POINTこの記事でわかること
- 2024年はセナ没後30年でHondaのF1参戦60周年の節目の年である
- セナが駆ったF1マシンのエンジンを精密に再現した模型の制作が決定
- Hondaは世界一、世界初にこだわったものづくりでレースを勝ち抜いてきた
アイルトン・セナはブラジル出身の伝説的レーシングドライバーとして知られ、日本でも「音速の貴公子」の異名で親しまれてきました。
そんなセナがレーシングアクシデントでこの世を去ったのは、1994年5月1日、イタリア・サンマリノグランプリでのこと。セナ没後30年にあたる2024年、エンジンスケールモデルの制作を得意とする日下エンジニアリングは同社としてHondaエンジン初のモデル化にRA100 Eを選びました。1990年アイルトン・セナもドライブしたマシンである、マクラーレン・Honda MP4/5Bに搭載された 3.5リッターV型10気筒エンジンです。1988年を最後にターボエンジンが禁止され、それまでターボエンジンで常勝を誇っていたHondaが開発した自然吸気エンジンでもあります。
今回は、エンジン模型制作を手掛けた日下エンジニアリング株式会社の代表取締役、佐々木禎(ささき・ただし)氏と1989~1991年の間アイルトン・セナの担当エンジニアとしてエンジン開発に携わってきたHonda OB、現:株式会社東陽テクニカの取締役CTO/技術本部長、木内健雄氏のお二人に、セナ、そしてエンジンモデル制作への思いをお伺いしました。
常人にはない感覚を持つ天才。素顔はやんちゃな一面も
セナはロータス・Honda在籍の1987年から、マクラーレン・Honda時代の1988~1992年、Hondaのエンジン搭載車に乗り、数々の勝利を獲得してきました。当時その活躍をどのようにご覧になっていましたか。
僕はクルマ好きでセナの大ファンだったので、まだテレビ中継がなかった頃から雑誌などで活躍を追いかけていました。1980年代後半に中嶋悟さんがF1レーサーになってからはテレビでも中継が始まって、F1がぐっと身近になりました。僕はレースの中継をテレビにかぶりついて観ていましたし、世間的にも大変な盛り上がりを見せていましたよね。
日本では「音速の貴公子」なんて呼ばれていたけど、実際のセナはやんちゃな弟みたいなやつだったけどな(笑) でも、天才だった。「セナ足」と呼ばれた、アクセルワークはほとんど貧乏ゆすりに見えるほどの速さだったし、全身の感覚が研ぎ澄まされていて、常人では理解できないものを感じ取る能力があったんです。
忘れられないのが、イギリスのシルバーストン・サーキットで実施していたテスト走行。セナの乗った車両が第1コーナーを曲がったところで、急停車したんです。「あれ、どうしたんだろう?」と思って見守っているとセナが歩いて戻ってきて、「多分クランクのベアリングが焼き付きかけてる。壊れる前に止めておいたから原因を調べておいてほしい」と言うんです。
焼き付きかけてるだけなのに、そんなの分かるわけがないと思って調べてみると、本当に焼き付きかけていた。次のレースまでに打てるだけの手を打ちましたが、なんでそんなことが分かったんだと聞いたら、セナは「排気口から聞こえてくる音が変わった」と言ったんです。
彼はマシンを力でねじ伏せる運転をしなかったし、できなかった。その代わり、ありとあらゆる感覚を研ぎ澄まして、どうすればこのマシンを早く走らせることができるのかを考えながら走っていたんですよ。
当時、Hondaのレーシングチームは常勝で、レースで勝つのは当たり前。表彰台上位を独占し、勝つ前提でどんなふうに勝つのか、セナプロ対決(当時チームメイトだったセナとアラン・プロストの激しい上位争い)の行方がレースの焦点だったほどでした。
1位を獲り続けるマシンを開発するのは大変です。どれぐらい性能を上げれば次も1位になれるのか分からない、そんなプレッシャーの中で、「ぶっちぎりではなく、もうちょっと接戦で1位を獲れるようにできないのか」なんて言われたりもして、困りましたね(笑)
そんな時代の中で、セナはサンマリノグランプリでこの世を去りました。当時のことをどのように思い出されますか。
アクシデントの瞬間はテレビで見ていて、思わず悲鳴を上げました。その後、明け方まで延長されたテレビ中継をずっと見ていましたが残念な結果となり……。それ以後、あまりのショックでしばらくF1から心が離れてしまいましたね。
そのときHondaがF1からすでに撤退して約1年、彼がチームを離れていたタイミングでした。アクシデント当日、僕は休暇中で山形に帰省していたこともあって、何だか現実味がなかった。まだ一緒に組んでいた頃だったら、もうこんな精神状態ではやっていられないと、出社拒否していたでしょうね。
いずれにしても、突然どこかの国からポンと来て、ワッと世の中を熱狂させ、パッと消えた。そんな伝説のレーサーでしたね。
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Honda | Honda Racing Gallery | F1 第二期 | McLaren Honda MP4/5B (alt-style.co.jp)
焼け色から手触り感まで細部を徹底再現
2024年、そんなMP4/5BのエンジンRA100Eを1/6スケールでモデル化。2025年に開催されるTokyo Auto Salon(TAS)への出展が決まりました。改めて、今回の模型制作の経緯についてお聞かせください。
今年の春に幕張で開催された「AUTOMOBILE COUNCIL(オートモービルカウンシル)」というイベントで「アイルトン・セナ没後 30 年 特別企画 駆け抜けた天才の記憶」という特別展示が開催されていたんですよ。その道中に寄った新名神高速道路の鈴鹿パーキングエリア(PA)では、セナが1990年にF1ワールドチャンピオンを獲った際の車両がエンジン部分を露出した形で展示されていました。僕はうれしくなって、その日、会社のFacebookで「没後30年だし、このエンジンを作りたい」とつぶやいていたんです。
するとその後、2024年がHondaのF1参戦60周年ということもあり、セナのエンジン模型を作ってほしいとHondaさんからオファーをいただくことができました。偶然ですがうれしかったですね。
佐々木さんがエンジン模型開発を手掛けられた経緯についても簡単に教えてください。
子どもの頃からクルマが好きで、幼稚園のときから既に、模型ばかり作っていました。2010年に起業してデリネーター(視線誘導標)の製造開発を手掛ける会社を立ち上げましたが翌年の震災で仕事が激減。そこで、会社存続のための新しい事業として当時乗っていたクルマのイルミネーションエンブレムを作ったことからクルマとの接点が生まれました。
その後、日産スカイラインGT-R 25周年を記念したミニカーを作らないかと提案されたんです。「名車というのは名エンジンありきなんだからミニカーではなくエンジン模型を制作したい」と返答したところ、快諾していただきました。そこから、日産、マツダ、スバル、トヨタとさまざまな企業の模型制作を手掛けさせていただき、最後にHondaさんとようやくお仕事ができました(笑)。
制作にあたってのさまざまなこだわりについてもお聞かせください。
このエンジン模型は樹脂で作られているんですが、実際のエンジンは鋳物です。排気系は火を入れる前はシルバーですが、使用していくと熱が入ってこのような焼け色になる。しかもパイプに熱が伝わっていく順番があるので、その熱の伝わり方が表現できるよう、カーブのところは熱がたまるので焼け色を濃く。そういった細部の色合いに非常にこだわりました。
このタコ足、全部が同じ長さになるようにこのような形状になっているんですが、1本1本全部形状が違わないと、こんなふうにまとまらないんです。それにお互いの足に触れ合わないようにもしなければいけないので、これはすべて手作業で細かな調整をして作られているんですよ。
この模型は、我々が携わってきたレーシングエンジンの雰囲気がすごくよく出ていますね。アルミの鋳物のざらざらした手触り感が違和感なく見て取れる。バランスがいいですね。
ありがとうございます。また、サイズについてもディテールを表現しながら場所を取らない、最もバランスがよいサイズに調整しました。どこを強調して分かりやすい見た目にするのかという、見やすさとリアルのバランスにもこだわりましたね。
模型は単体で「見せる」ことを意識してデザインしている。我々は性能における究極を追求してきたけれど、いちエンジニアとしてはエンジンも単品で、このエンジンが良かったねと言われたいし広めたいと思っていたんですよ。そういう意味で、エンジンモデルということにこだわって仕事をしている、人に見せるために作っているというところに共感するところはすごくありますね。
それは世界初か? 常に新しい挑戦にこだわる開発者の魂を再現した模型
改めて、エンジンに対する思いをお聞かせください。
僕は自分の専攻を生かせるという理由で、当時電子制御開発に力を入れていくと宣言していたHondaに入社を決めました。もともとクルマにもエンジンにも興味はなかったんですよ。F1レースなんてマシンが葉巻型だった頃のモナコグランプリの荒れたレースを見て以来「自動車レースって危ないんだな」と思っていたぐらいでした(笑)。
でもこのエキマニ(エキゾーストマニホールド:排気ガスを排気流路に送るパイプ)の美しさはたまらないですよね。左右対称のタコ足状のエンジンは、V10なのにコンパクトにまとまっている。最軽量にするために表面から色々と削ぎ落されているため少しぼこぼこしているんですが、僕はこのターボから自然吸気に代わったエンジンをどうしても表現したいと思ったんですよ。
モデルを作るのもエンジンを作るのも似ています。僕はエンジンにもクルマにもこだわりがなかったけれど、1つだけポリシーがありました。挑戦するからには世界一のもの、世界初のものを作りたかった。
エンジンはシャシー(自動車の車台や骨格)との関係性で成り立つので、サイズ、重さ、その他さまざまな物理的な制約をクリアしながら、しかもコストも抑えて、そしてレースで1位を獲り続けなければならなかった。
うちの若い連中が作ったレースの解析データを、レース前でナーバスになっていたセナが丸めて放り投げたときは、セッション前でしたが「お前のマシンに乗せるエンジンなんかねぇ!!」と彼に怒鳴ったこともありましたし(笑)。それぐらい、お互い本気だったんですよ。
モデル制作も実際のエンジン制作と同じように、写真を見てスケールを図り、原形を作って、それを組み合わせながら作っていきます。今にも動き出しそうなリアルさの追求に加え、開発者の皆さんの魂を吹き込むことが僕の使命だと思っているので、模型を見た皆さんに「Hondaのエンジンってやっぱりすごい!」と思っていただきたいですし、開発に携わった方に当時のことを思い出していただけるような本物感に仕上げていきたいと思っていつも制作しています。
それになぜいま作るのかという制作の必然性も重視しているので、このタイミングで憧れのエンジン模型を作れたことはとても光栄です。さらに、(そのエンジン開発を手掛けた)木内さんは僕の憧れの人でもあるのでお話を聞けてうれしいです(笑)。
ありがとうございます(笑)
最後に、これからのHondaに期待することについてもお聞かせください。
僕が研究所にいた時代は「それは世界初か?」とよく聞かれました。「違います」と答えると「そんなものを持ってくるな」と怒られたものです。だからこれからも、技術でも仕事のやり方でも何でもいいんですが、世界初のこと、世界でいちばんのことにこだわってほしい。日本という小さな国が世界に肩を並べていくために必要なことなのではないかと思いますね。
Hondaにはこれからも内燃機関の開発を通じて蓄積してきたノウハウや技術力を残して受け継いでいってほしいですし、F1の現場で培ってきた技術を量産車へ転用するというスタイルを続けていってほしいなと思いますね。僕にとってはやっぱり、F1=Hondaという思いが強いので。これからのHonda、そしてF1シーンも楽しみにしています。
ありがとうございました。
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僕がエンジニアとしてデビューしたのは1987年のベルギーグランプリからです。その年の決勝レースはマンセルとセナが接触してリタイアするという荒れたレース展開で、レースを終えて戻ってきた2人がピット裏で喧嘩しているのを見て、ワイルドな世界だなと思いましたね(笑)