POINTこの記事でわかること
- Honda独自の“ワイガヤ文化”に着想を得て開発された「マルチエージェント型 AI システム」の研究論文が、AI分野の世界的な会議で採択された
- 自動車開発における技術の高度化と複雑化が進む今、すべての工程において生成AI活用の重要度が増している
- Hondaでは、生成AI活用を進めるスキルを持った人材を発掘し、活躍してもらうための制度を制定。さらなる生成AIの業務活用を目指している
2025年4月、Honda独自の“ワイガヤ文化”から着想し、大規模言語モデル(以下、LLM※)を用いて開発された「マルチエージェント型 AI システム」の研究論文が、AI分野の国際会議「ICLR 2025 Workshop Agentic AI 」 で採択されました。生成AI技術が飛躍的なスピードで進展し、自動車業界における活用の可能性も広がる中、世界的会議で評価された研究はどのように行われたのか。本論文を主筆した4人に、開発の経緯や研究を後押ししたHondaならではの文化と制度について聞きました。
※LLM:「Large Language Models」の略で、大量のテキストデータを学習し、自然言語の理解と生成を行う、生成 AI の基礎技術モデルのこと
「マルチエージェント型AIシステム」とは
- マルチエージェント型AIシステムとは、それぞれ違った役割や知識をもつ複数のAI(エージェント)が協力しながら、タスクを遂行する仕組みです。まるで、専門家たちが集まって話し合うチームのように、AI同士が「対話」や「議論」をしながら物事を進めていきます。1つのAIだけでは対応しきれない領域でも、役割を分担してチームワークで問題にアプローチできるのが最大の強みです。
本田技研工業株式会社
デジタル統括部先進AI戦略企画課
チーフエンジニア
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伊藤修
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本田技研工業株式会社
デジタル統括部先進AI戦略企画課
スタッフエンジニア
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山本篤
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本田技研工業株式会社
デジタル統括部先進AI戦略企画課
アシスタントチーフエンジニア
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片桐章彦
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本田技研工業株式会社
デジタル統括部先進AI戦略企画課
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小池湧大
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自動車開発における、生成AI活用の今
AIエージェント元年とも言われる2025年、自動車業界では生成AIの活用が本格化しています。Hondaでも生成AIの導入は業務改革の柱の一つとされ、開発現場に限らず、ChatGPTなどを用いた業務支援が日常の光景となりつつあります。
「生成AIの登場によって、社内オペレーションの効率化や創造性の支援が現実になってきました。自動車開発が高度化・複雑化する中で、生成AIは次世代の車づくりに欠かせない存在になると考えています」と語るのは、マルチエージェント型AIシステムの研究を発案・統括した本田技研工業株式会社 デジタル統括部先進AI戦略企画課 チーフエンジニアの伊藤修。
本研究を発案・統括したチーフエンジニアの伊藤
“議論するAI”の着想源、Hondaの「ワイガヤ」文化とは
ワイガヤとは?
- 自由闊達な議論を通じて、独創的な考え方や解決方法などを見つけ出すHonda独自の企業文化
ワイガヤとは社内に浸透する、参加者がフラットに意見交換をできる文化。片桐もその効果を実感しているといいます。
フラットな議論から生まれる、他者の意見や考え方を聞くことで、自分自身の中でも発見がありますし、異なる視点が得られます。性能・法規等の各種条件を達成した上で、お客様に受け入れられる新モデルを開発していくには、率直な意見をぶつけ合う必要があります。そうした過程において、ワイガヤは欠かせない手段の一つです。
本来、議論は話を広げ、新たな視点を生み出したり、本質を追求していく場のはずですが、企業などで行うと、発言力が肩書や関係性に影響されることもあって広がりません。ワイガヤは、そうした背景をすべて取り払って議論をすることで、すべての参加者の価値と議論の価値の最大化を目指した、Hondaの大切な文化です。Hondaでは、ワイガヤの場で自らの経験に根付いた率直な意見を話す風土が培われています。
この“自由闊達な議論”という文化が、マルチエージェント型AIシステムの発想にもつながっていきます。
マルチエージェント型 AI システムの研究は、生成AIを単にエージェントとして活用するだけでは、複雑な問題の解決は難しいと考えていた、伊藤の発案によってスタートしました。
エンジン、ボディー、NV(騒音・振動)等の各部門に蓄積されているデータは、それぞれに特色あるユニークなもので、いわば“部門の知恵”です。それらを独立した生成AIにインプットすることで、各部門の知恵をもつ専門家を複数の『AIエージェント』で置き換えることができるのではないかと開発を始めました。
本システムでは、各分野の専門性を持つ複数の AIエージェント同士が議論を経て課題解決を行います。AIエージェント間の議論スタイルとして「分散型」「中央集約型」「階層型」「共有プール型」の4 つを設定。論文ではHonda独自の議論スタイル“ワイガヤ”の理念を応用した「分散型」技術手法が高く評価されました。
システムの実装と効果検証を担当した片桐
「マルチエージェント型 AI システム」の研究においても、「分散型」ではまず多様な意見が交わされて広がり、その後自然に統合されていく傾向が確認されました。一方で、AIエージェント同士がワイガヤスタイルで効果的な議論を行うよう設定していくには、いくつもの苦労があったと山本は振り返ります。
分散型(ワイガヤ)の場合、一つの議題に対して各AIエージェントがそれぞれに多彩な情報を取り出してくるため、なかなか議論が収束しません。議論のためにどこまでのデータを見に行くかなどのセッティングの難しさがありました。また、通常の人間の会議と同様に、AIエージェント同士の議論でも、前提の違いが結論への道筋を大きく左右します。まさにそこに、技術としての奥深さが現れます。
Hondaの生成AI研究を支える、先進技術への想いと独自制度
2022年11月のChatGPTの発表をきっかけにHondaにおける生成AIの活用は本格化。2024年には本論文の研究メンバーが所属する、生成AIの活用推進を目的とした先進AI戦略企画課が設立されました。このスピード感ある対応からは、ものづくりの会社としてHonda内に根付く先進技術活用への強い想いがうかがえます。本研究の論文化にあたり具体的なプロセスを整備・推進した同課スタッフエンジニアの山本篤は、生成AI研究を始めた経緯を次のように振り返ります。
Hondaはもともと、先進技術に触れることへのモチベーションがかなり高い会社です。現場のエンジニアはもちろん、社長の三部も生成AI活用には早くから意欲を見せていました。私はChatGPTの登場時にはリチウムイオン電池の研究部署にいて、機械学習や統計学を用いたリチウムイオン電池の設計最適化の研究をしていました。常日頃、一人のユーザーとして生成AIの活用方法を模索していましたが、生成AIは従来の機械学習とは一線を画すものがあり、生成AIについて体系的に学び活かせる環境を求めていました。その後今の部署を立ち上げると聞き、この波に乗れるチャンスがあるならば挑戦するしかない!と異動を希望したのです。
システムの実装と効果検証等を担当した同課アシスタントチーフエンジニアの片桐章彦は、現場の壁を打破するプラスアルファの手段として生成AIに着目したことを明かします。
Hondaでは、あらゆる分野における開発技術と知見が数十年にわたり蓄積されています。しかし、エンジニアとして開発に従事する中、それらの“レガシー”をさらに一歩飛び越えた新たな技術を生み出すには、どこかにハードルがあると感じていました。そんな中、AIが意思を持ったように考えて応答するLLMという技術が発表された。この技術を自動車開発に組み合わせたら、エンジニアがその“一歩”を飛び越えて開発技術を創造できるのではないかと感じたのです。
新技術への熱い想いを抱える社員を後押ししたのが、Hondaが独自に制定する複数の制度です。Hondaには人員募集を行う部署に対して従業員自ら応募できる社内公募制度「チャレンジ公募」があり、今回の研究メンバーは全員チャレンジ公募によって集まりました。さらに生成AIの研究・開発人材を発掘し、そのスキルを社内で活かすための新制度「Gen-AIエキスパート制度」も制定されています。
本研究で片桐とともにシステムの実装と効果検証を担当した小池湧大は、Gen-AIエキスパート制度の制定に貢献した一人でもあります。小池はその経緯と意義を次のように語ります。
私自身はエンジン部門にいた頃からAI研究を進めており、AIプロジェクトに参加していました。その後ChatGPTの出現に伴って組まれた、生成AI活用のPoC(実証実験)を推進するタスクフォースに参加し、こうしたスキルを持つ人材の価値を社内に示すことができました。それが、『Gen-AIエキスパート制度』をつくるための最初のモデルケースとして認められたんです。
現在では、生成AIによって業務改善をしていける人材の価値が世の中的に高まっています。本認定制度は、そうしたスキルをもつ従業員をエキスパートとして認定し、手当を支給する形をとっています。エキスパートとして認定されると、各部門から届く生成AIの開発依頼(プロジェクト)に業務の一環として従事できます。それらのプロジェクトでスキルを発揮することで、通常の賃金とは別にスキルのレベルに応じた手当が支払われる仕組みとなっています。
開発したシステムの効果検証や社内環境への適応整備等を担当した小池
生成AIの活用で、新たな技術・開発手法の創造を目指す
「ICLR 2025 Workshop Agentic AI」での論文採択を経て、研究メンバーは今後どのような生成AI活用を考えているのでしょうか? 小池は次のように言及しました。
現在社内では、生成AIを活用したアプリケーションがさまざまな部門に点在しています。それらをマルチエージェント型 AI システムでつなげられたら、例えば設計について相談したときに、デザイン面も考慮した提案を出してくれるといった活用ができるのではないかと考えています。
片桐は、あくまで“人”の能力を拡張するための活用を見越していると力を込めます。
人と分散型のマルチエージェント型AIシステムを掛け合わせることで、AIエージェント同士の議論の中に利用者が入っていくような使い方を考えています。その結果、利用する人々が自身の発想の限界を超えていくような効果をもたらせればと。まずは個人の能力の拡張に焦点を当て、一歩先のものを生み出すための仕組みの一つにできると良いと思います。
山本は本システムをコミュニケーション形態の研究に活かすことにも意欲を見せます。
例えば、今回のAIエージェントのように一つの分野のあらゆる知見を蓄えた存在が、一番得意なコミュニケーション形態は何か?AIだけで議論するのがよいのか、人間の議論もいれたほうが良いのか、といった研究を進められたら面白いですね。また、分散型の仕組みを持ったシステムの場合、一番効果的なアウトプットはどんな形なのかなどの研究を広げていきたいです。
研究と論文化の具体プロセスを整備・推進した山本
「論文が採択されて終わりではなく、これをHondaの商品開発などに応用していくことが重要」と話す伊藤も、個々人の能力の拡張とより良い製品開発の後押しを目指していると頷きます。
現在のAIは、主に作業の自動化や効率化といった領域で価値を発揮しています。ですが私は、エンジニアが積み重ねてきた自動車開発のプロセスに対して、AIが新たな視点や方法をもたらす存在になると信じています。これまでにない開発手法や製品の創出を目指し、挑戦を続けていきたいと思います。
さらに伊藤はこの採択を経て、社内の生成AIエンジニアの動きにも期待を寄せます。
AIの分野の研究実績は、大手プラットフォーマーが圧倒的で、社内には“自分たちでは無理なんじゃないか”といった空気もあったと思います。でも、Hondaからだって世界に通じるAI技術は出せる。それを証明できたのが今回の採択だと思っています。Honda内であらゆるエンジニアがAI開発に自発的に取り組み、挑戦する文化が根づいていく。今回の採択が、そうした流れをつくる第一歩になればうれしく思います。
撮影場所: WeWork メトロポリタンプラザビル
自動車には燃費や環境性、デザインなど多様な性能が求められますが、それぞれの最適化が相反することも少なくありません。開発現場では、専門家たちが知見やエビデンスを交えてバランスを探る議論が行われていますが、そこに今、生成AIの活用が広がりつつあります。蓄積された関連データや知見をもとにAIが技術を説明するプロセスが社内で導入され始め、将来的にはAIエージェント同士が専門家の代わりに議論する開発手法の実現も視野に入っています。