、最後は4泊の旅行を終えて、みんなで肩組んで獲物の魚や鳥をいっぱいつけたりしたお父っつぁんたちがご機嫌でご帰館なさるところなんだな。ここで考えられるのは、アメリカ人たちが同じカブを持っていても、ちょっとした時間じゃなくて、長い計画のもとに、長い遊びを考えているということもあるわけだな。
あれなんか見ていると、アメリカの新しいレジャーブームを起こすんじゃないかな。それの一つの役割がうちのオートバイなんじゃないかという気がするわ。日本でひょっとやりだしたらあっということで、それが大流行になって、カブに毛布を積んだり、びくを積んだり、鉄砲を積んだりした連中が、銀座通りをぞろぞろと歩くようになると思うね。」
この藤澤さんの話が、日本でレジャー仕様のスーパーカブを製作することにつながったとみるのが妥当と考えられます。
その後10月の広告に、「カブで大漁!」のコピーで釣り仕様の55ccモデルの予告と思われる広告が掲出されました。広告には、第8回全日本自動車ショーの会期の紹介があり、このショーでのお披露目を予告するものでした。

1961年10月27日〜11月7日の期間、東京の晴海で開催された、第8回全日本自動車ショーでは、スーパーカブC100型として、「ハンター・カブ」「レジャー・カブ」「新聞配達用カブ」の3台が出展されました。当時の模様を紹介している1961年12月号の「オートバイ誌」では、このように紹介しています。
1961年にハンターカブ(55cc)が発売され、翌1962年1月の広告では、「ハンターカブ」の名称が使われています。この頃からハンターカブの名称が広く使われるようになったと考えられます。
