Honda F1のはじまり
Hondaが自社開発したシャシーとエンジンでF1世界選手権に参戦するのは1964年のことである。Hondaが初の四輪車である軽トラックのT360を発売したのは、創立15周年を迎えた1963年。
四輪メーカーとしてスタートしたばかりのHondaは、1964年8月2日に決勝レースが行われた第6戦ドイツGPにRA271を送り込み、F1初出場を果たした。エンジンは1.5L V型12気筒自然吸気のRA271Eである。
RA270:Formula 1 試作車(プロトタイプ)総組立図
2024年に迎えるF1参戦60周年にふさわしい図面が原図室に当時のままの状態で保管されている。1963年に製作されたエンジンテスト用シャシー、RA270の構成部品を示した2分の1スケールの総組立図だ。当時開発中のエンジンはイギリスのロータスに供給する予定で開発が進められていた。ベンチテストだけでは実際にシャシーに搭載した際の状態がわからないため、実走テスト用にシャシーを作ることにした。それがRA270である。直列4気筒やV型6気筒、あるいはV型8気筒エンジンを縦置きに搭載するのが主流だった時代に、長いV型12気筒エンジンを横置きに搭載するため、シャシーには特別な設計が求められた。
1964年の1月にロータスから契約取り消しの通知を受け取ったため、Hondaは急遽、自社でシャシーを開発する必要に迫られた。それがRA271である。RA270は図らずも、RA271を設計する際の習作になった。
RA302E:独創的な自然吸気の空冷エンジン
RA270の総組立図と同様に保管されていたのが、RA302Eの1分の1エンジンアッシー3連図である。紙の規格から、図面はどれも高さ91cmと決まっている。一方で、幅に決まりはなく図面を描く技術者の裁量で決まる。Hondaでは伝統的に、車体系は長尺図面、エンジン系は複数枚図面とするケースが多い。原図室では10mにおよぶ長尺図面も確認している。1968年のRA302Eの図面を見ると、この頃すでにエンジンは複数枚図面とするスタイルが確立していたことがわかる。
1968年、Hondaは7月の第7戦フランスGPで空冷エンジンのRA302Eを投入した。同じ年に投入した水冷のRA301Eが90度のバンク角を持つ3.0L V12気筒だったのに対し、空冷のRA302Eはバンク角120度のV型8気筒だった。軽量化を追求し、重心を下げるためである。水冷エンジンは冷却水の水を空気で冷やすのだから、初めから空気で冷やす空冷エンジンの方がいいはずという考えのもと、F1エンジンを空冷で設計し、同様の考えで開発した空冷エンジンを小型乗用車の1300に載せて1969年に発売した。Hondaでは当時からレースと量産車の技術が結びついていた。
保管されていた原図は、5速のギヤ段を持つトランスミッションを含んだ縦断面図(LONGITUDINAL SEC)、横断面図(TRANSVERSE SECTION)、そしてタイミングギヤトレーン図(GEAR TRAIN)である。
図面には3. Sep. 68(1968年9月3日)の日付が記されており、設計と製図を行った技術者のサインとともに、「川本」の承認サインがある。川本とは当時、主に水冷エンジンの設計に携わっていた、のちに第4代社長(1990年〜98年)に就任する川本信彦のことだ。RA302Eのオリジナルの設計はのちに第3代社長に就任する久米是志(1983年〜90年)が行っている。図面の日付は、川本が後を引き継いで改良を加えた図面であることを示している。その改良版が実戦に投入されることはなかった。
円を書いた際のコンパスの穴の痕が残る原図が示すのは、1968年当時の技術者の息づかいである。鉛筆の芯の太さやトレーシングペーパーにあたる角度を変えることで、線の太さや濃淡を書き分けている。原図はきれいな状態だが、横断面図のコピーをとってみると燃焼室や吸排気ポートまわりが黒ずんだ状態で印刷された。技術者たちが指でなぞって吸気や排気の流れを検討した痕だろうか。それとも、何度も修正を加えた痕だろうか。当時の苦心を現代に伝えている。
現代のエンジン設計者は、シミュレーションのない時代によくもこれだけ偏平で容積の小さな燃焼室が設計できたものだと感心した。縦断面図にはバルブタイミングやコンロッドの材質に分割構造の種類、表面処理にメインベアリングの面圧上限など、エンジンの仕様が50項目以上に渡って記されており、組立図と仕様書が混ざった状態。片側4気筒のコンロッドやピストンは製図した技術者の裁量により時系列の異なる瞬間を切り取って張り付けたように記してあり、CADでは表示不可能。エンジン各部の構造をわかりやすく表現した透視イラスト的な性格を合わせ持っている。
鉛筆と紙からマウスとディスプレイにツールが変わろうと、図面(図面データ)を作成することが、技術者の思いを投影する行為であることに変わりはない。その本質が、1960年代のF1のシャシーやエンジンを書いた手書きの原図に見てとれる。
原図室
原図室では手書き図面やマイクロフィルムなどの設計図面を保管している。
和光(埼玉県和光市)の研究開発施設で保管されていた原図は1986年頃にすべて、当時栃木(栃木県芳賀郡)の研究開発施設にあった原図室に移管された。2011年の東日本大震災を機に、さくら(栃木県さくら市)の研究開発施設内に免震構造を施した建物内に移設した。
1990年代以降、図面は徐々にCAD等のデジタルツール活用が進められたが、それ以前は手書きだった。当時は原図ができあがるとマイクロフィルムに複製し保存され、原図はコピーして製作所などに渡し生産していた。
現在も、手書き図面やマイクロフィルムをデジタルデータ化する作業を行なっている。原図室には「大事なもの」として受け取った筒がいくつか残っている。本稿で取り上げた原図もそのひとつで、60年の時を経て現代に蘇った格好だ。